●英雄としてのブッダ
ジョーゼフ・キャンベルの「千の顔をもつ英雄」にはさまざまな興味深い英雄が出てくるが、この中からブッダの若い時の言い伝えを以下に抜粋する。
世界的に有名な指導者の下で軍事教練を終えたばかりの、若い王子の話である。王子は優秀な成績を収めたとして「五武器王子」という称号を与えられ、五つの武器を指導者から受け取ると礼を言い、もらったばかりの武器を装備して、父王のいる都に続く街道に飛び出していった。途中、ある森まで来たときのこと、森の入り口で人々が王子に忠告した。
「王子さま、この森に入ってはいけません。人食い鬼が棲んでいるのです。『脂毛』」という名で、べたべたくっつく毛を体中に生やしています。目にする人間は一人残らず殺してしまいます。」
しかし王子はたてがみのある獅子のように、自信にあふれ恐れなかった。忠告は受けたが、森に入って行った。森の真ん中まで来たとき、人食い鬼が現れた。背をヤシの木ほどに高くし、頭を鐘形の尖塔がついた東屋ほどに大きくし、両の目も托鉢の鉢ほどに大きくして、二本の牙を巨大な芽や蕾のように膨らませている。さらにタカの嘴を持ち、腹はしみだらけだった。手足は濃い緑色
「おまえ、どこへ行く? 止まれ! 食ってやる」
五武器王子は怖がることなく、学んだ技と術に大いに自信をもって、答えた。
「人食い鬼よ、私はこの森に入ったらどうなるか承知していた。私を襲うなら用心するがいい。毒を塗った矢でお前の肉を引き裂き、即座に打ち倒してやる。」
若い王子はこう言って人食い鬼を脅すと、猛毒を塗った矢を弓につがえて放った。矢はぴたりと鬼の体にくっついた。王子は次々と、矢を50本放った。すべてぴたりとくっつく。鬼は体を振って矢を残らず足元に落とし、王子に近づいた。
五武器王子は、また人食い鬼に脅しをかけると剣を抜き、見事な一撃を見舞った。長さ32インチ(88センチ)の剣は、鬼の体にぴたりとくっついた。次に槍で突いたが、これもぴたりとくっつく。槍がくっついたのがわかった王子は、今度は棍棒を見舞った。しかしこれもくっついてしまう。
棍棒がくっついたのを見た王子は、人食い鬼にこう言い放った。
「さすがだが、私のことは聞いたことがないだろう。私は五武器王子だ。おまえが巣食う森に入ったとき、私は弓やそういう武器に頼っていなかった。森に入ったとき自分自身だけを頼ったのだ。これからおまえを倒して粉々にしてくれる!」
こう決意を宣言すると、叫び声をともに人食い鬼に右手を打ち込んだ。右手はぴたりと鬼の体にくっついた。次は右足を打ち込んだ。これもくっつく。そして左足。これもくっついた。そこで考えた。
「頭を見舞って、粉々にしてやる!」
王子は頭を打ち込んだ。しかし頭も人食い鬼の体にぴたりとくっついたのである。
五武器王子は五回挑みかかり、人食い鬼の体に五カ所くっついてぶら下がった。しかしそれでも恐れることなく気がくじけることもなかった。一方の人食い鬼はこう考えていた。
「これは獅子のような人間、高貴な生まれのたいしたやつだ。ただの男ではない。おれのような人食い鬼に捕まったというのに、震えも身じろぎもする様子がない。これまでずっとこの道で暴れてきたが、この男に匹敵するような人間には出くわさなかった。どうしてだ、なぜ怖がらない?」
そして王子を食べようとせず、こう尋ねた。
「若者よ、なぜ恐れないのだ。死の恐怖に、なぜ怯えない?」
「どうして恐れなければいけないのだ。生きていれば死は必ず訪れる。それに私の腹の中には、武器になる雷がある。私を食べても、それを消化することはできまい。おまえを腹の中から木っ端みじんに吹き飛ばして死をもたらすだろう。そうなればどちらもおしまいだ。だから恐れないのだ!」
読者はおわかりだと思うが、五武器王子は内なる「叡智の武器」のことを指して言っている。この若い英雄は、実は未来のブッダその人の、初めの頃の姿である。
雷は、仏教の図像学では重要なシンボルのひとつで、この世の移ろいやすい現実を破壊する、仏性の霊力(不滅の悟り)を意味する。絶対神である法身晋賢は、チベットの絵画などではヴァジュラ=ダラ(チベットの言葉でドルジェ=チャン)、「金剛石のように硬い稲妻を持つ者」の姿で表される。
古代メソポタミア(シュメールとアッカド、バビロニアとアッシリア)の流れを汲む神々の像では、ヴァジュラと同じ形の雷は目につく要素で、ゼウスの雷もここから受け継いでいる。
