●抽象思考の罠
Kが特に打ち込んだのは数学だった。数学の古典四分野は数論・幾何学・代数学・解析学だ。このうち最も重要なのが数論と幾何学で、数学の王と呼ばれたガウスは「数学は科学の女王であり、数論は数学の女王である」と言っていたほどだ。しかし日本の学習指導要綱の策定にたずさわる人たちは、教科書から数論をはずしていて数学の本質をわかっているのだろうかと疑問を持ってしまう。数論は数自体がもつユニークな性質、不思議さを追求していく領域だから、ある意味では数遊びである。教育現場では遊びは不必要、社会に役立つ奴隷をたくさんつくることに専念せよ、ということを教育の至上命題にしているということだろうか。数論の不思議さが垣間見えるものを一つあげれば、現況の教育方針のもとで、次の命題
「5以上の奇素数は、必ず6の倍数の隣にある。」
(留意)
逆は成り立たない、すなわち「6の倍数の隣に、5以上の奇素数は必ず存在する。」は成り立たない。
例: 5,6,7 11,12,13 35,36,37 53,54,55 71,72,73
ということを自分自身の力で発見できる子どもはどのくらいいるだろうか。ほとんどいないのではないだろうか。それは子ども自身が能動的に数学に取り組んで独自に研究したり考えたりする力がないことを意味している。そのような現状では科学教育に力を注いだところで、たいした成果は得られないだろう。
Kは大学時代に数論の本を買って独学で勉強をはじめたが、読んでいる途中で内容が理解できなくなってしまって挫折した。ところがその挫折から20年後くらいに読み直したところ、躁状態が発動している状態ではスラスラと読解できるようになっていたのだ(!)。頭が柔らかい時代よりも思考が固くなってきているはずの時期に逆転現象が起きたのである。これが軽躁状態のなせる業のひとつである。躁状態は人をお手軽な快楽追求に向かわせて堕落させてしまう面をもっているが、頭の回転を速くしたり記憶の再生を起こさせたりもするので、知的活動をする人にとっては有用である。特に画家・彫刻家や作曲家の場合、軽躁状態のときじゃないと良い仕事ができない。
Kは詩作の作業と並行して、数学の研究や勉強をしていたが、数学に打ち込むあまり歩きながらでも素数や数学の基礎概念について考えていたので、通常なら目的地までに到着する所要時間が20分で済むところを2時間もかかったりしていた。単純な道のりでも迷子になることがしばしばあった。このようなときは地面に足がついていないような浮遊感覚に襲われていて、心も体もポカポカするということだった。数学への取り組みが疲れてくるといろいろなビジネス上のアイデアが次から次へと出てきて書き留めてもいた。これらの状態にいるときは女性への関心が薄く、女性の裸の写真を見るだけで「気持ち悪い」と言って遠ざけていた。しかし、数学への取り組みに完全に疲れると性欲が戻ってきて夜の繁華街へ繰り出していくのであった。脳の中でどのような切り替えスイッチが入っていたのか興味深いところではある。




