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父殺しの冤罪で処刑された令嬢は、十歳の冬に死に戻る 〜雪の上の足跡は、ひとつだけだった〜【連載版】  作者: ゆちこんす。
第一部 十歳の冬

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第3話 ぱちん

昼の鐘が鳴ってしばらくすると、屋敷は静かになる。


父は書斎にこもり、使用人たちは厨房の奥で遅い昼食をとる。エマは繕い物の籠を膝に置いたまま、居間の長椅子でうとうとしはじめる。


昔から、毎日そうだった。そのころの私は、それを知っていて、この時間に何度も屋敷を抜け出していた。


前の人生の私は、この日の午後、どこへも行かなかった。


今日の私は、行く。


私は外套をはおり、長靴に足を入れた。


裏口の戸を、音を立てないように押し開ける。


庭の雪の上には、ハロウ先生の足跡が、まだ残っていた。離れから裏口へ一本。裏口から離れへ一本。それから、離れから門のほうへ、もう一本。


先生は、もう町へ出たのだ。


私は、その足跡を踏まないように、塀ぎわを走った。


◇


下町までは、子どもの足だと、ずいぶんかかる。


坂を下るにつれて、屋根が低く、道が狭くなっていく。雪かきをする人。凍った井戸に湯をかける人。積もった雪を蹴って笑う子どもたち。煙突という煙突から、灰色の煙がまっすぐ空へのぼっていた。


