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透明な神経の向こう側  作者: poruru09
第1A部 パトグラフィ

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〈詩人マイアーの場合、青春期発動の著しい遅滞〉

 天才的生命曲線としては、なおこのほかに青春期発動の著しい遅滞が見られる場合もある。詩人コンラート・フェルディナント・マイアーの場合はその典型的なもので、普通の内分泌腺作用とは著しく異なり、精神医学的にも稀有な例である。彼においては、正常な人間の発育の法則は逆転されている。彼の青年時代はその生涯の真冬であり、後年の壮年期に至ってようやく春がおとずれたのである。彼の生命曲線に似たものは、部分的にはドストエフスキーやリーリエンクローンにも見出すことができる。何人の体験もおよび難いほど独特の、個性的な、彼の詩の主題目の一つは、この、他に比類なく遅滞した人生の午後における魂の目覚めであり、またすでにかたむきかけた青春のひとときを瞬時でも悦楽しようとするあふれるような幸福感と旺盛な活動感とであった。深い悪夢から目覚め人のように、彼は今、歌い始める。


「われは重き束縛のきずなの内にありき。

 われは生なく夢の中に萎靡してありぬ。

 今や多くの虚しさからざる時にかこまれて

 今日の日はわがうちに力強くあふるるなり。」


 この時をはじめとして、春がめぐりくるごとにこの青年詩人の胸に湧き出たものは、自ら創り出す甘美な無常感のようなものではなくて、個人的な体験の苦渋であった。


 春の光のかがやくごとに、

 流れの水面の泡だつごとに、

 若き日をむなしくせしわが胸

 呪われしものの如くにさまよう。


 あだなりし青春こそ痛ましくもまた

 永久のあこがれの避け所なれ。

 春めぐるごとにいつの日も

 心の春をぞわが胸は慕う。


 もしもマイアーが40歳以前に死んだとしたならば、彼を知る二、三の人が、ちょっとした同情と、なかば重荷をおろしたような気持ちとで、その墓の傍らに立つにすぎなかったであろう。名家に生まれた才能のない不肖の子、何とも手のつけようのない青年、家族の厄介者、家の恥、できそこないの怠け者、チューリッヒの人々は彼をこのようにうわさするに止まったであろう。彼のためにできるだけのことをしてやろうとして、彼の周囲の人々は、この青年のあわれな詩をグスタフ・フィーツァーのもとに送ったのであるが、フィーツァーも彼に詩作をつづけることをすすめかねた。マイアーの妹は、28歳にもなった兄が何の定業にもつかず、ただ家族の重荷となるのみなのを見て、自ら何か職業を身につけようと覚悟を決めたほどであった。

 母親はもうとっくに成人した息子がやっと詩神(ミューズ)と別れたことをたいした進歩だと喜んだ。そして彼の結婚の意志を強く退けた。母親の手紙の一つには次のようなことが書かれてある。

「私のかわいそうな倅といったら、いつまでたっても同じようでいっこうに変わりません。相変わらず気重で、いくら強いてもきまった仕事をやることができない始末です。倅には何の目的もなく何の望みもありません。また決断をすることができないのです。たまに散歩するとか読書するとか、またはちょっとした勉強をするくらいで倅の一日が終わります。それとて、彼の生涯にとっては何の役にも立たぬものです。私はもはやこの世で倅から何ものをも期待してはおりません。」


 人を厭い、ぼんやりと夢見るように不機嫌にふさぎこんで、彼は室内のここかしこに座して種々雑多な駄作をものし、一つの場所から他へ移ることを好まず、何に対しても才能を示すことがなかった。彼はある時は画家に、またある時は詩人に、ある時は法律家になろうと志し、翻訳を試みたりしたこともあったが、その後はふたたび勉学のやり直しを始めて、パリとベルリンに旅行した。しかしそこでもむなしく時をすごしたのみで、またチューリッヒにもどり、読書に没頭した、だがそれとても特別の役に立つことではなかった。ある時は『使徒行伝』の校訂を企てたりもした。友人たちは彼の面倒を見なければならず、母親は彼の生計に要する費用をすべて負担しなければならなかった。

 彼は淋しい大きな庭園を所有していたが、いつもただ独りで同じ芝生のまわりの小径を散歩した。そして誰かが不意にやってくると、茂みの奥ふかくに隠れこんで身を避けた。人々は彼がどこにも姿を見せないので死んだと考えたほどであった。ついには深夜を選んで家を抜け出して、ただ独り森閑とした街路を彷徨するまでになった。

 そのうちに、彼の態度はやや苛立たしさと鋭さを帯びてきた、機嫌のよい時でも、突然わけのわからぬ烈しい神経的な不安に襲われるようになった。こういうときには彼は涙に暮れて何をたずねられても黙して答えなかった。そうかと思うと突然人を傷つけるような荒々しい言葉を放ったりして、やさしく情のこまやかな母親との間にまで時々不和を起こした。彼は誰もが自分の身に近寄ることを喜ばず、あいさつの握手をかわすにもつねに指二本を用いるのみであった。


 27歳のとき、憂鬱症と心気症のために初めて精神病院に送られたが、当時、彼は自分は誰にとっても不快な存在だとか、自分のはく息はくさいなどという妄想を抱いていた。彼の友人の一人は次のように語っている。

「空虚なもののうちに生きるという感情が彼を制してしまった。彼はもともと現実の生活の中に生きていたのではなく、ただ幻想の世界にさまよっていたのだ。彼には義務観念も、社交性も、日常生活の規律もなかった。彼は自己懐疑におちいり、その生活に不幸な終局をもたらすような試みにばかり歩み寄って行った。」

と。このことはまた彼の詩の一つの調子でもあった。彼は時折りひとりボートで湖水に漕ぎ出して泳ぎ、ついにはボートを見失い、夜半に至って家に帰りつくことさえあった。正体不明の妖精が水の底から彼に呼びかける。それは憂悶のため湖水に身を躍らせて自らの生を絶った彼の母親の声に似ていた。「水底から、あのやさしいなつかしい声が、絶えず私を呼んでいる。」彼はまた岸辺の葦の間から目くばせを送って何事かをささやく蒼ざめた妖怪を見たり、暗い夜の波間から、死んだ友人たちの声を聞いたりした。


 ところが齢も40に近づいたころ、無気味なこれらの行動は突然に終わりを告げた。彼はこの変転を、陰気な室に射しこんだ恵み深い太陽の光のように賛美する。そしてその後の39歳から67歳までの間に、コンラート・フェルディナント・マイアーは彼の芸術的作品の全部を書いたのである。その間も、神経があまりに繊細なために、気まぐれな気分の変転や一時的な疲労困憊に悩むことはあった。彼は外面的には熱情のない者のような様子を装っていたが、その内部には、きわめて些細な不協和音にも傷つけられ、自他に対する激しい感情の動揺にも堪えられぬ過敏な感情生活を秘めていたのだ。終始孤独で、現実を厭い、非理性的ではあったが、しかも彼の生涯は今や一個の価値ある生涯となった。それはもっともゆたかな実りを持ち、あふれるばかりの法悦の中に輝きわたる生涯である。ちょうど大きく静かな午後の太陽のように、彼の生涯の夕暮れは美しく黄金色に彩られたのであった。


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