〈ルソーの場合、追跡妄想〉
「かつて世になくまた後にもないであろう著述に私はいま手を染めようとしている。私はわが同胞の前に真実ありのままの一個の人間を描こうと思う。この人間とはほかならぬ私自身である。私は他の生きとし生けるものと同じようには作られていない。よし彼らよりすぐれていることはないにしても、少なくとも彼らとは異なったものである。最後の審判のラッパが鳴りひびくとき、私はこの書物を手にして、いと尊き審判者の前に進み出て、声高らかに叫ぶだろう。これぞ我が著しせしところ、我が考えしところ、我が行いしところなり。我が周囲に同胞のかずかずを集め、我が告白を聴かしめよ。彼らをして我が破廉恥に嘆息せしめ、我が欠点多きに赤面せしめよ。而して我と同じ真実さもて、神の玉座の下に彼らすべての心を開かしめよ。もし彼らの中に敢えてなす者ありて、神の前に静かに進み出て「我はこの人よりすぐれたるものなりき」と言う者あらば言わしめよと。」
この言葉をもってその自叙伝の第一ページを書き出したのは追跡妄想に悩む人であった。彼とは哲学者でまたフランス大革命の精神的創始者の一人であったルソーである。他の機会に、彼はまた次のように書いている。「私の書物を愛し得ない人があったとしても私はその人を非難しはしない。しかし私の書物を読んでなお私を愛さない人はあわれむべきである。」と。
このルソーは、少年のころには偽りや、盗みや、漂泊を事とし、長じてはほとんどすべての後援者と衝突し、故郷をはなれて冒険に日を送り、身分の卑しい家政婦と正式の結婚もせずに同棲し、その五人の子女をすべて育児院に送ったような人であった。
シラーは若きヘルダーリンとの初対面の感想を「彼は主観性のはげしい男だ」という言葉であらわしたが、このはげしい主観性はまたルソーの『告白』の序文の至るところに見出されるものである。ヘルダーリンとルソー、この二人は、飢餓にせめられ国を追われてもなお自身の内外の立場の限りない自由を望んだ。ルソーは家庭教師としてのヘルダーリンと全く同じ自明の理由から、すべての豊かな俸禄をうけることをおそれた。
彼らの本質の根本には、生命力の弱さ、すなわち傷つきやすさと日常的な物事に対する過感(感覚過敏)とがあった。彼らは戦闘が紛糾するときには力を持ちつづけることはできないが、しかしなおその弱点をも貴しとする自尊心を失わない。ルソーはたがいに相容れぬ多くの性格を内に蔵していたが、とりわけ良心に富んだ人であった。ボヘミアンとしての彼のしたことに対して道徳家としての彼は責任をもち得ず、精神的なジプシーとして繊弱で高尚にすぎた彼は、道徳家としてはあまりに純朴でありすぎた。ルソーの心中に見られる自尊と繊弱とのこのような激しい拮抗は、過感な人々にとっては偉大な精神の源泉となるが、精神的健康に対しては障害物となるものである。もっとも力強い心的欲動力は、ちょうど水と火とによって蒸気力が生ずるように、一個人の胸の中に対抗緊張してたがいに相容れぬいくつかの要素間の闘争から生まれる。それゆえ、過感の人は、その生命力が弱いにもかかわらず、拮抗要素を欠いているたくましい普通人にまさって社会的に頭角をあらわすことができるのである。
小胆な人はもっとも偉大な改革者となる。健康人ならば未だ全く感じないほどの生活上の小さな雑音をも、過感な人はいち早く感じて、これに傷つけられがちだ。しかし彼らはつねに優柔不断で引っ込み思案であるから、そのなやましい印象を力づよい行為によってただちに外界に発散することができない。かかる人は内的葛藤の人であって、外界に向けて何らかの形をあらわす前に久しく良心の闘争に苦しめられるのである。彼は最後に、疑惑に包まれながらおずおずと自分の信ずるところを発表する。そして自分の臆病な言葉が、多くの人々の間にただちに驚くべき反響を呼び起こすのを見ておびえる。生来臆病で、人前に出ることさえできなかった漂浪者ルソーがそうであった。また暗い燃えるようなまなざしをして、力づよい哄笑と無骨さのうちに心の苦悩と不確実さとを押しかくしていた田舎僧侶のルターがそうであった。これらの人々のささやくような個人的告白は、ただちに世紀のするどい鬨の声となり、このかくれた学者や芸術家たちは、羞恥のために心の奥底では厭いながらも、熱情的な共鳴者たちによって指導者の地位にまで押し上げられてしまったのである。
