9話 成仏の決め手は母の愛ではなく……
葬儀は滞りなく済みクラクションの寂しげな音だけを残し霊柩車が出棺されていった――――
誰もいなくなった葬儀場の和室。供花の香りと、かすかに残る線香の煙だけが冷たく立ち込める空間で、俺とソウタはぽつんと取り残されていた。
「……案内人さん。本当はね、骨身に沁みて分かっているんです」
ソウタは俯いたまま、ぽつりと、掠れた声で呟いた。その目から、大粒の涙がポロポロと床の畳へと滴り落ちていく。幽霊の涙だというのに、それは畳の目を確かに濡らしていくかのように生々しかった。
「自分自身で泥をすすって、何かを体験すること。それを通して初めて、小説の中の登場人物たちの『輪郭』が形作られるんだってことを。いざ小説を書こうとした時、僕のこれまでの人生には、その本物の体験が圧倒的に足りないんだってことを……自分自身で、嫌というほど分からされていましたよ」
ソウタは、腕の中のノートを、指が白くなるほど強く抱きしめた。そのノートの角は、彼のこれまでの逃避と執着の歴史そのもののように、ボロボロに丸まっていた。
「高校までは……ただ学校に行けば、クラスの空気に馴染めなくても自動的に自分の席は用意されていた。でも、それ以降は違ってた。人間関係を築き、一生懸命頑張って、時には傷つきながら、自分の席や居場所を作るための努力をし続けなきゃいけなかった。……でも、それに気が付かずに、誰も俺のための席なんて用意してくれないことを言い訳に、俺は大学でも、就職先でも、どこにも自分の居場所が無いことを、ただ嘆くだけだった」
涙を拭おうともせず、ソウタは案内人である俺を、真っ直ぐに、強情な目で睨みつけてきた。その瞳の奥には、弱者の虚勢ではなく、己の人生の不甲斐なさと真っ向から対峙した、ひとりの人間の強い熱情が灯っていた。
「だからこそ……! せめて今ここで、この最低な挫折感を味わい続けながらでもいいから、現世に留まり続けてでも、一冊の、自分自身を本当に納得させられる小説を書かないと、俺は……成仏なんて絶対にできないんですよ!!」
26年間の人生をただの未完のまま、誰にも読まれないゴミとして消え去ることを拒む、どこまでも不器用な、しかし本物のクリエイターとしての魂の叫びだった。
俺はポケットからゆっくりと手を引き抜き、ソウタのみっともないほどに涙で濡れた顔を見つめて、静かに首を振った。
「いや、お前はもう、一冊の小説を書き終えているんだよ」
「……えっ!?」
ソウタは呆然と目を見開いた。
「タイパという体の良い言い訳を使いながらも、お前は自分の人生の何がいけなかったのかを必死に振り返り、未完のまま成仏して幕を閉じることを拒絶した。生きている間にそれを書ききることはできなかったが、お前の中に、お前だけにしか書けない『ナンバソウタ』という最高の一冊の小説が、今まさに編み上げられたんだよ。……あとはお前が、その表紙に題名を書くだけだ」
「案内人、さん……」
ソウタはしばらく考え込み、涙を袖でごしごしと拭うと、ゆっくりと口を開いた。
「……『おまいらはこうなるなよ』……この本の題名は、こうです」
ソウタは涙を滲ませたまま、どこか自虐的に、だけど完全に憑き物が落ちたような顔でクスリと笑った。ネットの底辺で燻っていた彼らしい、最高に不器用で、最高に血の通ったタイトルだった。
「はっはっは!! いいじゃないか。お前と同じ人種に向けた、実に温かみのある小説……いや、血の通った、最高のバイブルじゃねぇか」
そう言った瞬間、ソウタの足元が、内側から溢れ出すような淡く柔らかな桜色の光を帯びていった。
案内人である俺の言葉によって、彼を縛り付けていたすべてが完全に解き放たれていく、本物の成仏の光だった。
「印税生活ができなかったのだけが、ちょっと悔やまれますね」
「ははは、この期に及んでまだそんな軽口叩いているんじゃねぇよ。自分の人生という一冊を綺麗に書き上げて、本当は満足してるじゃねーか」
俺は、内心ホッと胸を撫で下ろしていた。
(よし……! 前回のミユの時とは大違いだ。今回は俺自身、あの土手での決意通り、感情を無駄に決壊させることもなく、最初から最後までビジネスライクに、かつ、これ以上ないほどにスマートな案内人の仕事を完遂できたぞ……!)