また未開の諸民族の間では戦士が武器のことを雷と呼ぶこともよく知られている。秘儀を伝授された戦士は神の意志の代理人である。戦士の訓練には、武器の操作だけでなく、精神の鍛練もある。魔術(雷の超自然的な力)は、物理的な強さや化学的な毒と同じように、攻撃に強力なエネルギーを与える。完璧なまでに熟練すれば、物理的な武器などまったく不要だ。魔法の言葉の力だけで十分だろう。
五武器王子のたとえ話は、このテーマを表す。しかし他にも、経験的物理的特質のみを頼りにし、またはそれだけを誇るならば、その人はすでに破滅している。ということも教えている。クーマラスワミー博士は、「ここに描かれる英雄は、審美的な経験[「五カ所」とは五感のこと]の渦に巻き込まれているとも言えるが本来備わっている徳が高いため、自らを解放し、他者も解放することができる」と書いている。
「この若者が言うことは正しい。」
と人食い鬼は考え、死の恐怖におびえた。
「この獅子のような人間の体では、肉片がインゲン豆のように小さくても、おれの胃袋では消化できないかもしれない。こいつは逃がそう。」
そうして人食い鬼は五武器王子を解放した。未来のブッダは人食い鬼に教えを説いて鎮め、克己心を持たせ、森の中で施しを受けられる精霊に姿を変えさせた。思慮深くあれと人食い鬼を諭した若者は森を出て、森の入り口で人々に一部始終を語って聞かせ、そうして去って行ったのである。
わたしたちを五感で絡めとる世界、身体の器官をどう動かそうと押しのけることができない世界の象徴として、怪物『脂毛』はようやく鎮まったが、鎮まったのは、一時的に名前にもなった五つの武器と身体的形質で守られなくなった未来のブッダが、名もなく目にもみえない第六の武器を頼ったときだった。それは、超越的な原理を表す聖なる叡智の雷で、名前や形に支配される現象の世界を超えたものである。これによって状況は変わった。人食い鬼は何ものにもとらわれず、解放された。思い出した本来の自分は、いつまでも縛られることはない。現象としての怪物の力は消え、怪物は克己心を持たされた。そして克己心を持つことで、聖なるもの、施しを受けられる精霊になった。世界が究極の名前や形としてではなく、すべての名前や形に内在しながら超越するものを表す単なる名前や形として認識されるときにそうなるのと同じである。
人から見られないように神を隠す「天国の壁」は、ニコラウス・クザーヌスによると、「相反するものを同時に存在させるもの」から構成される。その門は「最も高度な理性の精神が守り、乗り越えられるまで道をふさぐ」という。対になるもの(有か無か、生か死か、美か醜か、善か悪かなど、才能を希望と恐怖に結びつけ、運動器官を防御と獲得という行為に結びつける、両極にあるものすべて)は、旅人を潰す岩になるが、英雄は必ずその間をすり抜ける。これは世界中で見られるモチーフである。ギリシア人が思い浮かべるのは、風に吹かれてぶつかり合うエウクセイノス海の二つの岩礁だが、アルゴー船に乗っていたイアソンがこの岩の間を通り、それ以来、岩はぶつからなくなったという。アメリカ先住民のナヴァホ族の双子の英雄は、蜘蛛ばあさんから同じような岩の話を聞かされたが、道を表す花粉の呪文と、生きたワシから引き抜いた羽に守られて、やはり通り抜けた。
太陽の扉を通って立ち昇る捧げものの煙のように、英雄もまた、自我から解放され、世界の壁を抜けていく。自我は『脂毛』にくっつけたまま置き去りにして、先へ進むのである。
この話は、人食い鬼の『脂毛』を、人間がもつすべての欲望の集合体、言い換えれば、欲にまみれた人間たちが生みだす世界を表していると解釈するとスッキリ説明できる。人間の精神を堕落させていく欲望に対して、槍や矢などの物理的な力で立ち向かっても糠に釘でなんの役にも立たない。精神的な五感で制圧しようとしても性欲や承認欲などほうが強くて幻惑されてしまう。後で説明するが、真空点を含む「大いなる存在」を感じた者は、自分の使命をはっきり自覚して迷うことがなくなる。先の話におけるブッダが使った第六の武器、雷は真空点から発せられる高純度のエネルギーである。アルチュール・ランボーが最後に書いた詩編のように真空点の存在を信じて自己の使命に従って行動するようになれば、『脂毛』は自然と精霊へと姿を変えていく。




