〈英雄と天才〉
遠いむかしの英雄たちにあっては、勇敢さは、不断の苦しい生活の脅威から生じた一つの原始的欲動であった。そして闘争は、その体力の充実感と根源的活動欲求とにはけ口を与える手段の一つとして、平時においても行われた。ことに彼らは血や破壊や残虐な苦痛などに対する猛獣的な渇望をこれによって満たそうとして闘った。そしてかような渇望は今日なお大きなしぐさの中に激しく潜んでいて、これを抑制しようとする美しい文化の労作を一撃のもとに破砕しようとするのである。静穏な文化発展の時期には、生産的な文化価値を創造する思想家や詩人は英雄よりも高く評価されることが多い。しかし、歴史時代の初期において彼らはようやく発育しはじめてはいたのだが、まだ英雄の影に覆われていた。また司祭や、歌い手や、医者や、腕のよい鍛冶屋なども、同じく英雄叙事詩の中の重要な脇役として初めてその存在の価値をみとめられたのだ。すぐれた頭脳の人や、発見者や、科学者や、芸術家たちは、主として人類史上の風静かな盛夏の時代に、天才の属性をもつものとして崇められる。天才の概念も、これを歴史的に見れば、これらの人々について最初にできあがったのである。
しかし文化民族の上に一度大事変が勃発すると、英雄はその本来の姿に立ちかえってふたたび舞台に登場する。しかも彼は今や単なる原始的要素のみをそのえたものではない。その勇気と意志力とのほかになお複雑な道徳的能力をも兼備している。原始的な力のみではもはや用が足りず、極度に洗練された感情と、思慮に満ちた叡智とによってのみ、偉大な文化民族の英雄たちはその困難な闘争場裏を闊歩しえるのである。遠いむかしの英雄たちは、伝説の中に賛美された腕の良い鍛冶屋なしでは存在しえなかったが、近代の文化民族間の戦闘に勝つためには、あらゆる本質的な存在条件と戦闘用具とが準備され、混乱のただ中にあっても科学者と発明家との最高度の頭脳労働が休みなくつづけられることが必要となった。この科学者の仕事は、すべての英雄行為と同じ程度の献身的精力を必要とするものであり、これなくしては、いかなる英雄的戦闘精神もただいたずらに血を流すにすぎない。それゆえに、最大の近代的英雄たちの多くは同時に頭脳の人であり、彼らは学者や芸術家の良き一面を己がうちに蔵していた。
(すなわち、現代の(革命的)英雄は、万能の人でなければならない、ということが必要条件となる。)
古代の英雄の要素として見られた勇気、剛健、戦闘力等の「基本本能」が、文明化して来た幾世代かを通じてなお良く保持される場合には、近代の統帥者の人格にも利益を与えることがある。かかる古代の英雄の姿を如実にあらわすものは、老将ブリュッヒャーのような軽躁性の猪突的人物である。ブリュッヒャーは戦争さえあれば満足する人で、古代ゲルマン人と同様に、気の長い瞑想や閑日月を軽蔑した。衛戍勤務を、彼は「拷問の苦しみにも似た無為の仕事」と呼んだ。冒険によって絶えず新しい刺激を得たいとのぞんだ彼は、平時は高い金銭を賭けた勝負事でかような冒険に対する欲求を補っていた。彼は年老いた勇士のようにこの賭け事に熱中して莫大な金を失った。将軍としてのブリュッヒャーは、巧妙な理詰めの戦法よりもむしろ迅速で冒険的な軽騎兵的戦略を好み、人々を統率する場合も概して全く本能的で、直情的で、民衆的であった。
この単純な英雄ブリュッヒャーは、他のある種の将軍たちと同じように、さほどに深い知恵を持ってはいなかったが、しかし人物としては非常に独創的でしかも弾力があり、その単純さは敵も味方もひとしく認めるところだった。
近世史上において偉大な業績をなしとげた英雄たち、たとえばドイツにおけるヴァレンシュタインや、フリードリッヒ大王や、ビスマルク、あるいはカエサルとかナポレオンとかいうような英雄たちの多くは、ブリュッヒャーなどとはちがい、全く複雑な、謎のような人物である。彼らは、その心の奥に、たがいに全く相反する奇妙な性格を持ち、一見したところ、道徳的な矛盾に満ちている。彼らの勇気と意志力とは、単純な原始的なものではなく、相互にはなはだ相容れぬいくつかの心的機制の複雑に錯綜した成果である。近代の文学者たちが、いわゆる「君主的人間」として好んで幻想するような人物は、地上にはかつて存在しなかった。この「君主的人間」とは、超人としてニーチェが創造したもので、思弁的な歴史の構成物である。この「君主的人間」は、「金髪の猛獣」、すなわち健康で原始的な英雄の面と、イタリア・ルネッサンス時代の君侯たちに見られた、謎のような、倒錯、変質した陰謀家と圧制家と毒殺者との面をそなえた者であって、ヤコプ・ブルクハルトの研究の中から、ニーチェの思想界に採り入れられたものである。すなわち文化の香り高いフィレンツェと原始の森とが、また古代の英雄を謳った『ヴァルターの歌』(ドイツ中世の英雄詩)とマキアヴェリとがそれぞれ共存するというまことに不可思議な混合物である。ここでは生物学的発展の発端をなすものと終局のものとがむりやりに同居させられ、民族未開時代の形象と文化爛熟時代の産物とが強制的に併合され、こうしてここに「超人」として、人類発展の未来の理想が提出されたのである。ニーチェの考え方この英雄的人物は、最高の健康と最高の天才性とをかねそなえる者でなければならなかった。しかしこのような結合は現実には決してありえない。かかる結合は概念的には見事で暗示的ではあるけれども、生物学的には残念ながら一つの矛盾でしかない。このような超人は、未来の人類に対する陶冶の目標としては十分に役立つだろう。それはちょうど馬の飼育場において優秀な競走馬を作り出そうとする場合と同じであって、この競走馬は、駿足であると同時に気候風土や艱苦に堪え得る野生馬の強さをも持っていなければならないのである。