個人の深い体験からおのずと発せられる叫びは、腐敗した時代の感情に爆発的に火を点じる。ルソーは自ら火をつけたフランス大革命の前ぶれとなった嵐のような突撃のもとで、すでに自身は精神的に崩壊していた。こうして彼の手から落ちた手綱を他の人々がひろい上げたのである。ルソーは自分の著書が有名になったとき、ちょうど小心な人が隠遁生活から急に公衆の面前に引き出されたときのような気持ちを味わった。すべての人の目が自分の上にのみそそがれ、すべてのことが自分を中心に行われるような不気味な感じで、反対者の嘲笑の声は、すべての拍手の嵐にまさってするどく耳にひびく。非難の声は四方から耳を聾し、それらはたがいに共謀して、逃れ得ぬこまかい奸計の網を頭にかぶせるように思われた。こうしてルソーの追跡妄想はでき上がったのである。この妄想のより深い根底は他にあるのであるが、とにかくこの追跡妄想のために、彼はパリからスイスに、スイスからイギリスに、イギリスからふたたびフランスにと、落ちつきなく転々と歩きまわらねばなかったし、またその同情者が用意してくれた庇護の宿にさえも長く止まることができなかった。なぜならば、人里はなれた隠れ家や森の中の邸宅においてさえも、彼に対して敵対的な行為が行われ、召し使いも彼を特別な目でながめて嘲弄したり、陰謀をめぐらしたり、あるいは彼の生命をねらって毒を盛ったりするように感じられたからである。こうして反対の一味の手がつねに彼を新しい避難所から追い出すのであった。過敏な人々が自分自身と闘い、その結果として周囲の人々と争うときに捕らえられる追跡妄想とはこれである。
何ゆえにウールリッヒ・フォン・フッテンの鉄拳は新時代の扉を押し開かなかったのであるか。何ゆえに辛辣な嘲笑家ヴォルテールはふるきフランスを赤面させなかったのであるか。確かにこれらの人々もまた非常に大きな歴史的な影響を及ぼしはしたが、しかし彼らは何とかして自分こそ時代の指導者になりたいという名誉欲に燃えていた。フッテンはわかりやすいドイツ語をもって倦むことなく民衆を闘いにかりたてた。「私はそれを敢えてしたのだ」という彼の標語は反抗的で挑発的なひびきをもっていたが、民衆は踊らなかった。これに反し、一人の世間知らずの僧侶ルターが、博識な先輩らの前に戦々兢々としながら、ヴィッテンベルクの教会の壁に貼り付けた拙いラテン語は、数日を絶たぬ前にヨーロッパの隅々にまで行きわたってしまった。また小心翼々たる夢想家の素人文士ルソーは、37歳のとき、初めて学士院の懸賞論文の「科学および芸術の進歩は、道義を低落せしめたか、あるいは向上せしめたか」(以下、『学問芸術論』)に応じて、その論文に全フランスを瞠目させたのである。
ちなみに、この『学問芸術論』の着想が湧いてきたときのことを、ルソーは「マルゼルブの手紙」の中で興味深い詳述を行っている。以下、そこからの抜粋を記しておく。
「自分の好みにまったくあわない仕事をわたしにさせていた社会に、わたしをしばりつけている絆をたちきろうとむなしい努力をしていました。そのとき突然、めぐまれた偶然の機会が、わたし自身なにをすべきか、わたしと同じ人間についてどう考えるべきかを明らかにしてくれることになりました。わたしと同じ人間について、わたしの心情はたえずわたしの精神と矛盾したことを感じて、わたしは、かれらを憎む多くの理由をもちながらも、それでもなお、かれらを愛したいという気持ちが自分にあることを感じていたのです。ああ、わたしの生涯にまったく異常な時期をもたらすことになったその瞬間、わたしが永久に生きているとしてもいつまでも忘れられないその瞬間のことを、描いてお目にかけることができたなら、とわたしは思っています。
