【19】
いつもお読みいただき、ありがとうございます!
それでは、本編をお楽しみください!
暗く冷たい風が、地下深くから這い上がってくる。
第三層へと続く階段を下りる俺の背中を、より濃密で暴力的な死の気配が包み込んでいった。もう振り返ることはない。
* * *
一方、その頃。
『黒鳴の洞穴』の入り口に立ったリナの足は、完全に地面に縫い付けられていた。
「……っ、ぁ……」
ガチガチと歯が鳴る。身の丈に合わない杖を握る両手は白く鬱血し、膝は生まれたての小鹿のように震えていた。
洞穴の奥から漂ってくる、むせ返るような獣の体臭と、錆びた鉄のような血の匂い。暗闇の奥で木霊する微かな咆哮。
それらの空気に触れた瞬間、彼女の脳裏に、かつて暗闇の中で死にかけた記憶と、見捨てられた時の罵声がフラッシュバックした。
「行か、なきゃ……。あたしが、彼を助け……っ」
頭では痛いほど分かっている。あの無謀な剣士が、死に場所を求めてこの奥へ向かってしまったことを。
自分が追いかけなければ、彼は本当に死んでしまうかもしれないことを。
だが、一歩。たった一歩、暗闇の領域へ足を踏み入れようとした瞬間、リナの身体は完全に限界を迎え、糸が切れたようにその場に崩れ落ちた。
「……う、あ……あぁっ……!」
冷たい土の上にへたり込み、彼女はボロボロと大粒の涙をこぼした。
足が動かない。息がまともに吸えない。戦場という空間を前にすると、彼女の身体は自己防衛の本能から完全にフリーズしてしまうのだ。
急に勇気を出して深層へ飛び込めるほど、彼女のトラウマは軽いものではなかった。
ダンジョンに潜るどころか、入り口の境界線を越えることすらできない。それが、今の彼女の絶対的な限界だった。
「ごめんな、さい……。わたし、やっぱり役立たずで……っ」
己の臆病さと無力さに絶望し、杖にすがりつきながら泣きじゃくる。
だが――リナは、立ち上がって安全な街のギルドへ逃げ帰ることだけはしなかった。
中に入れないのなら。
恐怖で足が動かないのなら、せめてここで。
遠く離れたギルドのテーブルではなく、このダンジョンの入り口という、生と死の境界線のギリギリで彼を待つ。
もし彼が、瀕死の重傷を負いながらもここまで這い出てきてくれたなら。その瞬間に、一秒でも早くヒールをかけて、あの命を繋ぎ止めるために。
それから、どれほどの時間が経っただろうか。
冷たい土の上に座り込み、膝を抱えて震え続けていたリナの耳に、暗闇の奥から微かな音が届いた。
ズリッ……、ズルッ……。
何か重いものを引きずるような、不規則な足音。
それに伴って、鉄の錆びたような、ひどく濃烈な血の匂いが風に乗って流れてきた。
ビクッと肩を震わせ、リナは杖を握り直して暗闇を凝視する。魔物が這い出てきたら、今の彼女に抵抗する術はない。
しかし、漆黒の闇の中からヌッと現れたのは、岩壁にすがりつく血まみれの手だった。
「……えっ」
続いて姿を見せたのは、赤黒い血に染まり、ボロ雑巾のようになった一人の剣士。彼だった。
第三層の未知の恐怖と対峙し、念願だった『死に直結する圧倒的な蹂躙』を浴びてきたのだろう。右目は血で潰れ、左腕は力なくぶら下がり、腹部からは夥しい量の血が流れ落ちている。
本来なら即死していてもおかしくない致命傷の数々。だが、極限まで戦闘に最適化され尽くした彼の身体は、悪夢のような第三層でさえも彼を完全に死なせることはなく、ギリギリのところで生還させてしまったのだ。
「……っ、はぁ……、クソ……また、生き残っちまったかよ……」
死ねなかったことへの恨み言を血まみれの唇からこぼし、彼はそのまま、糸が切れたように前のめりに倒れ込もうとした。
「――っ!!」
その瞬間、リナの身体を縛り付けていた恐怖の呪縛が弾け飛んだ。
魔物への恐怖よりも、彼が目の前で死んでしまうことへの恐怖が完全に上回ったのだ。
彼女は無我夢中で駆け出し、冷たい地面に叩きつけられる寸前の彼の身体を、その小さな両腕で必死に受け止めた。
「あ……っ、いや、死なせない……っ! 『ヒール』!! 『ヒール』!!!」
彼の重みと、生暖かい血の感触にパニックになりながらも、リナは声の限りに叫び、ありったけの魔力を両手に込めた。
眩いほどの治癒の光が、薄暗い入り口の空間を煌々と照らし出す。
「……な、んで……」
霞む意識の中で、男は自分の血に染まりながら泣き叫ぶ少女の顔を見上げた。
安全なギルドのテーブルではなく、魔物の気配が漂うダンジョンの入り口。戦場に出れば恐怖で動けなくなるはずの最弱の魔法使いが、震える腕で必死に自分の命を繋ぎ止めようとしている。
「お前……なんで、こんな所に……」
「バカッ……! 死にたがりのおバカっ!! こんなになるまで、なんで……っ!」
涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、リナはひたすらに治癒魔法を注ぎ込み続けた。
魔物の咆哮も、暗闇の恐怖も、今の彼女の耳にはもう入っていなかった。ただ目の前にある、死にたがりの不器用な命を助けることだけしか見えていなかった。
血に塗れた男と、泣きじゃくる少女。
ふたりの『最弱』の距離は、このダンジョンの境界線で、確かに大きく重なり合ったのだった。
最後までお読みいただきありがとうございます。
最近戦闘シーンを書いていなかったので、ただただ「泥臭い死闘」と「痛みを伴う戦闘」が書きたくて始めました。
高尚なテーマやメッセージ性はありません。死にたがりの男と、後ろから勝手についてきて全回復させてしまう少女。このバグった二人が限界の死線でどんな最適解を弾き出すのか、作者自身もシミュレーションを回すような感覚で書いています。
チートのない血みどろの戦闘がお好きな方は、この先もお付き合いいただけますと幸いです。




