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透明な神経の向こう側  作者: poruru09
第1A部 パトグラフィ

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〈ローベルト・マイアーの場合、関係妄想〉

 精神医学の上で偏執病者の関係妄想と名づけるもの、すなわち、どんな些細な日常の観察をも、すべて過価観念に関係づけて考えねば承知できないという傾向は、天才的研究者にもしばしばみとめられる。長いあいだ、非常な熱心さで一つの思考方向にのみ専念していた発明家が、ちょっとした日常経験から暗示を得て、偉大な天才的な真理を発見するというような例は古来稀ではない。たとえばガリレイである。彼は寺院の燈火の揺れるのを見て、振子の法則を考えついた。

(ついでに言うと、天才研究者の場合は、どの些細な事柄が重要であるか否かを見抜ける判別能力を持っていることが多い。つまり、取捨選択能力が優れているということであり、ありていに言えば、鼻が利くということになる。しかし、その天才自身はなぜ判別できるのかを説明することができない。)


 ハイルブロンの医師ローベルト・マイアーがエネルギー保存の法則を見出した動機もちょうどこれと同じである。彼は生まれつき強い熱情と資性とに恵まれ、すでに学生時代から、思考の卓抜豊富な点や、着想の突飛な点や、常習的放心等によって人々の注目を惹いていた。連想作用の障害はひどいもので彼にある一つのことを語りつづけさせることはほとんど不可能であった。彼はつねに一足飛びに最後の結論まで行ってしまい、中間の条理をまったく顧みなかった。彼の精彩ある機知は仲間を強くひきつけたが、彼の話が突然会話の題目と関係のないところに飛んだり、突拍子もない結論に行ってしまったりするために、誰でもがすぐ彼をおかしな人だと感じるのであった。彼特有のこの思考機構にさらに拍車をかけたのは、その激しい気質である。愛すべき熱中に、また終日の憤怒に、彼はあらゆる節度をも忘れるほどであった。


 10歳の少年のとき、水車を見て、すでに永久機関に関係のある物理的力の保存と転化とについて疑問を抱き、そのとき以来、彼はこの一つの考えから離れることができなかった。

 26歳のときに船医としてオランダ領東インドに航海したが、その途上での二つの小さな偶然の観察が、彼の胸中にあった例の考えに火をつける決定的な契機となった。その一つは、暴風雨ののちの海水はその前よりもあたたかいという操舵手の偶然の言葉で、もう一つは、スラバヤの波止場で一人の水夫に瀉血を行ったとき、この熱帯地方では、静脈血が、他の寒冷な地方のような暗赤色ではなく、鮮紅色を呈したことである。この生物学的な熱調節の現象を観察したことから、例の彼特有の思考は突然に飛躍した。こうして彼はついに熱の仕事当量の法則を考えついたのであった。

 鮮紅色を呈した水夫の血を見たことに驚かされ、彼はそののち一週間というもの、日記をつけることも忘れ、その考えに取りつかれたまま、ただちに同じ船で帰路についた。すでに往路の際から明るかったり暗かったりする感情の不調に悩んでいた彼は、帰路の途上では、数日間つづいた激しい「せん妄状態」、すなわち、急激な興奮と精神異常との発作とを起こすに至った。


 帰郷後、妻帯して、ハイルブロンの一開業医として診療に従事するかたわら、彼は胸中に燃える思想の著述にとりかかった。そして三年の間隔をおいて順次四つの労作を発表した。『無機物界における諸力に関して』が1842年、『有機的運動の物質代謝に対する関係』が1845年、『天体力学について』が1848年、総括的な最後の論文『熱の仕事当量について』が1851年である。

 この決定的な時期におけるマイアーの精神状態に関して、彼の妻の語るところによれば、彼は当時、周囲に目立つほど変わっており、ことに突然激しい興奮状態におちいることが多かったという。そのときの様子を、彼女のやさしい言葉を借りて形容すれば、「ちょっとした非常識なこと」であって、たとえば家具をこわしたり、衣類を裂いたりといったようなものであった。そして彼はそのもっとも親しい周囲のもの、ことに妻に対して、しばしば奇妙な非理性的な要求をし、自分でそれを「悪たれ小僧」のしわざと呼んでいた。前述の1840年のインド旅行以来の数年間というもの、マイアーは彼の学説の解決に没頭しきっていたから、人との私的な会話においてさえ、自己の念頭にある問題以外のことを話すことがむずかしかった。


 しかし彼の論文が学会に発表されると同時に、いち早く闘いが始まった。それは一方では「エネルギー保存の法則」の承認に関してのもので、また一方ではこの発見の優先権の承認に関してのものであった。学者仲間も、最初のうちは、この門外漢の無名の一開業医の業績に対して、特別の注意を払わなかった。高名なヘルムホルツも永いあいだ彼の真価を認めず、ザイファーも『アウスブルグ新聞』紙上で、彼の論文を手ひどく排撃した。自分の考えの偉大なことを確信していたマイアーは、自分の著作が学会の注目と驚嘆の的となることを期していただけに、今や彼の心は、強い緊張と、いたく裏切られた期待とで転倒した。自尊心と羞恥心とはこもごも彼の心を悩まし、彼は永いあいだ、非常に不安な精神状態にいた。彼はパリの科学学士院に宛ててきびしい抗議書を提出し、この法則の最初の発見者と自任するイギリスの物理学者ジュールに対して、発見者としての自分の名誉を守ってくれるようにと強硬に主張した。