そのころヴァンセンヌに監禁されていたディドロに会いに行く途中でした。わたしはポケットに「メルキュール・ド・フランス」誌を入れておいたのですが、歩きながらそれを読みはじめました。ディジョンのアカデミーの課題(懸賞課題「学問及び芸術の進歩は道徳を向上させたか、あるいは腐敗させたか」)が目に入りました。わたしの最初の著作『学問芸術論』を書かせることになった課題です。なにか突然の霊感といったようなものがあったとしたら、その課題を読んだとき、わたしの内部に起こった動きはまさにそういったものです。急にわたしはあふれる光に精神が照らされるのを感じました。いきいきとした無数の観念が同時に、ひじょうな力づよさと豊かさをもってそこにあらわれ、言いあらわしがたい混乱のうちにわたしを投げこみました。わたしは、酔ったときのように、頭がしびれるのを感じました。はげしい動悸がわたしを締めつけ、わたしの胸をふくらませました。歩きながら呼吸することもできなくなって、わたしは道ばたの木かげに倒れるように身を横たえ、そこでひどい興奮のうちに半時間をすごしました。立ちあがったとき気がついてみると、上着の前のほうがすっかり涙にぬれていたのですが、わたしは涙を流したことなど知らなかったのでした。ああ、あの木の下でわたしが見たこと、感じたことの四分の一でも書くことができたなら、わたしは、社会制度のあらゆる矛盾をどれほどはっきりと示したことでしょう。わたしたちの制度のあらゆる弊害をどれほど力づよいことばで述べたことでしょう。人間は生まれつきよい者であること、人々が悪くなるのはただその制度のためであることをどれほど簡明に示したことでしょう。十五分のあいだにあの木の下でわたしに光明をあたえてくれた無数の偉大な真理のうちからわたしがとらえることができたことのすべては、まったく弱々しい形で、わたしの三つの主な著作のなかにちらばっています。それは、あの最初の論文(学問芸術論)と「不平等論」と「教育論」で、これら三つの著作は分けられないもので、まとまった一つの全体を形づくっているのです。」
上で述べられている感情体験の例でわかるように、あなた自身の精神状態もこのレベルまで引き上げることが重要だ。ルソーの例は、懸賞課題に似た問いを長年自分自身に問いかけ続け、答えを出そうともがいていたところに、一瞬の輝きをもって答えが発光したことを物語っている。
ルソーはその若き日を、故郷スイスの丘や谷に送った。多くの小さいむら気やまちがいをおこしながらも、母のような愛人の庇護の下に、無邪気に、計画もなく、夢想しつつ、幸福に、また放浪者のように生活した。いかにあざむかれても人間の性を善と解し、熱狂のあまり世界を抱擁しようと欲したほど、やさしい、小児のような魂を持った人であった。
彼がパリに乗りこんだことは、彼を偉大にしたと同時に彼を精神病者とした。ボヘミアンであり、素人だましの手品使いであったが、しかし彼は、ちょうど子羊が蛇の檻に入るようにしてパリに乗りこんだのである。
ロココ時代のフランスにおける精神的エリートたちの生活様式は、彼らも磨きのかかった弁舌を使ってその時代の不正と戦ったということを考慮に入れたとしても、ルソー自身の流儀とは根本的に違っていた。ヴォルテールは、ルソーの『人間不平等起源説』という本へのお礼として、1755年8月30日、著者に宛てて才知を感じさせる手紙を書き送っている。この手紙には気品があり、素晴らしい内容をもったものが数多く含まれているが、とりわけ以下の箇所にはそれがよく表れている。「ルソー様、私はあなたが人類への批判として書かれた最近の御著書を読み、それに感謝しています。あなたは人に好かれるだろうと思います。というのは、あなたは人に本当のことを述べているのですから。しかしながらあなたが人を改善することにはならないでしょう。これ以上極端に人間社会の汚らしさを暴露することは誰もできないでしょう。私たちは弱く愚かなので、私たちの社会にあまりにも多くの慰めを期待するからなのです。私たちを再び野獣にしようとすることによって、あなたほど多数の精神の光を輝かせた人は今までにあまりいませんでした。あなたの本を読むと、本式にまた四つん這いになって歩きたいという気になります。それでも私がそんな習慣をやめてしまってから60年以上もたってしまったので、とても残念ではありますが、またその習慣を受け入れることは不可能です。ですから、この自然な習慣を、あなたや私よりももっとふさわしい人たちにゆだねなければなりません……」
