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透明な神経の向こう側  作者: poruru09
第1A部 パトグラフィ

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〈ゲーテの場合〉

 ゲーテの生涯は明確に周期性のある典型的な躁うつ状態を示していた。軽い躁うつ病の具体例を一つ選ぶとしたら必ずといっていいほどゲーテの名前が挙がる。ゲーテ自身も科学的客観性にもとづいて、彼自身の精神と一般生活状態との周期性をくわしく観察した。彼は自分のうちに見られる循環性の波動を細心に記述し、そのうちの病的にまで高まる重い動揺を、明白に病的なものと解した。彼の友人たちや親しい協力者たちも、この点について補足する貴重な証言を残している。


 ゲーテは記述する。「私の内心で良い日と悪い日とが交代する循環性を、私はくわしく記しておかなければならない。私のうちにあっては、情熱、愛着、衝動、かれこれの所業、発見、実行、整理等のすべては、交代して規則正しく循環する。陽気、陰鬱、強さ、弾性、弱さ、落ちつき、欲求等も同様である。私がかたく摂生を守って生活しているときには、生の歩みはさまたげられない。私がいかなる時にいかなる順序で私自身のまわりを動くかについて私はもっと究めねばならぬ。」(1780年3月26日)


 ゲーテはこのような、明らかに頻繁でかつ短期間に交代する内的波動と同時に、年ごとの季節によって交代する感情生活の真性な循環性動揺を持っていた。このことは、エッカーマンとリーマーとが同じくはっきりと証言している。「ゲーテは毎年冬至前の数週間を憂鬱な気分のうちにすごし、嘆息するのをつねとした。」(エッカーマン=ソレ、1823年12月21日)

 これらのもののほかに、なおゲーテの生涯を分節するいくつかの大きな波の循環がある。その中には、ヴェルテル時代の憂鬱期のように、ゲーテ自ら明らかにそれを病的状態とみとめ、後年にいたってもなお無気味なものとして追想したようなもの(エッカーマン、1824年1月2日)もある。自殺の衝迫、すなわち彼の言う「生の倦怠」を指して、ゲーテは、「あらゆる症候」をそなえて彼の「もっとも深いところを荒らし狂った」一つの「病気」と言い、「当時死の波からのがれるために」自分の費やした努力について強調している(ツェルター宛、1812年12月3日)。天才と病的脆弱性との間の深い関連性は、ゲーテ自らたくみに説明している。これについての彼の言葉は、「おお狂えるこの不幸者―どこまで狂いまわらねばならぬのか」というものだ。

 以上述べたところにより、ゲーテが循環気質者であることにはいささかの疑いもない。彼の循環性動揺が、時折り病的な程度にまで達したことも、彼自ら明瞭に証明するところである。


 ここで特に重要なのは、このようなリズムこそ大いなる生命の法則であることを認識することである。それをしなければ、ゲーテの精神的創作の時期や種類について理解できないものが数多く残るのである。これに反し、ゲーテの示したこのような波動をなお「正常」とするか、あるいは「病的」と見るべきかの問題は、さほど重要ではない。またゲーテの生涯に反復された波長のながい循環性動揺が、一貫して7年の周期をもっていたか否かの問題も、同じくそれほど重要ではない。

 さて多くの皮相な観察者は、ゲーテを目して静謐と冷静とをもって終始した人と言う。だが実際のところ、ゲーテの情緒は絶えず変動していた。長い精神的枯渇および乾燥の時期と、一般精神的、性的、あるいは詩的活動の高揚の短い時期とが、一定の規則正しい循環をもって、彼のうちに繰り返されていたのである。