 この争いに激発された興奮は、1850年の春、ザイファーの論争的論文が出るにおよんで頂点に達した。マイアーはこの論文によって人格的に侮辱されたと感じ、『アウスブルグ新聞』の編集者にしばしば書を送って反駁しようと試みたが、無益だった。マイアーはほかの人々のように、他に注意をまぎらすことによって感情の圧迫から逃れるということができなかった。かえって執拗にわきめもふらず、現在自分の心を占めている考えに没頭した。かつては例の発見の考えから寸時もはなれることができなかったと同じく、今度は現在こうむっている不正に対する怒りを、頭の中からぬぐうことができなかった。新聞や学会の、自分に対する態度にすっかり憤慨した彼は、友人らのなぐさめの言葉をも受けつけず、怒りのために筆を執ることさえ忘れて、平安と休息のない幾夜を懊悩のうちにすごした。

 ついにある蒸し暑い、全く眠れなかった春の夜、激しい精神病の発作が突然に彼をおそった。1850年5月28日のこと、折から目をさました妻の見ている前で、着物もきないままの彼は、二階の窓から舗装された街路に身を躍らせ、重症を負って横たわった。


 しかしこの投身後、いくばくもなく、彼の精神状態は回復した。例の発見の優先順位をめぐる争いの最後の何年間において、すなわち1850年以前に、すでにマイアーは厳格な聖書的信仰へと転向しつつあったが、この信仰と、彼の発見した、すべて神秘的なものの一切を否定する、冷ややかな因果論たるエネルギー法則とは、彼自身がしばしば感じたように、はなはだ相容れぬものであった。発見者としてのにがい幻滅が、彼の精神的関心を、科学的正確さから、神秘的宗教的なものへと急激に転向させたことは確かであろう。しかしそのもっとも内面的な根拠は、かかる外的なものの中にはなく、もっと深いところにあった。そして、それはただ精神医学的にのみ理解されることなのである。

 この宗教的帰依に引きつづき、重篤な精神病の時期が来て、それが1853年の秋まで、およそ二年間つづく。それは数日の間隔をおいて来襲する激しい周期的な躁暴発作で、その中間期の初期には憂鬱と罪障観念、後期には躁病性の陽気な気分が主としてみられた。気分のよいときには、マイアーは非常に快さげに、勝手なことを言いながら散歩などをした。


 ローベルト・マイアーの生涯の後期にも、前期以上に規則正しく周期的に循環する病的な感情動揺が見られる。この興奮は1852年ほど強くなることは決してなかったが、しかし彼はそののちも、回数にして三度、延べ数か月間、ケンネンベルク精神病院に収容された。すなわち、1856年、1865年、1871年の三度である。入院とまで行かぬときでも、興奮期にはいつも非常に敏感で、身近の人々に対して粗暴になり、何時間にもわたり、あるいは昼夜を通して、憤怒発作に駆られた。こんなときには、彼は絶えず家の中をうろついてアルコール飲料を濫用した。この興奮期に引きつづいて憂鬱期が来ることが多く、そんなときにはぶつぶつと愚痴をこぼしたりしたが、しかしそれ以外のときには、限られた範囲ながら、医業にたずさわることができた。


 1851年から1862年にわたる間は、学会からすっかり忘れられ、一つの論文をも発表しなかった。彼の崇拝者たちは、彼がもはや回復しがたい精神病にかかったのか、あるいは精神病院で死亡したのかと考えたほどであった。1862年に、イギリスの物理学会の主導者ティンダルが、個人的な温情をもって、彼の科学的功績の承認を闘いとってくれて以来、ローベルト・マイアーはようやく有名になりはじめたのである。

 晩年にすすむとともに、彼の興奮の程度は軽くなり、その回数も少なくなった。そして1878年3月20日に没したのであるが、全ヨーロッパの隅々から送られた尊敬の声は、彼の晩年のみならず、その死をも包んだ。


 このようにローベルト・マイアーの研究者としての生涯は数奇をきわめたものであった。船旅の途中、激烈なうつ病的精神異常の前段階にあって、突然一つの照明から照らし出されるように、物理学のエネルギー法則に関する思想を暗示されるや、たちまち万事を放擲し、日記も捨て、多年狂人のような放心のさまで街路をさまよい、他の事は一切語らず、あいさつの代わりにラテン語の物理の公理を用い、悪童のように家具をこわし衣服を破り、しかもその間に四つの不朽の論文を著わし、学会から嘲笑されながらも自己の学説をパリの学士院にまで持ち出して、ヨーロッパの碩学らの承認を迫り、ついに激しい躁暴発作のために精神病院に収容され、二年後に全快して退院した後は、普通の市民としてまた医師として平凡に暮らし、その11年間は、もはや一切筆をとらなかったというのである。

 このローベルト・マイア―の気質の激しい拍動にくらべれば、ゲーテの生涯の波動はちょうど和やかに揺れる田園詩のようなものだ。ローベルト・マイアー、彼は学者にあらず、熱情的な愚人、憑かれたる者、大酒飲みである。海の上をはせめぐり、窓から身をおどらし、怒りに狂い、感激に熱狂する。そして中年期における二つの著しい興奮期にはさまって、きわめて緊張した短い数年の歳月と、ただ一つの思想 ― 19世紀の自然研究における偉大な思想 ― が介在するのである。精神病者のよろけた足取りの真っただ中から、ちょうど打ち上げ花火が短い煌々と闇を照らすように、この大思想は浮かび上がったのだ。そして彼は、それより以前には無名の士であり、それより以後は、天才的ひらめきの跡形なく消え失せた精神的残骸であったのである。


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