子狸の大親友
ある日、女神様の森の中。
領主様たちは、熊さんに出会いました。
出会い頭にばったりです。
森の最奥にほど近く、領主様にとっては通い慣れた巡回経路。
加えて、熊よけの鈴はいつも通り携帯中。何なら、今もちりんと鳴っています。
……まあ、この状況で、ちりんと涼やかに音を立てたとして、何の意味があるかは甚だ疑問ではありますが。
少々現実逃避してしまいそうになりますけれど、現状は変わりません。
彼らの前、木漏れ日の零れ落ちる長閑な森の道に立ちふさがるのは間違いなく。
熊です。
それも、大熊。
普通の熊よりも一回り、いえ、二回りは大きいでしょうか。片方の目に刻まれた傷が歴戦の勇者のような貫禄を醸し出しています。
「…………」
ずっしりとした大きな獣を見据えながら、領主様と従者はとても冷静でした。
子狸を片手に抱え、怯える馬を宥める領主様の斜め後ろで、従者がすっと気配を消します。
動物たちはとても気配に敏いのです。それは熊も同様で、少しでも殺気を洩らそうものなら、容赦なく襲ってくるでしょう。
静かに張り詰めていく緊張を、しかし、ちょっきんと切ったのは子狸でした。
「きゅわ」
いつもは大人しく領主様の腕の中に納まっている子狸がぴょいと抜け出し、熊の方へと駆け寄ったのです。
慌てたのは領主様と従者でした。
「ネリ!」
ぴたっと足を止め、子狸は首だけで振り返ります。けれども、戻っては来ず、まん丸な後ろ姿で尻尾ごとお尻をふりっと振りました。
大丈夫だよー。
と、呑気な声が聞こえてきそうな様子で熊と相対します。
威圧感漂う熊の方はと言えば、足元にやってきた小さな狸を見下ろすと……、気のせいでしょうか。
ちょっとだけ肩を落としました。
円らな眼差しの狸を威嚇することもなく、踏みつぶすことも噛み付くこともなく、じっと見つめます。
程なくして大熊は小さな子供の我儘に折れた親のように目をつむり、それから、その大きな体躯を屈めて、子狸の前に前脚を出しました。
ぱぁと目を輝かせた子狸は伸ばされた熊の前脚の上をとことこ登っていき、その背に到達。
首の後ろ辺りにちょんと腰かけると、得意そうに一鳴きしました。
そして、見上げる領主様と従者に向けて。
子狸の大・親・友、熊さんです! と。
手振り身振りで大熊を紹介したのです。
どどーんと満足そうな子狸とは反対に、熊はがっくりと項垂れています。
ああ、一方通行なんだな。
領主様たちは、静かに察しました。
見た目によらず、この熊は大変面倒見が良いのでしょう。しかし、熊にとっても此処まで懐かれるのは想定外だったようで、完全に途方に暮れています。
そんな大熊に、何と無く申し訳ない思いにかられた領主様は助け舟を出すことにしました。
戻っておいでと両腕を差し出せば、子狸はとことこ素直に戻ってきます。
ほっと、熊が息を吐きました。
熊でも安堵の息を吐くということを、初めて知った領主さまです。
さて、嬉々として彼のもとに戻った子狸は、人になって如何に熊さんがいろいろなことで助けてくれたのかを語り始めました。
例えば、うっかり迷子になっていたら女神様の湖まで連れて行ってくれたとか、お腹をぎゅるぎゅる鳴らしていたら美味しい木の実のなるところを教えてくれたとか、寝るところを探していたら小さな洞穴に放り込んでくれたとか。
「狩りの仕方も熊さんに教わったのです!」
「それでか」
成程、子狸の知っているあのアグレッシブな狩りの仕方は、熊直伝だったのです。
道理で狸らしくない狩りだったわけです。
領主様と従者はしみじみと納得しました。
非難がましく熊を見れば、熊は不本意そうにぐるっと喉を鳴らします。
「教えてない。見て勝手に真似ただけだ、だってー」
きょとんとした顔で子狸が翻訳します。
理不尽な非難でした。
「あ、うん。なんかごめん」
謝罪すると、熊は唸るのをやめ、こくり頷きました。
何とも寛容な熊です。
「蛇さん捕まえてくれたのも、熊さんなのですよ!」
花でも飛んでいるのではないかと思うくらいご機嫌な狸に、ずりずり、びったん、びったん、引きずられてきた青くて脚のない不憫なやつ。
そして、使用人たちの悲鳴を思い出し、従者は思わず額に手をやりました。
なるほど、あれをこの熊が仕留めてくれたのなら納得です。
「めっちゃ最近もお世話になってる……。いや、二度と取ってこなくていいからね? 噛まれたらどうするの」
苦い顔をして従者が言うのに、何故だか熊が一緒になって頷いています。
狸娘は不思議そうに首を傾げつつ、素直に頷きました。
……熊にしばかれ、子狸に容赦なくびたんびたんされた蛇に、噛み付く元気はきっとなかったでしょう、という事実は脇に置いておきましょう。
きょとりとした顔をした子狸となんだか似た者同士な熊と従者を見比べて、領主様は小さく笑いました。
女神様の森とは言え、幼い狸がこの弱肉強食の自然界で生き抜いてこられたのは、間違いなくこの大熊のおかげだったのでしょう。
子狸に生きる術を与え、見守ってきた熊は子狸的には大親友で、実際には育ての親をしてくれていたのです。……まあ、それを言えばきっと、熊本人は解せぬという顔をするに違いありませんけれども。
無自覚な世話焼き熊と呑気に笑っている子狸を見ながら、領主様はよかった、と心の中で安堵しました。
お屋敷に来る前も、子狸がずっとひとりぼっちだった訳ではなかったことにほっとしたのです。
勿論、ネリが孤独に蹲り、悲嘆にくれるような子ではないことを領主様は知っています。
それでも、たったひとりになった時の不安や孤独感を領主様も知っているから。
こんなに広く静かな森の中、小さな狸がぽつんとひとり。
そんなことを想像すると……とても胸が痛むから。
領主様に王様や従者がいたように、子狸にこうして大熊がいてくれたことが、とても嬉しかったのです。
ネリの頭をぽんと撫でると、ネリは顔を上げてまん丸な目で領主様を見上げました。
「頼り甲斐のある大親友だな」
浅葱色の目が優しく蕩けそうに柔らかに細められ、ほんのりと口元が引き上げられます。
大好きな大親友を大好きな領主様に紹介出来てご満悦だった子狸は、その瞳に伝えたかったこと以上の想いが伝わったと感じて、……なぜでしょう。
よくわからないままに、ぼたぼたと涙を零してしまいました。
けれどもわかっていないのは、子狸のネリだけで。
領主様も従者も、そして大熊も、その涙の理由が分かっているから。
ふすっと鼻を鳴らした熊は近くの木を軽く揺らし、人の姿をした子狸へと花を降らせました。
それは慰めではなく、祝福の。
温かな家族を得た子狸へ。
寡黙な熊からのやさしい贈り物でした。