8話 タイパの代償
「あのぅ、参列者にダイブしても成仏しなければ、そのままこの世に留まってもいいんですよね?」
アパートを出て、錆びついた外階段を一段ずつ降りながら、ソウタは腕の中のノートを抱え直して、さも名案を思いついたかのように言った。
「さっきも説明したが、このまま現世に留まり続けるとな、少しずつ記憶が無くなって消滅するんだぞ?それでもいいのか?」
「えぇ、構いませんよ」
ソウタは、夕暮れの冷たい空気をすり抜ける自分の透き通った手を眺め、感情の起伏のない声で淡々と答えた。
「苦痛も無く、誰にも迷惑をかけないのであれば現世で老いさらばえて死ぬことよりもよっぽどマシですよ」
少し歩くと、カフェのテラス席で激しく言い合っている男女のカップルが目に入った。男が机をコンコンと指で叩き、女は顔を真っ赤にして憤慨している。絵に描いたような修羅場だ。それに気づいたソウタは吸い寄せられるようにじっとその様子を眺めている。
「なんだ?知り合いか?」
「いえ……ただ、なんとなく」
ソウタはすぐに視線を逸らし、関心がないふりをして歩調を早める。そのどこか歪な様子に、俺は少し意地悪な笑みを浮かべて肩をすくめた。
「ははぁ、わかったぞ。幽霊になったことを良いことに、女性の入浴シーンとか覗き放題とか考えてるんだな?」
「ち、違いますよ!」
ソウタの青白い頬が、一瞬で真っ赤に染まった。幽霊のくせに、人一倍プライドと羞恥心だけは一人前らしい。
「わかるぞ。健全な男子たるもの、一度くらいはそんなことを考えるよな。ここからちょっと行ったところに銭湯があるぞ、今からの時間ならパート上がりのお姉さんも入浴しているかもな。ちょっと寄っていくか?」
「行きませんよ!そんなの犯罪じゃないですか!!」
「え?行きたくないの!?俺もたまーに行きたくなる時があるんだけど」
「え!?行ってるの!?」
「まぁ…冗談はされおき、犯罪とかっていうのは生きていた時の話だからな……」
「え……」
俺の静かな一言に、ソウタは思わず言葉を詰まらせ、足を止めた。
「生前は、人と人が傷つけ合わずに生きていく上で、そういう法律やルールが必要だった。だが、死んだ今のお前には、もうそんなものは必要無いんだよ。お前が覗こうが、何をしようが、お前が現世に与える影響は文字通り何も無くなったんだ。ルールで縛る意味すら、お前にはもう存在しない」
「……」
「それにな、食欲が無くなったように……性欲なんてものも、その内無くなっていくんだよ。そうして名前も忘れ、静かに何もかも失って消えていくんだよ」
ソウタは唇を噛み締め、悔しそうに使い古されたノートの端を指先で握りしめた。
「……別に、覗きがしたいわけじゃない。俺はただ、他人の『人間観察』が趣味なだけなんですよ」
ソウタは使い古されたノートを握りしめる。
「人間観察、ねぇ……。そんなもん、自分が実際に泥をすすって体験するのと、安全な特等席から俯瞰して見るものは、全くの別物なんだぞ。お前、生前はずっとそうやって、他人の人生を外側から眺めて生きてきたのか?」
「だってタイパが悪いじゃないですか」
「た、たい…ぱ?」
「タイムパフォーマンスですよ。時間対効果。人間関係を築くための時間を作っている暇があれば、他人を観察する方が手っ取り早いですよ。その方が効率的に人間を理解できる」
ソウタは、防衛本能を剥き出しにして早口でまくしたてた。
「あっそ……」
(今のこいつに何を言ってもわからないんだろうな……)
ソウタが成仏を拒絶した理由、死後もこの場所に居続けたいという理由が俺にはわかった気がした。
ソウタは生前から他者と隔絶しながら生きてきたのだ。俯瞰して人を観察し、何かがわかった気になる……そこには己の体験を元に感じ、築き上げたものとは決定的に深い溝があることを、こいつは人生の中で経験する機会すら無かったということだ。
「じゃあ、行くか」
俺はそれ以上の説教を飲み込み、無言のまま歩き続けた。
町の小さなセレモニーホール―――そこでナンバソウタの葬儀がしめやかに執り行われようとしていた。
和室の中には、数人の親戚と、彼の両親だけが、重苦しい静寂の中で葬儀が始まるのをじっと待っていた。ソウタは葬儀場の入口の幕の前で、中に入ろうとせず、そのまま立ち尽くしていた。
「おいおい、主賓がそんなところで突っ立ってるなよ、ほら、中に入るぞ」
「いや……みんな、意外と律儀に来てくれるんだなーと思って。俺だったら、従兄弟が死んだって聞いても、バイトのシフトとか理由にして自分からは参列しないと思います」
「最近は冠婚葬祭でもなければ、親戚一同集まることなんてないもんな。お前もお年玉をもらった時くらいしか、あの中にいる連中の記憶はないだろ。……だがな、それよりもお前、自分の母親のことくらい、少しは心配したらどうなんだ?」