 まずゲーテの老年期から始めよう。ゲーテ自身がいみじくも言っている。「天才は一般の人々がただ一度しか持たぬ青春を幾たびもくり返して経験する。」と。その晩年において、ゲーテはかつてはほんの遊びごとにしかすぎなかったような仕事にも、今は努力して自らを鞭打たねばならぬことが度々あると訴えているが、彼の主治医フォーゲルによると、「1831年の夏だけが例外であった。ゲーテは当時しばしば30年来かつて見られないほど旺盛な創作力がみなぎってきたことを語った」という。実際1830年から1831年にわたる二年間は、特別の興奮がゲーテにみなぎっていた。これは繁忙と発憤というような言葉で表現すべき状態であった。ツェルターに宛てたいくつかの手紙からも、この白熱的な高揚のさまは推しはかられる。この期間にゲーテは彼の自叙伝を書き終わり、また特に『ファウスト』を完成しているのである。


 この最後の高揚から約7年前にさかのぼろう。すると1821年から1823年にわたるもっとも注目すべき時期に到達する。ここで74歳の老翁の静穏な生活は突然に破れ、この冷静にして威厳のある、しかもいささかながら頑固な宰相は若返ってなごやかになり始めた。彼は19歳の乙女ウルリーケ・フォン・レーヴェツォーに恋したのである。温泉地マリーエンバートやカールスバートにおけるゲーテは陽気で派手であり、またとくに性的興奮の状態にあった。音楽は彼を感動の涙にさそい、彼は「和解の夢」を夢見た。彼の当時の手紙は、この法悦境を如実に示している。彼はその中で言う、「長いことなかった好調子が、精神的にも肉体的にも感じられる」と。そして年齢が極端にちがっているウルリーケとの結婚をさえ考えた。ヴァイマル大公は仲介の労を執らねばならなかった。ゲーテは「釈明書」とも名づくべき、いくつかの手紙を書いている。9月になって帰郷の途すがら、彼は詩『悲歌』を書いた。

「不快と悔恨と自責と哀愁とが

   今、うっとしい大気の中にたれこめる」

 ここで彼の気分は重い憂鬱に一変した。彼はすっかりふさぎこんで閉居し、涙を流し、心身の気苦労に悩んだ。そしてツェルターの愛情に充ちた慰めのもとにようやく元気を取り戻すことができた。


 詩人のこの最後の恋愛からさらにまた約7年前にさかのぼる。すると1814年から1815年にかけての、ゲーテの一生にとって前者に劣らぬ特異な一島嶼を発見する。これは『西東詩集』の時期であり、マリアンネ・フォン・ヴィレマーへの恋愛の時代である。

 宰相であり、自然科学者であり、収集家であり、文学者であるゲーテ、老年に入ろうとする端正で厳粛なゲーテの真摯さ、勤勉さが、ふたたび蘇えった青春によって、ここに一朝にしてくつがえされたのである。活き活きとした詩歌は泉のようにこんこんとほとばしり始めた。1814年7月21日、ゲーテは「ハーフィス」の最初の歌詞を書き、8月の末にはすでに30編の詩ができあがった。1815年5月までには、最初の100編が完成した。それからマリアンネ・フォン・ヴィレマーに対する恋愛が始まり、やがて「ズライカの書」において新しい一頂点に達する。この時代の多くの詩は、力強い気質と実に若々しい感覚があらわれており、われわれを情熱的興奮に誘う。ゲーテの他の多くのいかめしい芸術詩や教訓詩が、長い年月の経過の間に、われわれの興奮からは遠ざかってしまった今日でも、これらの詩歌は、シューベルトやフーゴー・ヴォルフらの作曲によって、いまだに人々の間に愛好されつつ残っている。かように今日なお愛誦されるゲーテの詩は、すべて彼の精神的高揚期に生まれ出たものばかりである。ゲーテ自身も、詩作がまるで発熱のように時々やって来ることや、ある時期には詩作せずにはいられなかったことや、興奮が去るとともに詩の源泉も枯渇してしまうことなどを明らかに感じていた。後年、この枯渇期に際し、ゲーテはエッカーマンに向かってこう語った。「『西東詩集』は私には何の関係もない。その中の東方的なものも情熱的なものも、いずれも今の私には残っていない。それは成熟の途中で脱皮した蛇の殻のようなものだ。」