「しかし科学は悪用されてはいても、人は科学を愛さねばなりません。それは、邪悪な個々人が社会を駄目にしても、その社会を愛さねばならないし、祖国で不公正をこうむるような目にあっても、なおその祖国を愛さねばならないし、迷信や狂言のために礼拝を汚すようなことがよく起こるとしても、神の前で喜んで首を垂れなければならないのと同じことです。シャピュイ氏から、あなたの健康があまりすぐれないと聞いています。私の所に来て、故郷の空気の中で元気になってください。私と一緒にわが家の牛乳を飲んだり、牧場で英気を養いましょう。牧場には自由がありますし、風味のある草が繁っています。
哲学の仲間であり親友のヴォルテール拝」
この手紙の調子はまず、決して意地悪い、計画的な迫害者のものではない。ルソーの真剣で革命家のような情念の持続に対してヴォルテールの話し方は単なる世慣れた形式のものであるばかりでなく、そこには気楽さがあり、それは明るく優雅な優越感から来るものであった。その優越感は、事物と遊びたわむれてはいるものの、決して事物の重大性を見誤ったりはしていない。
またパリの人々の皆がルソーを不親切に取り扱ったと言いきることはできない。否、事実はその反対で、人々は彼を一流人の仲間に入れ、才気ある貴婦人のサロンの多くが彼のために尽力したのである。そこでは彼の風変りな性格も何のさまたげにもならず、人々は彼の純朴さをいたく愛して、この感情の人を流行の中心へとともない入れた。学者や芸術家や、貴婦人や貴族たちは、やがて彼を自分らと同じようなものと見なすに至り、彼ら同士の間で習慣となっているたわむれやいたずらを、わずかながら彼にも試みるようになった。なぜならば、ロココ時代といわれるその当時のフランスでは、生活は一つの遊戯にすぎず、人々は悪意を芸術家仲間の無駄話との中に生活しており、もっとも彼らを喜ばせるものは気の利いた軽口と小さな背信行為とであって、他人のためにまじめに同情する者などは全く無いというありさまだったからである。
生活というものを文字通りに解しているルソーは、こういう社会の中では変わり者に見えた。友人のグリムが、彼を庇護者の一婦人の好意の手から婉曲に追い出したとき、彼はこれを真に卑劣な行為と感じた。また哲学者ヒュームが、一方で彼のために公の俸給を獲得してやりながら、他方で面白半分に嫉妬屋の皮肉をそそのかしたことを立派な不信行為と感じた。こうしてルソーは自然でかつ単純な道徳の再発見者となった。ロココ時代の人々はかく感ぜず、またかく感ずることを没趣味と思っていたときに、異常に感じやすい性格構造をもったルソーのみがこの感覚をふたたび呼びさますことができた。彼は全社会風潮の力強い影響にもかかわらず、自己の内面において実際感じたように感ずる他はなかったのである。
この激しい主観性と熱烈な真情から、ルソーは古い制度に対して戦いを挑んだ。彼はその友人たちとの交際によって、高度に発達した社交界の文化には不真実の多いことを体験した。彼の「自然に帰れ」の叫びに個人的経験から出た確信を与えたものはこれである。しかし同じパリにおける体験は彼の追跡妄想の原因ともなった。彼は、同一人を同時に弁護したり罵ったりすることがどうしてできようかと怪しんだ。そして彼の深い感じやすい感覚と、活発な頭脳のはたらきとは相まって、文学者仲間のありふれた不和をも、深く計画された組織立った計略であるかのように想像させたのだ。深く内的に感ずる彼は、表面的な気分などは解し得なかったから、同時代の海千山千の俗人どもの心理に当面しては、まるで閉じられた扉の前に立ったように困惑した。彼らの意向の千変万化と、彼らの態度の豹変とは、彼の心情をかき乱した。