俺が指差した先。
祭壇のすぐ側で、魂が抜けたような放心状態で座り込んでいるソウタの母親の姿があった。生前、ソウタがどれほど心を閉ざしていようとも、その背中を見つめ続けていたであろう女性だ。
「……もう死んでいるんですから、俺にできることは何もないでしょ。今更心配したって、しょうがないでしょ」
ソウタは感情を遮断するように冷たく言い放つも、その瞳は微かに揺れていた。
「それよりも早く終わらせましょう。……親父以外なら、誰の脳内でもいいので、案内人さんの判断でお任せします。サクッと仕事、済ませてください」
「そうか。じゃあ、そのお前の母親にダイブしよう──私語禁止だ。しっかり掴まってろよ。ダイブ、スタート」
俺が端末の半透明の画面をタップした瞬間、ノイズが世界をかき回し、俺たちは母親の意識の深淵へと潜っていく。
視界が明転した瞬間、地獄のような深い悲しみの熱量が、ソウタへとダイレクトに突き刺さってきた。
【ソウタ……何もしてあげられなくて、ごめんなさい……ごめんなさい……!】
「え……?今のは?」
ソウタが、自分の胸を押さえて驚愕の声を上げる。
「これはお前の母親の、今この瞬間の、剥き出しの感情だ。おい、お約束だろ。ダイブ再生中は、私語禁止だからな」
「わ、わかりました……」
ソウタが口を噤むと同時に、母親の意識の底から、過去の『在りし日の記憶』が走馬灯のように周囲の情景を塗り替えていく。
景色が変わり、映し出されたのは、今から七年前──ソウタが十九歳だった頃の、実家でのある日の夕食の食卓の一コマだった。
テレビの音が虚しく流れる中、カチャカチャと箸と食器の音だけが響く重苦しい空気。その沈黙を破るように、父親が箸を置き、ソウタを鋭い眼光で睨みつけた。
「ソウタ! お前は春からせっかく大学に通い出しているというのに、講義が終われば毎日真っ直ぐ家に帰ってきて、自室に閉じこもって一体何をしているんだ!?」
ソウタは父親と目を合わせようともせず、茶碗を見つめたままボソリと呟く。
「別に……特に用もなければ、大学に長居する意味なんてないだろ……」
「大学の講義を熱心に受けて勉学に励むとか、サークルに入って友人を増やすとか、もっとあるだろう! 将来社会に出るために、もっと有意義な時間の使い方があるだろうに、なぜお前はいつもそうなんだ!?」
「……あなた、そんなに怒らなくても。ソウタも、好きで一人でいるわけじゃ……」
母親が必死に間に入ろうとオロオロしながら父親を宥めるが、ソウタの口から漏れ出た自嘲気味の言葉が、食卓の空気を完全に凍りつかせた。
「仕方ないじゃないか。第一志望の大学に落ちて、たまたま偏差値だけで選んだ、興味もない学部に行ってさ。そんなところで、今更何かをしたいとか、友達を作りたいなんて考えられるわけないだろ」
「なぜそうやって、いつも過去を引きずって後ろ向きなんだ!」
「……ごちそうさま」
ソウタはそれ以上父親の言葉を聞こうともせず、食事も途中のまま席を立ち、足早に自室へと逃げ込み、ドアを乱暴に閉めた。
「またそうやって、自分の殻に閉じこもるのか! だったら、社会に出るための練習だ! お前は一人で賃貸アパートに住んで、自分のことは全て自分でなんとかしろ!!」
廊下にまで響き渡る父親の怒号。それを、母親はただ胸を痛め、祈るように両手を握りしめて見つめることしかできなかった。
カチリ、と俺は一旦、母親の記憶の再生を一時停止した。周囲の時間がピタリと止まる。
「なるほどな……。お前が親父さんにダイブしたくなかった理由が、よーく分かったよ。それにお前、大学時代は典型的な『ぼっち君』だったってわけか」
「別に四六時中馴れ合う必要はないじゃないですか」
ソウタは、停止した記憶の中の父親を睨みつけながら、自分を正当化するように吐き捨てた。
「話し相手がいないわけじゃなかったし、無理して中身のサークル入って群れることも、それこそ時間とエネルギーの無駄でしょ!? 大学なんて、最低限の単位をとって、就職活動をするための場所だと割り切ることの何がいけないんですか?」
「別に、お前のその割り切り方自体が悪いとは、俺も思わんよ」
俺は冷めた目で、彼の腕の中のノートを見つめる。
「だが、サークルも友達もタイパが悪いと切り捨てて、引きこもっていたお前は一体何をしてたんだ?」
「やりたいこともできたんだ!」
ソウタは言い返すように叫び、しかしすぐに、自分の腕の中に抱きしめられた一冊のノートに、ふと気まずそうに目を落とした。
俺は無言で、手元の端末の再生ボタンを再びタップする。時間が動き出す。
場所は変わり、ソウタが父親によって強制的に一人暮らしをさせられたソウタの独り暮らしのアパートのようだった。