 今までのところですでに見たように、ゲーテの高揚期はおおよそ2年間つづき、乾燥した沈滞期は約7年つづく。ここでさらに7年の昔にさかのぼろう。すると果たして1807年から1808年にわたり、ふたたび若やいだゲーテを見ることができる。ここでゲーテはミンナ・ヘルツリープおよびジルヴィア・フォン・ツィーゲザールに対して恋愛二重奏を演じ、またかずかずの短詩と、長編『親和力』をものしているのである。1807年、身体の調子をそこねたあと、カールスバートで湯治をしている間に高揚が始まり、それと同時に彼は性愛的気分になった。すなわちさかんな詩作活動のかたわら、秋にはミンナ・ヘルツリープとの恋愛を始めた。この関係はその冬を通じて順調に保たれたが、翌年の夏になって、ジルヴィアに対する愛情と置きかえられてしまった。この間に小説『親和力』が書き進められ、『日記』が著された。この好調子は冬までつづいたが、1809年以降、ふたたび例の枯渇が始まった。


 このように、ゲーテの晩年期は、四つの規則正しい間隔をおいてあらわれた高揚期によって、明らかに区別される。すなわち1807年から1808年、1814年から1815年、1822年から1823年、1830年から1831年という四つである。これより以前の二十年間の周期的波動はこれほど顕著ではない。1789年から1807年までの壮年期は、精神的にもっとも健康であったと同時にもっとも無為であった時代である。彼の一生を通じ、その壮年期は詩作的にもっとも貧弱な時代であった。今日なおわれわれの間に生き生きと残っている詩は、ほとんどイタリア旅行までの青年期か、『西東詩集』のような老年期の産物である。イタリアからもどってのちの数年間の特異な精神的荒廃と孤独とは、ただシラーの出現によってのみ打ち破られ打ち超えられたものであった。それは冷やかな技巧詩と擬古趣味と、何度も繰り返され打ち捨てられた詩作と、あとに何も残らない日常の小さな事件の時期にすぎなかった。


 かくてゲーテの詩作活動を長期にわたって萎縮させたものが、イタリアからもどってのちのヴァイマルにおける狭い生活だったという大方の文芸批評家らの想像は、およそ当たっていない。もしも時期さえ熟するならば、どんな哀れなみすぼらしい屋根裏にあっても、詩人は彼の詩を作るのである。しかも相当に興味深く精神的に豊富なヴァイマルの交友の中にありながら、なお詩を作ることができなかったというのは信じがたいことである。内的生命の高揚がありさえすれば、人はどんなに貧しい小都会にあっても、彼の感興をひく事物を至るところに発見するにちがいない。これに反し、内的衝動が欠けているならば、いかに華々しく輝かしい環境の中におろうとも、人はただ退屈を感ずるにすぎないのだ。ゲーテの周囲が彼にとってよそよそしいがゆえに彼が憂鬱になり孤独を感じたのではない。反対に彼の心が浮き立たねばこそ、彼は周囲の事物に対していささかの感興も覚えなくなったのである。

 