初雪の日は、煙突がいちばん忙しい。


いつだったか、ノアがそう言っていた。みんなが一度に火を焚くから、煤が詰まる。詰まった煙突を通すのが、煙突掃除の仕事だ。


パン屋は、下町の真ん中の、小さな広場の角にある。


焼きたてのパンの匂いがした。店の前に、人が三人並んでいた。


私は、屋根を見上げた。


煙突掃除の少年は、屋根の上にいた。


雪の積もった斜面に片膝をついて、煙突の口に長い柄のブラシを突っこんでいる。頭から肩まで煤で真っ黒で、雪の白さの中で、そこだけ夜みたいだった。


「ノア!」


呼ぶと、煤だらけの顔が、こちらを見下ろした。灰色の目が、驚いたように丸くなる。


「お嬢? こんな雪ん中、一人で来たのかよ。怒られるぞ」


声を聞いたとたん、膝から力が抜けそうになった。


八年ぶりの声だった。


前の人生で、私が最後にノアの声を聞いたのは、初雪の少し前、あの約束をした日だった。そのあとのノアの声を、私は知らない。


「……約束、したでしょう」


声が、かすれた。


「初雪が降ったら、屋根の上から、町じゅう見せてくれるって」


ノアは、ブラシを持ったまま、目をぱちぱちさせた。それから、煤だらけの顔で、にっと笑った。


「覚えてたのかよ。お嬢、すぐ忘れるくせに」


覚えていなかった。八年間、一度も思い出さなかった。


「……今日は、覚えてたの」


「ふうん」


ノアは、屋根の端に立てかけてある梯子を、あごでしゃくった。


「上がってこいよ。落ちたら、俺が伯爵様に殺されるから、ゆっくりな」


◇


梯子は冷たくて、段に薄く氷が張っていた。


一段のぼるたびに、手袋の指先がかじかんだ。最後の段で、ノアが手を伸ばして、私の手首をつかんだ。


ぐい、と引き上げられる。


「ほら」


屋根の上に、膝をついた。


声が、出なかった。


町じゅうが、白かった。


低い屋根も、高い屋根も、時計塔も、市場の天幕の骨組みも、全部が同じ白をかぶって、冬の光の中で静かに光っていた。煙突の煙が、何十本も、まっすぐ空へ伸びている。


「な。すげえだろ」


ノアは、自分の手柄みたいに、胸を張った。


「初雪の日の、昼すぎだけなんだ。夕方になると、みんなが歩いて、雪が汚くなる。この時間だけ、町じゅう、まっさらなんだよ」


私は、うなずくことしかできなかった。


ノアは、足もとの屋根の、小さな明かり取りの窓をつま先で叩いた。


「で、ここが俺の寝床。町でいちばん景色のいい部屋だ」


坂の上には、伯爵家の屋敷が見えた。その手前に、町の中央の広場が見えた。


広場のまんなかは、雪が平らに積もっているだけだった。


まだ、何もない。


八年後の冬至祭の朝、あそこに台が組まれる。私はその上で膝をつく。町じゅうの人が、黙ってそれを見上げる。


「あそこの塔、見えるか」


ノアが、時計塔を指さした。


「冬至祭の朝はさ、あの鐘が町じゅうに鳴るんだ。屋根の上で聞くと、腹の底までびりびり響いて、すげえんだぜ」


私は、塔を見たまま、返事ができなかった。


あの鐘の音を、私は知っている。膝をついた首筋に冷たい木が当たって、その音にまぎれて、刃が落ちた。


あの朝、ノアは、どこであの鐘を聞いていたのだろう。


「お嬢? 寒いのか」


「……ううん」


寒くなかった。ノアのつかんでくれた手首だけが、まだ熱かった。


そのとき、広場から一本外れた路地を、黒っぽい人影が歩いているのが見えた。


痩せた体に、少し大きい外套。


そのうしろに、小さな子どもが、四人、五人と、ぞろぞろついて歩いていた。人影が立ち止まって、外套の内側から何かを取り出すたびに、子どもたちが手を伸ばす。


「ああ、あの先生か」


ノアが、目を細めた。


「毎年、初雪の日に来るんだ。甘いのを配って歩く。甘い匂いがすると、チビどもは、どこまでもついてくからな」


子どもは、甘い匂いがすると、どこまでもついてきますからね。


今朝の先生の声が、耳の奥でよみがえった。


「ノアは、もらったことある?」


「ねえよ。俺、昼間は屋根の上だもん」


ノアは、つまらなそうに鼻をこすった。煤が、鼻の頭に一本、黒い線を引いた。


人影は、子どもたちを連れたまま、路地の角を曲がって、見えなくなった。


私は、屋根の雪を、手袋ごと握りしめていた。


◇


梯子を下りると、ノアのうしろから、小さな女の子がひょこりと顔を出した。


「ノアにいちゃん、このお姉ちゃん、だれ?」


麦わら色の髪を二つに結んで、粉だらけの前掛けをしている。頬が、焼きたてのパンみたいに赤かった。ティナは、私の外套の裾の刺繍を、珍しそうに指でつついた。


「パン屋のティナ。先月から、ここに住んでるんだ。……お嬢、聞いてる?」


聞いていなかった。


話さなきゃいけないことが、多すぎた。何から言えばいいのか、わからなかった。


あなたは、二日後に消える。私は、八年後に処刑される。その前の夜、仮面をつけた男が、私に会いに来る。


そんなことを言っても、信じてもらえるはずがない。


「……変な顔してんな」


ノアは首をかしげて、少し考えこんだ。


それから、ぱちん、と指を鳴らした。


息が、止まった。


牢の暗がり。鉄格子の向こう。仮面の男が、まったく同じ間で、まったく同じ音を鳴らした。


この、間だ。


ノアの癖だ。考えごとをするとき、ノアは必ず指を鳴らす。小さいころから、ずっと。


あの男は、ノアだった。


背が伸びて、顔の半分を仮面で隠して、声がかすれていても。


消えたはずのノアは、どこかで生きていた。そして、処刑の前の夜に、私に会いに来た。私が彼を忘れていた八年のあいだ、ずっと、どこかで。


なのに、あの人は、たった一言しか言わなかった。私の名前さえ、呼ばなかった。


雪の上の足跡は、ひとつだけだった。


「おい、お嬢? 泣いてんのか?」


「泣いてない」


袖で目をこすって、手袋を外して、私はノアの手をつかんだ。


冷たくて、ひび割れた手だった。指の節に、煤が黒く染みこんでいた。


八年後、鉄格子の向こうで、あの手は何かを言いかけるみたいに持ち上がって、また下りた。


「明後日、絶対に外に出ないで」


「は?」


「仕事も休んで。誰に呼ばれても、ついていかないで。お願い」


ノアはぽかんとして、それから、ティナと顔を見合わせて笑った。


「なんだよそれ。占いか?」


「約束して」


私があまりに真剣だったからだろう。ノアは、笑うのをやめた。


灰色の目が、私の顔をじっと見た。ひび割れた指が、私の手の中で、少しだけ動いた。


「……わかったよ。約束な」


それから、ノアは少しだけ眉を寄せた。


「でも、なんで明後日なんだよ」


「……いつか、話す」


「なんだそれ」


ノアは、ぱちん、ともう一度指を鳴らして、それ以上は聞かなかった。


帰りぎわ、ノアは私の手を見て、にやっと笑った。


「お嬢。指、鳴らせるようになったら、一番に俺に聞かせろよ」


「……うん」


◇


帰りの坂を上るころには、日が傾きかけていた。


ノアの言ったとおり、町の雪は、たくさんの足跡でもう汚れていた。まっさらだったのは、本当に、あの時間だけだった。


坂の途中で、振り返った。


パン屋の屋根の上に、小さな黒い影が、まだ座っていた。私が手を振ると、影も大きく手を振り返した。


私は、右手の親指と中指を合わせた。


こすって、はじく。


すかっ、と空気をこすっただけだった。


遠すぎて、ノアに見えたはずはない。それなのに、屋根の上の影が、腹を抱えて笑ったような気がした。


へたくそ。


いつかパン屋の裏の階段で聞いた声が、そう言った。


私は、もう一度、指を合わせた。何度やっても、鳴らなかった。


裏口から入ると、廊下の奥から、エマが私を呼ぶ声がした。


「お嬢様! どこにいらしたんです、探したんですよ」


「……お庭で、雪を見てたの」


エマは、赤くなった私の手を両手で包んで、「まあ、氷みたい。お風邪を召しますよ」と眉をひそめた。それきり、何も聞かなかった。


その夜、私は自分の部屋の窓の前に座った。


日が沈んでも、敷地の外れの離れの窓には、灯りがついていた。


その灯りは、夜遅くなっても、消えなかった。


遠くで、時計塔の鐘が、真夜中を打った。


灯りが、ふっと消えた。


しばらくして、離れの扉が開いた。小さなランプの明かりがひとつ、暗い雪の上を、門のほうへ動いていく。


こんな夜更けに、先生は、どこへ行くのだろう。


明かりは門を出て、坂の下の町のほうへ、ゆっくりと消えていった。


私は、冷たい窓に額を押しつけたまま、朝まで眠れなかった。

ノア(11)。煙突掃除。パン屋の屋根裏に住んでいる。考えごとをするとき、指を鳴らす。

次回、ひとつだけの足跡。

処刑まで あと八年


続きが気になったら、ブックマークや下の☆☆☆☆☆で応援してもらえると嬉しいです。リディアの八回の冬を、最後まで見届けてください。

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