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透明な神経の向こう側  作者: poruru09
第1A部 パトグラフィ

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〈天才タイプの研究者〉

 古代ギリシアの偉人たちは、精神の精華はできる限り労働とはなれることによって発揮されるもので、規則的な千篇一律の職業的仕事は、精神の独創性にとって危険であり、これを凡骨化するおそれがあると考えていたのである。この考え方は一面の真理をふくんでいるが、しかし精神の緊張力を得るためのこのギリシア的方法は、人類の精神の一つの発育段階においてのみ適合したということを忘れてはならない。なぜならば、その時代には、人は多くの能力や広い予備知識を持たなくても、新しい精神的価値のあるものを創造することができたからである。今日はそれとは事情がちがう。とくに今日の科学的研究においては、激しい職業的勤勉をなさず、ただ精神的論議をたたかわすだけでは、決して成功をおさめることはできない。


 ところが実際には、科学においても、ただ勤勉のみで独創的な新しい仕事がなされることは決してないのである。ましてや天才的と言われるような仕事は断じて勤勉のみの所産ではない。人は得てして科学を、芸術とは反対の無味乾燥なものだと思いがちで、一つの科学体系は、巣をいとなむ数多の勤勉な働き蜂の、千篇一律な労働と協力にも似たやり方で作られるものだと想像している。しかし事実はそれと異なり、科学の進歩もまた何よりもまずシラーの法則の公式に従う。すなわち、それはごく少数の非常に卓越した建築士か、独創的な指導者の手によってのみ行われることであって、これらの人々が、多くの勤勉な者たちを、数十年の長きにわたり、労働に服せしめて初めて達成されることなのである。真の研究者の仕事が決して無味乾燥なものではないことは、大詩人や預言者らの場合と少しも異ならない。科学者の場合も、詩人や預言者の場合と同じく、ダイモニオンがはたらき、烈しい感情と唐突な直観がひらめく。従って科学的成果もやはりある特別の感情機構と思考機械との産物であり、比較的少数の人間のみが有する特定の精神素質とつねに密接な関係をもつものなのである。 


 研究者の業績は、量的には知能の高さ(たとえば感覚の鋭敏さ、記憶のひろさ、語彙の豊富さ、観念とその連合のゆたかさ)によって、また質的には特殊な才能の方向と才能の型として、一定の脳髄機構や体質や人種に従い、遺伝的に規定されている。体質によって才能の方向に根本的な差異のあることは、クレッチュマ―らが多数の被験者について実験的に研究した。それは直観的もしくは抽象的な思考、色彩もしくは形態に対する感受性、体系性、観念の粘着性や運動性等についての研究である。しかし研究者の偉大な業績を単なる知能のみの問題と解し、その卓越した人格を問題にしないならば、それは大きな誤りである。


 外見には、いかにも落ち着いた透徹した客観性に立脚すると思われるすぐれた科学的業績のかずかずがある。この場合、卓越した知能と冷静で純粋な客観性のみで偉大な研究業績が成し遂げられるものか否かという疑問は、さしあたりまず提出しておくだけにとどめよう。これはまだ解決されてはいない問題である。しかしたしかにその通りと言いきる人もいないだろう。19世紀における偉大な医学的発見期の大家の一人であった外科医ビルロートは、自身高い音楽的質性をそなえ、かつヨハネス・ブラームスを親友にもつ人であったが、彼は多くの知名の人々についての豊富な知識にもとづいて、次のように言う。「偉大な自然科学者や医学者は、つねに多少とも狂熱的なものや空想的なものや宇宙的なものへ突進しようとするものを持っており、彼らの多くはまた芸術に対する嗜好をいだいていた。のみならず、彼はしばしば同時に詩人でもあり、画家であり、音楽家でもあった」と。


 偉大な独創性を持つ卓越した研究者の心理の上にしばしば明瞭に見られるものは、意想外な独創性と、おののくような鋭敏な感覚と、高鳴る精神の緊張とである。冷ややかな思弁の背後には、熱情に燃える魂と、注意深くはぐくまれて胸底深く秘められた願望の世界とが緊張して横たわっている。ふかい人生の痛手が偉大な科学的体系を生み出す動因となった例は古来稀ではない。ここでは客観性はその人の最初からの持ちものではなく、狂熱的な認識欲によって闘いとられたものであり、また精神の激しい緊張によって終局的に獲得されたものである。

 内心の感情生活と気質とに由来して、偉大な科学的業績をもたらす原動力となったものはさまざまである。愛と憎しみ、虚栄と権勢欲― 神への愛と運命に対する愛。それは天文学者ケプラーの場合のように、自然法則中の神々しいものに対する、大きな、ひそやかな愛着のこともある。 ―救助しようとする衝迫や、支配しようとする衝迫のこともあれば、多くの探検家の場合のように、遠隔の地と危険とに対する冒険的快楽であることもある。また認識に対する純粋で熱情的な衝迫である場合も稀ではない。