【あの子……ちゃんとご飯食べてるかしら。大学で、うまくやれているのかしら……】
「ソウタ、これから寒くなってくるから、長袖の服を持ってきたわよ。それとこれ、今夜の晩ごはんと、明日の朝ごはんに食べなさい」
「母さん、俺に構うと親父に怒られるよ。飯なんて学食やコンビニがあるんだから大丈夫だってば」
ソウタは迷惑そうな顔をしながらも、母親がタッパーに詰めてきた家庭料理を冷蔵庫へと仕舞う。
「でも……コンビニ弁当ばかりじゃ栄養が偏ったりするから……」
それからも、走馬灯のように、母親が夫の目を盗んで、何度も、何度もソウタの狭いアパートに通い詰め、惣菜を届け、仕送りを置いていく映像が、無数の記憶の断片として映し出されていく。
そして、ある日の昼下がり。
ソウタが大学の講義で不在の時、母親が合鍵を使って部屋に入り、甲斐甲斐しく洗濯物を畳み、床に掃除機をかけている場面へと記憶が収束した。
ふと、母親の手が止まる。
ベッドの枕元にぽつんと置かれていた、一冊のノート。
母親は何気なく、我が子がアパートでどんな生活をしているのかを知りたくて、その中身をめくり、広げて読み始めてしまった。そこには、ギチギチの細かい文字で書かれた、異世界設定やチート能力、そして社会への呪詛が渦巻く、膨大な小説の設定とプロットが書き殴られていた。
「あぁっ!!! ちょっと待って、タイムタイム!!! ストップ!!!」
葬儀場の隅で、ソウタが顔面を崩壊させて絶叫し、俺の端末を奪い取ろうと暴れた。
俺は即座に停止ボタンを押し、呆れた目を彼に向ける。
「おいおい、私語厳禁って言っただろ。ルールは守れ」
「だって……! 嘘だろ、母さん、あのノート読んでたの!? 読まれていたなんて、今の今まで夢にも思っていなかったから……! マジで黒歴史すぎて死にたい、いやもう死んでるけど!!」
「えーと……なんだこれ。記憶の画面に映ってる文字を見る限り……小説のプロットか? キャラクターの相関図とか、ネタ帳の類だな」
「わぁーーー!見ないでください!」
ソウタはノートを背中に隠し、耳まで真っ赤にしてのたうち回っている。
「なるほど、お前が幽霊になっても尚、命綱みたいに大事そうに抱え込んでいるそのノートの中身、これだったわけか。……何?お前、現実の人間関係からドロップアウトしながら、部屋の隅で小説家にでもなりたかったのか?」
ソウタはのたうち回るのをピタリと止め、俯いたまま、消え入りそうな声でポツリと呟いた。
「……いけませんか……? 現実がクソみたいだったから、自分の脳内だけで、完璧な世界を作りたかった。それの何が悪いんですか」
「いいや?別にいいんじゃねーの?大学時代からそこまでギチギチにプロットを練り込んでいたってことは、当然、一冊くらいは最後まで形にした小説があるんだよな? どこかに投稿したのか?」
「……いえ」
「え?なんで? 二十六歳まで時間なんていくらでもあったろ」
「だって……!」
ソウタは、泣き出しそうな顔で自分のノートを凝視した。
「いざ本文を書こうとして、投稿サイトを開いても、自分の考えていた設定に似たような小説なんて、既にランキングの中にゴロゴロ転がってるんですよ。それに、一生懸命一文字目を書き始めても、途中で自分の文章力の無さに嫌気が差してくるし。きっと投稿してもディスられたりするんじゃないかと思うと怖くなってやめちゃうんですよ……。あぁ、もうそんな過去のことはもういいですから! さっさと続きを再生してください!」
「……そうか」
俺はそれ以上何も言わず、ただ静かに、再び再生ボタンを押し込んだ。
母親の記憶の走馬灯は、そこから急激に速度を上げ、暗い色へと変色していく。
大学を卒業し、就職活動の末に、やっとの思いで小さな会社へと就職をしたソウタ。しかし、そこでも周囲の人間関係に馴染めず、上司の叱責に怯え、一年足らずで逃げるように退職し、実家へ戻ってきた彼の後ろ姿。
「いつまで甘えているんだ」と吐き捨てる父親からも逃げ出し、実家の近所のアパートに居を構え、ただただ、暗闇の部屋に閉じこもっていく息子のドアの前に立ち、少しでも栄養のあるものをと、ドアノブに食事を届け続けた母親の、不器用で、擦り切れるような毎日の記憶。
ザザッ、と静かな砂嵐の音がして、ダイブの接続が切れる。
視界は、あの読経だけが静かに響く、寂れたセレモニーホールの和室へと戻ってきた。
ソウタはもう、暴れることも、言い訳をすることもなく、ただ静かに床を見つめて立ち尽くしていた。
ダイブの映像の中で彼が見たもの──それは、いつまでも自分の居場所を見つけられずに迷子になっていた我が子を、ずっと気にかけ、少しでも何かできることはないかと、光の見えない暗闇の中で、無条件の愛を注ぎ続けようともがき続けた、一人の母親の、あまりにも等身大で本物の記憶だった。