 ここでシラーとゲーテとの交友について考えてみよう。シラーはすでに歳久しくゲーテの近くで生活しており、特に1788年から89年にかけては同じヴァイマルに住んでいた。そしてあらゆる機会に熱心にゲーテとの交歓を求めていた。双方の知人たちも二人の間を結びつけようと努力を惜しまなかったのであるが、しかしすべての努力は無駄であった。ゲーテはきわめて冷淡な態度で尻込みしたのである。シラーの『ドン・カルロス』もさらにゲーテの注意をひかず、またシラーの詩もいっこうにゲーテの感興をそそらず、それのみか、シラーの芸術活動はかえってゲーテの敵意を買ったのであった。ところが、何年かののちに、突然理由もなく事情が逆転した。シラーの手紙はゲーテの温情のこもった返書を得たのである。のみならず、この返書の中には友情が語られていた。こうして二人の間には親密な関係と生き生きとした生活が生まれた。かくも長い間の忌避から突然にこの友情が生れ出た具合は全く奇妙であって、世にこれ以上のふしぎはないようにまで思われる。しかしさきに述べた1807年から1808年にわたる高揚期から、七年ずつ二度さかのぼると、それがちょうど1794年となり、この年こそはゲーテが突然シラーと親交を結んだ年に相当するのである。この簡単な計算式によって、ゲーテの精神発展史の上の決定的な、また謎の一点が氷解する。枯渇と軽い憂鬱の七年ののち、ゲーテはふたたびがらりと陽気になり、生彩を帯び、創作力を得、社交的となり、恋と友情に耐え、かつこれを渇望するようになったのである。いつもの高揚期にきまって見られた女性との恋愛のかわりに、この度は彼にとってもっとも意義深い、しかも密接な男性との友情が生じた。そしてかつては女性の愛人によって鼓舞された彼は、今回は立派な友人によって旺盛な詩作活動に駆り立てられた。いくつかのバラード(譚詩)と『ヘルマンとドロテア』が書かれたのは、これにつづく時代であった。シラーがゲーテの精神界に入ってきたことにより、特に重要な因子が外界からゲーテに加わったことは確かである。そしてこの因子のため、このときの高揚期は、他のそれよりも長く、数年のあいだつづいたのであった。しかしいったいいかにしてこの外界からの因子がゲーテの心中に入り得たのであるか。ことに長い間憎んでいたシラーといかにして友情を結ぶようになったのであるか。これらは文学史的に解釈することのできる問題ではなく、ただ生物学的分析によってのみ解答の得られる問題である。


 われわれはここで1794年と1808年の間に横たわる時期をしばらく飛び越してしまったが、この時期は著しく目立ってはいない。しかし全く重要でないというわけではない。すなわち1800年から1801年にかけては、『ファウスト』の重要な部分、たとえば散歩、復活祭の場、第二の独白等が書かれた。これらの部分は、いずれもその詩作の力において、ゲーテの青年時代の『ファウスト初稿』にもっとも近いものである。

 以上がゲーテの壮年期である。


 そこで最後に彼の青春期を観察すると、そこには著しい二つの頂点がある。その第一は、シュトラスブルクにおける学生生活の末期に始まった偉大な天才の時代であって、1773年の小説『若きヴェルテルの悩み』をもって最高潮に達し、リリー・シューネマンに対する恋愛を経て、ヴァイマル時代のゲーテ、『イフィゲーニエ』と『タッソー』詩人としてのゲーテへの静穏へと、漸次消えている。この時代におけるゲーテの精神生活は激しく動揺した。狂わんばかりの生のよろこびから自殺の試みに至るまで、上下の動揺がきわまりなかった。熱情的な恋愛と、熱病的な詩作の衝動が絶えず彼の呼吸をはずませ、ゼーゼンハイムのフリーデリケからヴェッツラールのロッテ、さてはリリー・シェーネマンと、若きゲーテの情事は尽きるとも見えなかった。『ゲッツ』、『ファウスト』、『ヴェルテル』、これらはいずれも当時の尽きるを知らぬゲーテの幻想が生み出した多くの偉大な姿の、ほんの一部分にしかすぎぬものである。それは彼がもっとも熱烈に生き、もっとも美しく恋し、もっとも不朽の詩作をなした時代であった。


 ゲーテの青春期の他の頂点は、1786年から88年にわたるイタリア旅行の時代である。これをもってゲーテの青春時代は外面的にも内面的にも終局を告げている。当時ゲーテは詩作とフォン・シュタイン夫人との情事にふけりつつ、次第に行きづまっていた。大作『エグモントとエルペノール』は進捗せず、『ファウスト』の筆もさらに進まず、『タッソー』は不満足な二幕ののちに中絶するし、『ヴィルヘルム・マイスター』も停頓するという有様であった。ところが1786年の9月に至り、重要な官職にあったゲーテは、夜陰に乗ずる盗賊のように、突如としてカールスバートからイタリアに向けて失踪してしまった。そしてゲーテはそこで約二年間の、愉快で、陽気で、束縛のない生活を享楽した。彼はそこで恋をし、旅をし、もっとも美しい詩を書き、ヴァイマルにもどるとすぐに花売り娘と恋をして、ついにこれと結婚した。そしてその後はふたたび威儀正しく義務に忠実な男子にもどって、晩年のもっとも長い時を過ごしたのである。