 天才的と称し得るほどの科学的研究は、多くの場合、精神医学的に、過価観念、あるいは以前によく用いられた固定観念の形式に従って達成される。この言葉は、しかしある思考型のうちの病的でないものを理解するために用いられることもある。細菌学上の偉大な発見者パスツールは「実験者の錯覚は彼の強味の一部をなすものだ。彼の指針となるものはその先入見である。」と言った。思索力が強くて、しかも過価観念にとらわれた人を、われわれはー もしこれらの人々を病的と称しようと思うならば ―偏執病者と呼んでいる。偏執的思考の本質は、強靭な深い熱情をもった人が、ある特別の感情の体験によって、一定の方向に偏した考え方にとらえられ、数年、数十年ののちまでも、非常な確信をもってこの思考を追求する結果、その精神生活は、この暴君のような先入観念によって支配されて、いっそう偏頗にかたむくという点にある。この思考がもしも外界と衝突するときには、なだれのようなすさまじい闘争が、たちまちにして展開される。そのもっともよい例を病的領域に求めるならば、偏執性好訴病者である。この場合、この過価観念が感情生活の中で固定されると、しばしば関係妄想が生じる。この関係妄想とは、どんなに小さな、つまらない日常経験をも、すべて自己の偏頗な思想の正しさを支持するものとして理解し、意味づけて、この過価観念を中心に、自己に利益のある思想的体系を発展させる一方、それに関係のないすべての経験を意識外に放逐し、盲目的熱情をもってそれらを看過するという思考の昂進した状態である。恋愛や、政党政治においてもこのような過価観念が生じる。そして時と場合とにより、あるいはその人の精神素質のいかんによって、大きな不幸事をかもす。その結果、精神病院に収容されたり、凶行を演じたりすることも少なくない。


 われわれは、世のつねならぬ思想をもたらすめずらしい情熱にしばしば遭遇する。まことに天才は勤勉であるが、しかしこの勤勉たるや、量的に莫大な勤勉ではなく、質的に強烈な勤勉なのである。極めて一面的な情熱をある一点に集中するという勤勉である。天才的研究者および発明家は実に過価観念の支配の下において初めて勤勉なのである。

 近世の関頭に立つ好戦的闘士であり、偉大な研究者であり、医師であったパラケルススはそのような人であった。彼は同僚の医師たちをあらゆる侮蔑の言葉をもって誹謗し、職服を「愚者のしるし」として拒絶して革製の胴着に剣を帯し、行きずりの人と酒場で無遠慮な放談をしながら痛飲するというような人物であった。彼は日中の休みない仕事を終えると、患者あるいは化学炉のもとから馬に乗って帰宅し、二、三時間のあいだ、長靴と拍車をつけたままベッドにもぐる。そしてかたわらに侍らせた助手に、眠りの合間、新しい学問について口述するところを飛ぶような速度で筆記させたのである。それは「すべて肉体的なものが休み、周囲がひそやかに静かになった夜のときが、思弁し、精神をはたらかせ、空想するのに、もっともよくもっとも有効」だからであった。彼は神秘的に瞑想する粗野で情味深いシュヴァーベン人で、純粋の経験論者であると同時に、空想と思弁に湧きあふれるような人であった。激しい性急さと激情をもった猪突家で、気ちがいじみたつむじまがりでもあった。彼は行く先々いたるところで、ただちに葛藤をまきおこした。彼にとって輝かしい活動の舞台であったバーゼルの教授の地位も長続きはせず、赴任後11ヶ月目にはすべてが根こそぎ破砕されて、四面楚歌のうちに流れるようにしてこの都会を去ったのである。この土地からかの土地へと落ち着きなく流転し、招聘され、歓迎され、憎悪されることを繰り返し、内心の不安に駆られつつ、この流浪者はわずか48歳で悲劇的寂寞と疲弊とのうちにその生涯を終わったのである。


 パラケルススは宮廷をも都会の勤務をも好まなかった。彼は言う、「神は善人にも悪人にも太陽と月を輝かせ給う。・・・それゆえに、自由を与えられし汝は、この太陽のあるごとくあれよ」と。また「医師とは、心のうちにはぐくまれるものであり、神から出るものであり、自然の大光であり、また経験に富むものである。真心からの大愛を求めるとしても、医師の中にある以上の大きい愛は、どこにも見ることができない」と。高名でありながら赤貧洗うがごとく、人々と協調することができないにもかかわらず人々を助けるためにあらゆる誠実を尽くしたパラケルススは、その砲火のように激しい粗野の背後にあるめずらしい独創性によって、中世の書籍的知識から近世の経験的医学への移行を完成したのである。


 ここでツェッペリン伯を想起してみよう。彼は多年ボーデン湖のほとりに住んで、飛行船作りに没頭し、飛行船を作っては失い、失っては作りしていた。彼はおどろくべき執拗さでこの事に当たり、操縦しえる飛行船を作るためには莫大な費用をも惜しまなかった。当時にあっては、これはまだすべての人々から時期尚早の不可能ごとだと見られており、彼は精神病院に収容すべきあわれな精神病者だとさえ思われていた。ところが一朝それが成功するや、昨日まで精神病者だの偏執病者だのとさげすまれていた彼は、たちまちにして「20世紀のもっとも有名な人物」として祭り上げられてしまったのである。

 果たして成功が彼の人格を一変させたのだろうか。この成算のない「発明妄想」

 を脳中に描きつつ、その財産と市民としての名声を失っていた時分には、彼は天才でなかったのであろうか。あるいは彼は元来愚か者であったのだが、後に誰かが彼を天才と崇めたことによって、いくらかその愚かさの程度が少なくなったとでもいうのだろうか。


 世には、成功を勝ち得た発明家と、失敗した発明家とがある。そして人は成功しなかった発明家を偏執病者と呼ぶのである。

 過価観念のために、研究者や発明家らの精神的視野が狭められることは、彼らが日常生活において、気味わるいまでに無頓着な点に明白にあらわれている。俗に粗忽は学者の特徴だと言われる。これをもっともうまく表現するならば、研究者は注意力の過度の集中によって、すべての周囲の事物に対して無関心となるのである。これはいわば一種の自己催眠であり、一点への緊張した凝固である。精神の全精力をただ一つの焦点に集中する能力が、多くの研究者に共通な一つの特性である。そしてこれはもちろん素質にもとづくものであって、努力などによって獲得されるものではない。また多くの著名な研究者には、おののくような繊細な感受性と、高揚的かつ熱情的な気質が、容易に認められる。


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