あふれるような友情を期待していたところでは刃が彼を驚かし、敵意を想像したところにはもっともやさしい歓待が待ち受けていた。イギリスに行ったときも、フランスに帰ったときも、つねにそうであった。彼は人々の友情やちょっとした嫌がらせに当惑し、ついに周囲のすべてが自分に対してこの上もない悪意をもつと想像するに至った。すべての国々の地下を通じて、自分に対する敵対的関係が網の目をめぐらせたように組織立てられていると感じた彼は、嫉妬深い文士たちがその時々の気分によって試みるありふれたいたずらをさえ、それと結びつけて疑うようになった。グリムやディドロ、ヴォルテールやヒュームなどという文学界の指導的人物が、彼の妄想の体系の中心を占め、彼らの手によって、自分の頭のまわりに張られた糸があやつられるのだと彼は信じた。彼は同時代の文化とこの文化の指導者たちとを厭ったが、文化を厭った結果が彼の天才的事業となり、文化の指導者たちを呪った結果が彼に妄想をもたらしたのである。それゆえ、彼の追跡妄想と彼の予言者としての事績とは、単に表裏一体の事柄にすぎない。
しかしここに忘れてならぬことは、ルソーの生涯に、客観的にも深い苦悩があったことである。世人は彼を酷使し、あまつさえ彼の著書に狼藉をはたらいた。『エミール』が発刊されたときには、ルソーは検束の危険を避けてパリから身をかくさなければならなかった。サン・ピエール島に隠れ家を見出すか見出さないうちにベルンの政庁は彼を放逐し、扇動された群衆は、この繊弱な感じやすいルソーに投石までして迫害した。だから彼の生涯に客観的迫害がなかったというわけではない。しかし迫害それ自身は決して被害妄想の原因とはならないのである。文学者たちの些細な悪意や陰謀についても、それと同様なことが言える。これらは彼を惑わせ、苦しめ、疑わせ、彼に孤独の淋しさを与えはしたが、しかし彼を駆って哲学的改革事業を遂行させることはできなかった。また彼の追跡妄想に体系的強固さを与えた、あのもっとも内的で熱情的な確信へと導くこともできなかったのである。
彼の天才性と精神病との関連のもっとも深い根底は、すべての過敏の人の場合と同じく、自己の罪業感の中に秘められてあった。ルソーは自分が軽蔑した文化の中にあって自分だけは潔白な生涯を送ったという確信を持ち得なかった。彼自身が彼の理想として夢みた古代ローマ時代の厳格一方の道徳からははるかに縁遠い存在であった。彼はむしろその印象的で、活動的で、熱血的な芸術家気質から、時代の華やかな現実の中を飛び回ることを好んだ。ここに彼の偉大さの主要な部分がある。彼はかのロベスピエールのような、罪人たる素質がないから罪を犯さないというような、無味乾燥な抽象的な道徳家ではなかった。彼はむしろ自ら体験したことについて戦ったのである。この矛盾した二重性格は、彼を特に愛すべきものとなした反面、つねに彼を評価する場合の障害であった。何ともたまらない不幸に対しても彼は微笑を失わなかった。交友を通じて極めて疑わしい人物たちを美化していた彼は、しかしこれによって自分自身を永続的に変化させることはなかった。彼は数年のあいだ錯雑した渦巻の中に沈んだのちに、ふたたび同じ偽りのない小児のような心をもってあらわれ出るのである。彼もまた多くの道徳家たちと同じく、現実を離れて彼の学説を抽象することを心得ていたが、しかし彼は同時にその正反対をもすることができるという非常にめずらしい人間だった。生活を嘲りながら享楽し、また現実に適応することの不可能さを証明しながら現実を理解し、かつ深く愛した。これが彼の人格の中に見られる主要な対照性であって、これがあるがために彼は矛盾の多い人格となり、また天才的人物となったのである。そしてこの対照性があるためにショーペンハウアーは彼について次のような判断を下すことができたのだった。「道徳を説いても人を退屈させないような彼の天賦はもっぱら自然によって与えられたものである。」