 さて今これらの挿話を、常套的な英雄崇拝の立場から離れ、ありのままの飾らない眼をもって観察してみよう。まず枢密顧問官某というような高官が、休暇でもないのに突然仕事を放擲して役所から姿を消し、二年の間、イタリアでしたい放題の暮らしをしたあげく、彼にとって、精神的にも社会的にもそぐわない家柄の、きわめて平凡な少女と結婚し、しかもその人が、それ以前にもまたそれ以後にも、いとも謹厳で、理性的で、勤勉であったとしたならば、われわれはいったいそれを何と解釈したらいいのか。

 普通一般の文学史的説明は、原因と結果が混同されるので、ここでもわれわれを満足させてはくれない。そこで前述したシラーとの謎のような友情関係の始まりからまた7年前にさかのぼってみよう。するとそこがちょうどイタリア旅行の時期なのである。日増しにつのる精神的乾燥や、詩作の枯渇や、孤独と不安の数年間ののちに、突然の爆発が起こって、衝動的な大胆な行為から、休みない活動、すなわちさかんな生の躍動、性的興奮、天才的創造性等があらわれ、最後にふたたび平静な秩序的な常軌へともどる。これがゲーテの生涯の感情生活の規則正しい曲線であり、同時にすべて循環性人格の示す典型的な曲線なのである。


 このイタリア旅行の時期からさらに7年を二度さかのぼると、1773年の『ヴェルテル』の時期となり、これが若きゲーテの天才的興奮期の頂点である。それはちょうど青春期の暴風雨と合流したために、特に深くまた長くつづいた。その中間の時期すなわち1780年から81年は、つまびらかに分析すればわかることだが、厳粛な死の気分の時期、それに続く性的および詩作的活気の時期である。このことは特にフォン・シュタイン夫人に宛てた手紙にくわしい。

 最後に、われわれは1767年、すなわち18歳のゲーテを見舞った最初の循環的動揺について述べることにする。それはケートヒェン・シェーコッフに対する情熱的な恋愛や、ライプツィッヒにおける乱痴気さわぎの学生時代で、これに引きつづいて、フランクフルト時代の激しい憂鬱期が来る。


 これが若い激しい時代である。後年のゲーテは、生の芸術家、落ち着いた大詩人の外貌を示していた。これは「補償過剰」であって、偉大にして優雅な態度の背後に、一切の快苦がどうにか緩和された形で秘められていたのである。生に対して芸術を要する者のみが生の芸術家たり得る。しかし人はその背後に、ささやかながら絶えず流れる精神的周期、すなわち暗い荒びた本質ともいうべきもののあることを見落としがちである。仮にかような見落としは許されるとしても、このさい見逃しえないのは、ゲーテの家系を四代にわたって荒らしている重い、悪い、遺伝的関係である。変人の父親、精神病の妹、子どもおよび孫たちの重い変質がそれだ。まことに不安定な危険な遺伝経路であって、詩人ゲーテの循環素質は、その間にあってたまたま幸運な境界例であったにすぎない。

 人はゲーテを目して、強健な精神的健康と、均整のとれた心的調和との模範であると考えたがる。しかしゲーテの家系はそれとは正反対のことを示す。彼の兄弟姉妹の多くが若くして病死し、ただ一人生き残った妹でさえも、憂愁と病弱と狂乱の中に世を去ったこと、またゲーテ自身が、この妹を苦しめたと同じ運命にまさに捕えられようとしていたことを知るとき、われわれはそこに人間の運命の何ほどかを感ずるのである。そしてそれは、ベートーヴェンやミケランジェロらの一生を毒した彼らの家系の運命とも全く同じものである。そこでわれわれは天才とは、変質しつつある一族のみにくい多くのただ中にあって最後に花開いた明るさにも似たものであって、そのかたわらには陰鬱な悲しみに沈む兄弟たちが立っていることを知るのである。


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