完璧なセルフコントロールと、マニュアル通りの美しい幕引きに安堵しきっていた、次の刹那だった。
──すん、と。
ソウタの足元を包んでいた美しい光が、文字通り風船が萎むように、急激に、かつ無惨に消え去っていった。和室に再び、どんよりとした現世の影が戻ってくる。
「……おい!! なんだよそれ!? おいお前、大人しく成仏しろよ!!」
俺の完璧でスマートな仕事の終わりが、一瞬で消え去った。俺は思わずソウタに怒鳴る。
「……すみません。俺……まだこの世に、ガチで強烈な未練が残ってたことを、今急に思い出しました」
ソウタは顔を真っ赤にして、あれほど命綱のように抱えていたノートで顔を半分隠しながら、モジモジと小刻みに身を震わせている。
「な、なんだと……!? 一冊書き終えて満足したんじゃねえのかよ!? これ以上の何が必要だっていうんだよ!」
「案内人さん……!」
ソウタは、生前に見せたことのないような、魂の底からの真剣な瞳を俺に向けて叫んだ。
「俺に、この街で一番おすすめの『銭湯』を案内してください!!」
「……は?」
あまりの落差に、俺の右肩がガクリと外れたように垂れ下がった。
「──バッカヤロウ!!! そんなの『案内人としての仕事のマニュアル』のどこにも載ってねぇんだよーーーー!!! お前さっき犯罪とか言ってたのどこ行ったんだよボケ!!」
静まり返ったセレモニーホールの和室に、俺の渾身の絶叫が虚しく木霊した。
だが、今や己の願望のまま行動することに目覚めてしまったソウタには、俺がいくら業務外だと叫び続けても、ただ縋りつくばかりだった。
『成仏する条件』を本人が明確に提示した以上、俺は断腸の思いで、ソウタのゲスな願いを聞き届けることにしたのだった。
──それから俺は、リニューアルした直後だという、街で噂の『大繁盛しているスーパー銭湯』へと、この業深な引きこもり作家志望を案内してやった。
「うわぁ……マジでリニューアル直後だから、大学生とかもいっぱい来てるんですね」
ソウタは半透明の身体を震わせ、賑わいを見せている光景を凝視している。
「……あぁ、お前は経験ないだろうがな、友達同士で街ブラして飯食って、その後に一緒にスーパー銭湯行ってのんびり語り合うっていうのも学生の楽しみ方の一つなんだよ。お前がタイパ重視で捨て去った可能性の一つだ」
「案内人さん!この暖簾の奥に天国が待っているんですね……!」
俺の話をロクに聞かずに、脱衣所の手前で鼻血を出しそうな顔でソワソワしているソウタは、生前であれば間違いなく一発で警察に通報されていたことだろう。
「それじゃあ、俺はここで帰るからな、適当に満足したら成仏しろよ―――」
俺が背を向けようとした、その時だった。
グワシッ!
「ちょっと待ってくださいよ! 案内人さん! もし満足したのに成仏できなかったらどうするんですか!? それに俺、独りで脱衣所の暖簾をくぐる勇気が無いですよ! 最期まで付き合ってください!」
冷たい幽霊の手が、俺のスーツの袖をガッチリと掴んで離さない。
「な、なんだとぉぉぉ!?」
――――その後、俺はむっつりスケベが、ハメと理性の箍を外して限界突破し、下卑たゲス顔を浮かべて暴れまわる様を、見せつけられることになった……。
だが、そんな狂乱の宴も、終わりは唐突に訪れた。
ソウタが満足し終えると、その醜悪だった顔からは、一切の苦痛や現世の未練が、まるで指の隙間から砂がさらさらとこぼれ落ちるように綺麗に消え去っていった。
うっすらと開かれたその目は、もはや何の一点を見つめるでもなく、ただ静かに己の足元を見下ろすような『半眼』の形をとっていた。それは、現世のあらゆることも許し、受け入れるような、底知れない深い優しさを湛えている。
そして、だらしなかった口元は、かすかに神聖な微笑が浮かんでいた。それはまさに、現世のあらゆるノイズや『タイパ』という呪縛から完全に解放され、絶対的な静寂と深い慈悲の境地へと至った顔そのものであった。
「おまいらはこうなるなよ」──。
その一冊を抱きしめたまま、ナンバソウタの魂は、眩い光の粒子となって今度こそ美しく成仏していった。
(……スマートな仕事、どこ行ったんだよちくしょう……。あのクズ男とメテオギャルの次は、この銭湯ゲス男かよ……。俺の担当するやつ、どいつもこいつも全員業が深すぎるだろ……)
目の保養を十分にできたにも関わらず、魂を削られたような何とも言えないドッと押し寄せる疲労感を引きずりながら、俺は次の現場へと、静かに重い足取りで歩き出すのだった――――。
9話 お読みいただき、誠にありがとうございました。
これにて第三章、完結となります。
今回は、現代社会に馴染めず、自分の殻に閉じこもるしかなかった26歳の青年──ナンバソウタの切なく、悲しい生き様を描かせていただきました。
ナンバソウタの控えめな「傷つきたくない」性格は、「傷つけない」前提にたっており、本来、優しい人柄として認知されるべきだと思います。
集団の中では、誰かの席や居場所を奪ったり、他者を貶めて自分を良い立ち位置にいすわろうとする人間は大小必ず存在し、彼はそんな人間の格好の餌食になってしまいがちです。
母親の無条件の愛に触れ、そのひたむきな頑張りを案内人に全肯定され、来世でのやり直しを胸に秘めて美しく光へ消えていく──そんな綺麗な終わり方でも、物語としては十分に成立したのかもしれません。
ですが、第一章、第二章と積み上げてきたこの作品の『熱量(お約束)』の引力には、作者としてもどうしても抗えませんでした。
成仏の決め手は、母の愛ではなく、まさかの湯煙の向こう側。
最後まで手に負えない、しかしどうしようもなく愛おしい彼らしい結末を、笑って見届けていただけたなら幸いです。
「時には、脱線せずに、最初から最後まで真面目で綺麗なヒューマンドラマも読んでみたい」といったリクエストなどがございましたら、ぜひ感想欄やメッセージにて、皆様の生の声をお聞かせいただけますと大変励みになります。
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それでは、また次の案内人のお仕事でお会いしましょう。




