第3話 ぱちん
昼の鐘が鳴ってしばらくすると、屋敷は静かになる。
父は書斎にこもり、使用人たちは厨房の奥で遅い昼食をとる。エマは繕い物の籠を膝に置いたまま、居間の長椅子でうとうとしはじめる。
昔から、毎日そうだった。そのころの私は、それを知っていて、この時間に何度も屋敷を抜け出していた。
前の人生の私は、この日の午後、どこへも行かなかった。
今日の私は、行く。
私は外套をはおり、長靴に足を入れた。
裏口の戸を、音を立てないように押し開ける。
庭の雪の上には、ハロウ先生の足跡が、まだ残っていた。離れから裏口へ一本。裏口から離れへ一本。それから、離れから門のほうへ、もう一本。
先生は、もう町へ出たのだ。
私は、その足跡を踏まないように、塀ぎわを走った。
◇
下町までは、子どもの足だと、ずいぶんかかる。
坂を下るにつれて、屋根が低く、道が狭くなっていく。雪かきをする人。凍った井戸に湯をかける人。積もった雪を蹴って笑う子どもたち。煙突という煙突から、灰色の煙がまっすぐ空へのぼっていた。
初雪の日は、煙突がいちばん忙しい。
いつだったか、ノアがそう言っていた。みんなが一度に火を焚くから、煤が詰まる。詰まった煙突を通すのが、煙突掃除の仕事だ。
パン屋は、下町の真ん中の、小さな広場の角にある。
焼きたてのパンの匂いがした。店の前に、人が三人並んでいた。
私は、屋根を見上げた。
煙突掃除の少年は、屋根の上にいた。
雪の積もった斜面に片膝をついて、煙突の口に長い柄のブラシを突っこんでいる。頭から肩まで煤で真っ黒で、雪の白さの中で、そこだけ夜みたいだった。
「ノア!」
呼ぶと、煤だらけの顔が、こちらを見下ろした。灰色の目が、驚いたように丸くなる。
「お嬢? こんな雪ん中、一人で来たのかよ。怒られるぞ」
声を聞いたとたん、膝から力が抜けそうになった。
八年ぶりの声だった。
前の人生で、私が最後にノアの声を聞いたのは、初雪の少し前、あの約束をした日だった。そのあとのノアの声を、私は知らない。
「……約束、したでしょう」
声が、かすれた。
「初雪が降ったら、屋根の上から、町じゅう見せてくれるって」
ノアは、ブラシを持ったまま、目をぱちぱちさせた。それから、煤だらけの顔で、にっと笑った。
「覚えてたのかよ。お嬢、すぐ忘れるくせに」
覚えていなかった。八年間、一度も思い出さなかった。
「……今日は、覚えてたの」
「ふうん」
ノアは、屋根の端に立てかけてある梯子を、あごでしゃくった。
「上がってこいよ。落ちたら、俺が伯爵様に殺されるから、ゆっくりな」
◇
梯子は冷たくて、段に薄く氷が張っていた。
一段のぼるたびに、手袋の指先がかじかんだ。最後の段で、ノアが手を伸ばして、私の手首をつかんだ。
ぐい、と引き上げられる。
「ほら」
屋根の上に、膝をついた。
声が、出なかった。
町じゅうが、白かった。
低い屋根も、高い屋根も、時計塔も、市場の天幕の骨組みも、全部が同じ白をかぶって、冬の光の中で静かに光っていた。煙突の煙が、何十本も、まっすぐ空へ伸びている。
「な。すげえだろ」
ノアは、自分の手柄みたいに、胸を張った。
「初雪の日の、昼すぎだけなんだ。夕方になると、みんなが歩いて、雪が汚くなる。この時間だけ、町じゅう、まっさらなんだよ」
私は、うなずくことしかできなかった。
ノアは、足もとの屋根の、小さな明かり取りの窓をつま先で叩いた。
「で、ここが俺の寝床。町でいちばん景色のいい部屋だ」
坂の上には、伯爵家の屋敷が見えた。その手前に、町の中央の広場が見えた。
広場のまんなかは、雪が平らに積もっているだけだった。
まだ、何もない。
八年後の冬至祭の朝、あそこに台が組まれる。私はその上で膝をつく。町じゅうの人が、黙ってそれを見上げる。
「あそこの塔、見えるか」
ノアが、時計塔を指さした。
「冬至祭の朝はさ、あの鐘が町じゅうに鳴るんだ。屋根の上で聞くと、腹の底までびりびり響いて、すげえんだぜ」
私は、塔を見たまま、返事ができなかった。
あの鐘の音を、私は知っている。膝をついた首筋に冷たい木が当たって、その音にまぎれて、刃が落ちた。
あの朝、ノアは、どこであの鐘を聞いていたのだろう。
「お嬢? 寒いのか」
「……ううん」
寒くなかった。ノアのつかんでくれた手首だけが、まだ熱かった。
そのとき、広場から一本外れた路地を、黒っぽい人影が歩いているのが見えた。
痩せた体に、少し大きい外套。
そのうしろに、小さな子どもが、四人、五人と、ぞろぞろついて歩いていた。人影が立ち止まって、外套の内側から何かを取り出すたびに、子どもたちが手を伸ばす。
「ああ、あの先生か」
ノアが、目を細めた。
「毎年、初雪の日に来るんだ。甘いのを配って歩く。甘い匂いがすると、チビどもは、どこまでもついてくからな」
子どもは、甘い匂いがすると、どこまでもついてきますからね。