ルソーの罪業感はその源を彼の体験の中に発し、そうして彼の体験はその素質の奥深くにある欲動の矛盾に端を発している。彼に見られたところのものはすべて小児らしさと、かぎりない純朴さと、反抗的なあるいはためらいがちな小児の心とであった。母の像に寄りすがる小児の心を持っていた彼は、その愛情を自分より年長の婦人にそそいだ。彼は自分を庇護してくれるヴァラン夫人やエピネー夫人らの膝の下に逃避した。母と愛人は彼にとっては同意義のものであったから、彼は愛人をママと呼んだ。また彼は全く精神的教養のない純朴な婦人を愛した。それは、かかる婦人の前では、恐れたり、不安になったり、赤面したりする必要がなかったからである。彼の後の妻はこの種の人であった。
ルソーのような、内心でたがいに相争う欲動をもつ人は、一筋の道をまっすぐに歩むことができない。どちらの欲動に従って歩んでも、それと反対の欲動からは、つねにその道が誤りであり、不当であり、卑しくあるように批判される。彼は己が歩むすべての道を、自然の法則にも自己内心の命令にも反した罪人として歩まねばならない。ルソーの生活態度は絶えず不安定でつねに苦渋をともなっていた。そこで自然の成りゆきとして、生活に適応しようとする欲求はますます強まってゆくのである。
人格内のこの矛盾からはみ出したものが消えずに残ったことは想像に難くない。それはこの感じやすい理想主義者ルソーの罪業感である。この理想主義者は、彼の努力が、生という現実とぶつかり合うことから生じた試行錯誤の道程を、苦痛にみちた驚きの目をもって回顧しているのである。そしてこの罪業感のゆえに彼の後半生は天才の時期になり、彼は回想の苦悩を転じて将来のプログラムに対する熱情と化したのである。しかしこの罪業感は同時に彼の追跡妄想の根底をも作り、彼はすべて自分を苦しめた事柄を敵の陰謀にもとづくものと考えるに至った。その子女らを育児院に送ったこと、またその庇護者であるエピネー夫人に自分の愛を曖昧に見せねばならなかったこと、あるいは名誉心の強い奸智に長けた社会の中にあって、友人たちに対し、持ち前の誠実さを絶えず示し得なかったこと等、現実に対する対応策としてやむをえなく行ったすべてのことは、つねに彼の良心を苦しめたが、その追跡妄想の上からは、彼に対して熱心に画策しつつある彼の敵のしわざと解せられた。彼の不朽の著書たる自伝はこの妄想の支配の下に著されたものであって、いわば仮想の敵に対する一人の偏執病者の弁明書ともいうべきものである。そしてこの妄想の原因となっているものが罪業感であるところから、この自伝は『告白』と名付けられたのである。
ルソーはその感覚の鋭敏な点において、精神分裂病者ヘルダーリンともっとも微細な点に至るまで酷似している。ルソーの灼熱的な感覚は、ヘルダーリンと同じく、現実から離れて、古代人や、人なき自然の静寂な偉大さへと逃避したが、ルソーにおいては、こうした偉大さに対する崇拝の年が宗教にまでなっている。
この崇拝は、陰鬱なヘルダーリンにとっては厭世主義であり、逃避であり、ふたたび見る由もないものに対する怠惰な回顧であったが、ルソーにあっては、努めて甲斐のある、より善き未来に対する溌剌たる理想であった。ヘルダーリンにとっては断念であったものがルソーにとってはプログラムであった。ルソーは楽天家で、ほとばしり出るような精神の躍動性を持っていた。彼は真の音楽家としての風格をも有し、歌劇作者としてはパリで非常な好評を博したほどであった。重苦しい感じやすいまじめな魂の中に、もっともほがらかな多血性の性質が宿っていたということはほとんど信じがたいほどのことながら、遺伝上、特別な自然のいたずらによって、このめずらしい、対照的な、ふしぎな人格ができ上ったのである。ルソーは非常に繊細で傷つきやすい性質でありながら、生を楽しみ広く旅行した父から、軽く、放縦な芸術家の血を多分に受け継いだ。それは水銀のような気質で、いかなる運命の打撃に会っても、おどろくべき弾力性をもってただちに元気を回復する力を彼に与えた。かつてマルゼルブに送った手紙にも見られるように、彼の限りない空想力は、すべてのことにおいてただちに彼を極端にまで走らせたのであった。逆境によって狂乱の淵まで追いつめられ、どこかで死ぬほど不幸で悲哀にさいなまれているのかと思うと、彼の美しい優しい手紙が思いがけぬどこかの隠れ家からもたらさられる。しかもそれは田園の平和と魂の静かな明朗さとにあふれたものであった。興奮しながらパリから脱出したその車中で、はやくもゲスナーの牧歌の翻訳に着手したなどというのも、全く同様の心理過程から出たことである。
