外③
フェンスからぼくの家までの道のほうがまだましだった。ラオ爺を置いてきてよかったと思った。丘までの道は、とても道とは言えず、家で見つけた鎌で絡まる草木を切りながら進んだ。草を刈る時の匂いが空気を満たす。この匂いも30年ぶりだった。色と匂いに囲まれて、叫び出したいような気分になるのに、叫ぶ言葉がうまく見つからなかった。ただ、なぜこんなにも何もかもが奪われているのかどうしてもわからない。ここには何もかも懐かしいものが溢れているのに。ここに世界があるのに。どうしたらあの流れを止めることができたのだろうか。ぼくは子どもだったとはいえ。
頭の中を雑念が暴れまわる中、登り続ける。思考は止まらず靄がかかったような感覚に襲われる。そして昔、林檎園があったあたりにたどり着くと、確かに、微かに甘い香りを感じた。全ての木に実っていたわけではなかった。朽ちた木もあったし、実を一つもつけてない木もあった。でも、幾つかの木には小さな林檎が実っていて、薄い日差しに照らされたその輝きがぼくの目に飛び込んできた。僕は一つをもぎって齧った。歯をたてた途端、汁が滲み出て酸味が広がる。懐かしさではなく初めて味わったような強烈な刺激だった。果物の味を身体が忘れていたのだと思う。ずっと栄養食と蒸留水だけで生きていたのだから。ぼくはまた泣いた。ラオ爺を連れてこなくてよかったと思った。誰もいない外の丘で、ぼくは恥も外聞もなくわんわん泣いた。子どもの頃のように。心ゆくまで。
袋に林檎を詰めて、丘をくだってラオ爺のために持ち帰った。ざっと数えて100個は収穫できそうだった。ラオ爺は幾つかの林檎を眺めて言った。
「昔より随分小ぶりだが100個もあるなら十分だ。時期的にはもうちょっと待って林檎が自分で実を落とすくらいの時期に仕込むほうが美味しく仕上がるだろう。まずは酵母をつくらんとな。あと樽と絞り機も必要だ。」
酵母か。そうか酒造りには酵母がいるのか、すっかり忘れていた。だけどラオ爺によればそれはそんな難しいものではないらしい。昔は山葡萄で作っていたという。山葡萄、どこかで見かけたな。まず酵母を仕込み、樽をみつけてきてよく洗い乾かさなければ。林檎を潰し絞る道具などの用意も必要だ。そしてそれらの楽しい作業と並行して、本来の役目である見取り図も作る。ぼくとラオ爺は手分けして動いた。二人っきりの外の日々は、途方もなく自由だった。ツバサは特に期限を伝えなかったが、そう長いこと城をあけるわけにもいかないだろうと、ぼくは2,3日して様子を確かめるために戻ってみたが、誰もぼくとラオ爺の不在を気にかけているようでもなく、放置していた仕事を済ませてぼくはまた外の世界に戻った。ラオ爺はぼくが採ってきた山葡萄から酵母をつくっていた。着々とアップルシードル造りは進む。なんてことだろう。これは夢では?
ラオ爺はぼくが古い揺り椅子を修理したのを気に入って、海が見える位置に引っ張り出して暇さえあればそこで過ごしていた。遠くに見える海は今は白く美しくて、酷い災厄をもたらす存在だとはとても信じられないほど穏やかだった。
「ずっとここにおりたいよ」
ラオ爺はぽつりと言った。
「わしはここで死にたい。もうあそこには帰りたくないわ」
その気持ちが痛いほどわかる。ぼくたちは過去に生きてきた。過去の暮らしだけがぼくたちの支えだった。それが全てここにあるのに、またあの無味無臭の何もない暮らしに戻るのは、ぼくにもきついがラオ爺にはなおいっそうこたえるのだろう。
「無理だよ。ぼくたちには自由がない」
ラオ爺の返事はない。
ぼくもラオ爺をここに居させてやりたかった。声をかけてそう言ってやりたいがやめておくことにする。ラオ爺は黙って眼を閉じている。ぼくもこのままでいたかった。ここでの幸せな夢を見たくて、ぼくも黙って目を閉じた。