今朝の先生の声が、耳の奥でよみがえった。
「ノアは、もらったことある?」
「ねえよ。俺、昼間は屋根の上だもん」
ノアは、つまらなそうに鼻をこすった。煤が、鼻の頭に一本、黒い線を引いた。
人影は、子どもたちを連れたまま、路地の角を曲がって、見えなくなった。
私は、屋根の雪を、手袋ごと握りしめていた。
◇
梯子を下りると、ノアのうしろから、小さな女の子がひょこりと顔を出した。
「ノアにいちゃん、このお姉ちゃん、だれ?」
麦わら色の髪を二つに結んで、粉だらけの前掛けをしている。頬が、焼きたてのパンみたいに赤かった。ティナは、私の外套の裾の刺繍を、珍しそうに指でつついた。
「パン屋のティナ。先月から、ここに住んでるんだ。……お嬢、聞いてる?」
聞いていなかった。
話さなきゃいけないことが、多すぎた。何から言えばいいのか、わからなかった。
あなたは、二日後に消える。私は、八年後に処刑される。その前の夜、仮面をつけた男が、私に会いに来る。
そんなことを言っても、信じてもらえるはずがない。
「……変な顔してんな」
ノアは首をかしげて、少し考えこんだ。
それから、ぱちん、と指を鳴らした。
息が、止まった。
牢の暗がり。鉄格子の向こう。仮面の男が、まったく同じ間で、まったく同じ音を鳴らした。
この、間だ。
ノアの癖だ。考えごとをするとき、ノアは必ず指を鳴らす。小さいころから、ずっと。
あの男は、ノアだった。
背が伸びて、顔の半分を仮面で隠して、声がかすれていても。
消えたはずのノアは、どこかで生きていた。そして、処刑の前の夜に、私に会いに来た。私が彼を忘れていた八年のあいだ、ずっと、どこかで。
なのに、あの人は、たった一言しか言わなかった。私の名前さえ、呼ばなかった。
雪の上の足跡は、ひとつだけだった。
「おい、お嬢? 泣いてんのか?」
「泣いてない」
袖で目をこすって、手袋を外して、私はノアの手をつかんだ。
冷たくて、ひび割れた手だった。指の節に、煤が黒く染みこんでいた。
八年後、鉄格子の向こうで、あの手は何かを言いかけるみたいに持ち上がって、また下りた。
「明後日、絶対に外に出ないで」
「は?」
「仕事も休んで。誰に呼ばれても、ついていかないで。お願い」
ノアはぽかんとして、それから、ティナと顔を見合わせて笑った。
「なんだよそれ。占いか?」
「約束して」
私があまりに真剣だったからだろう。ノアは、笑うのをやめた。
灰色の目が、私の顔をじっと見た。ひび割れた指が、私の手の中で、少しだけ動いた。
「……わかったよ。約束な」
それから、ノアは少しだけ眉を寄せた。
「でも、なんで明後日なんだよ」
「……いつか、話す」
「なんだそれ」
ノアは、ぱちん、ともう一度指を鳴らして、それ以上は聞かなかった。
帰りぎわ、ノアは私の手を見て、にやっと笑った。
「お嬢。指、鳴らせるようになったら、一番に俺に聞かせろよ」
「……うん」
◇
帰りの坂を上るころには、日が傾きかけていた。
ノアの言ったとおり、町の雪は、たくさんの足跡でもう汚れていた。まっさらだったのは、本当に、あの時間だけだった。
坂の途中で、振り返った。
パン屋の屋根の上に、小さな黒い影が、まだ座っていた。私が手を振ると、影も大きく手を振り返した。
私は、右手の親指と中指を合わせた。
こすって、はじく。
すかっ、と空気をこすっただけだった。
遠すぎて、ノアに見えたはずはない。それなのに、屋根の上の影が、腹を抱えて笑ったような気がした。
へたくそ。
いつかパン屋の裏の階段で聞いた声が、そう言った。
私は、もう一度、指を合わせた。何度やっても、鳴らなかった。
裏口から入ると、廊下の奥から、エマが私を呼ぶ声がした。
「お嬢様! どこにいらしたんです、探したんですよ」
「……お庭で、雪を見てたの」
エマは、赤くなった私の手を両手で包んで、「まあ、氷みたい。お風邪を召しますよ」と眉をひそめた。それきり、何も聞かなかった。
その夜、私は自分の部屋の窓の前に座った。
日が沈んでも、敷地の外れの離れの窓には、灯りがついていた。
その灯りは、夜遅くなっても、消えなかった。
遠くで、時計塔の鐘が、真夜中を打った。
灯りが、ふっと消えた。
しばらくして、離れの扉が開いた。小さなランプの明かりがひとつ、暗い雪の上を、門のほうへ動いていく。
こんな夜更けに、先生は、どこへ行くのだろう。
明かりは門を出て、坂の下の町のほうへ、ゆっくりと消えていった。
私は、冷たい窓に額を押しつけたまま、朝まで眠れなかった。
ノア(11)。煙突掃除。パン屋の屋根裏に住んでいる。考えごとをするとき、指を鳴らす。
次回、ひとつだけの足跡。
処刑まで あと八年
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