小さな流浪者としての若き日のルソーは、何ものにもわずらわされずに享楽し、束縛なく漫然と日を送りつつ、目前のはかない幻影を追い求めた。彼は自ら言う、「遠い希望によって私の行動が強く影響されるということは稀だ。未来は不確実である。はるかかなたに浮遊しているすべての計画は、私にはつねに子どもだましとしか考えられない。すぐ手の届くところにある享楽は、きわめてわずかなものであっても、天国のすべての喜びにまさって私をひきつける」と。それゆえに彼は、サヴォアのある上流家庭で提供された、もっとも輝かしい未来のある名誉な地位をも ー 彼はこれを無頼の若者としてかち得たのであるが ― 、その顔が気に入ったという単純な理由から、ジュネーヴの街をうろついている一人の少年のために惜しげもなく投げすててしまった。彼はこの少年を伴い、金も持たず、故郷をも失いながら、なお幸福に満ちて、アルプスの山々を流浪したのである。女中たちの目をくらます一つの手品道具が当時の彼の唯一の生活の糧であった。そしてその玩具がこわれたときに初めて真の愉悦が始まった。無謀きわまる空想で頭を一杯にしながら、美しい山々を越えて、衣服も靴も破れ果てるまで彼は冒険の旅をつづけた。彼が思いつくままに、修道士であったり、音楽家であったり、徒弟であったり、小姓であったり、何でも屋であったり、また町の浮浪児であったりしたのである。今日は飢餓と無宿に苦しんだかと思うと、明日は美しい貴婦人たちの寵児となって富める人々の食卓に歓談する。こうして最後に彼はヴァラン夫人の許に身を寄せたが、彼女はたいへん親切な妖精であり、ふしぎな聖女であり、あらゆる乞食や、無頼の徒や、天才的な浮浪者の庇護者であった。この女性が彼のためにやさしいママとなり愛人となった。彼女は、彼と同じくお人好しで、非実際的で、意思が弱く、不安定で、軽率ではあるが、愛すべき女性であった。彼ら両人は相ともに彼女の財産を使い果たし、さまざまの冒険をへて、レ・シャルメットの土地へと移った。そこは人里離れた谷に沿い、音をたてて流れる小川と栗の林と高台の庭をもつ荒れた住宅地であった。ここで彼の短いしかし一生の中でのもっとも幸福な生活がはじまる。それは簡易な地上の天国であった。後年、この時代を回想したとき、彼の心に若い時代の蠱惑がおそった。「夏の終わりに近いある日、私たちは初めてそこに眠ったが、私は喜びに我を忘れた。涙ながらに彼女を胸に抱いて私は叫んだ。 ― おお、ママ、ここにこそ幸福と無心があります。もしわれわれが今ここにそれを感じないならば、他のどこにそれを探すことができるでしょうか ― 」と。
こうした詩人の夢想と哲人の体系とは、願望の成就である。大胆で純朴な計画を胸に満たしつつ、若きルソーはパリへ赴いたのであるが、パリは彼を老いさせ、彼を不幸にした。光輝と栄誉と漂泊とに満ちた生涯ののちに、老いたルソーは、荒んだ悶える心を抱いて、何ものをも持たなかったけれどもしかし幸福だった若い日の自分をなつかしく回想する。この「帰れ」と希望から彼の哲学的体系が生まれた。それは人類を、その輝かしい文化の苦悩から、ふたたび素朴な小児の楽園と立ち帰らせようとして説かれたものである。その楽園とは、ただ単純な牧者と農夫のみが住んでいるところで、やさしい母なる自然の法則をのぞいては何らの律法にもわずらわされぬ別天地である。
今日なお多くの人々のあこがれの的となっているルソーのこの睦まじい人類の楽園の理想は、その魅惑のみなもとを、彼の失われた若い日の思い出から、緑のサヴォアの山々から、またレ・シャルメットの田園から得たものに他ならないのである。




