第4話 ひとつだけの足跡
明け方近く、ランプの明かりがひとつ、門から戻ってきた。明かりは雪の上をゆっくりと離れへ近づいて、扉の向こうに消えた。
朝になって窓から見下ろすと、庭の雪の上に、ゆうべの足跡が残っていた。離れから門へ、一本。門から離れへ、一本。
先生は、夜のうちに町へ下りて、夜明け前に帰ってきたのだ。
何をしに行ったのかは、わからなかった。
◇
その日の朝も、先生は時間どおりに勉強部屋の扉を叩いた。
「おはようございます、リディア様。今日もお早いですね」
いつもの穏やかな声だった。外套の裾が、昨日と同じように、雪で濡れていた。
先生は椅子に座る前に、外套の内側から、油紙の包みを二つ取り出した。
「お約束でしたね。二つです」
机の上に、甘い匂いが並んだ。
私は、包みを見ないようにして、先生の顔を見た。目の下に、うっすらと影があった。
「先生、眠そう」
「おや、わかりますか」
先生は、少し照れたように目を細めた。
「ゆうべは遅くまで、離れで薬の調合をしていたもので。夜更かしは、こたえますね」
離れで。
ゆうべ、真夜中の鐘のあとで、ランプの明かりは門を出ていった。坂の下の町のほうへ。私は、それを朝まで窓から見ていた。
先生は、嘘をついた。
「……お体に、気をつけてください」
「ありがとうございます。リディア様はお優しい」
先生は図鑑を開いて、昨日の続きの頁をめくった。
その日の授業で、私は何ひとつ覚えていない。答えを間違えるたびに、先生は「おや」と笑った。その声を聞くたびに、膝の上の指が冷たくなった。
油紙の包みは、二つとも、引き出しの奥に押しこんだ。昨日の一つの上に、重ねて。
◇
午後、私は下町へ行けなかった。
昨日のことがあってから、エマが私のそばを離れなくなったのだ。繕い物の籠を抱えて、勉強部屋にも、居間にも、どこにでもついてくる。
「今日はお屋敷の中で過ごしましょうね、お嬢様。お顔の色も、まだよくありませんし」
裏口へ向かおうとすると、廊下の角にエマがいた。窓から庭へ出ようとすると、うしろで「お嬢様」と声がした。
勉強部屋に戻って、私は練習帳を開いた。
行けないなら、せめて言葉だけでも届けられないか。誰かに頼んで、パン屋まで紙を一枚。
ノアへ。
そこまで書いて、ペンが止まった。
ノアは、字が読めない。
下町の子どもで、字が読める子なんて、ほとんどいない。ノアが読めるのは、パン屋の看板の絵と、自分で覚えた数だけだ。前の人生で、私は一度もそれを気にしたことがなかった。
インクが、紙の上で小さくにじんだ。
八年後、牢の鉄格子の前で、あの人は、たった一言しか言わなかった。何かを言いかけて、口を閉じた。
あれは、言葉を、それしか持っていなかったからではないのか。
私は、書きかけの紙を破って、小さく丸めた。
明日だ、と私は自分に言い聞かせた。
ノアは、約束してくれた。明日は外に出ないと。明日の朝いちばんに、パン屋へ行って、ノアの顔を見ればいい。
父に話そうか、と一度だけ考えた。
けれど、何と言えばいいのだろう。先生が嘘をついた、と? 真夜中に出かけた、と? 下町の男の子が、明日いなくなる、と?
十歳の娘のそんな話で、大人は誰も動かない。泣いて訴えても、誰も聞かない。前の人生の最後に、私はそれを、いやというほど知った。
夕方から、また雪が降りはじめた。
夜になると、私は窓の前に椅子を運んだ。今夜こそ、離れから目を離さない。明かりが門を出ていったら、聞いてもらえなくても、エマを起こしてでも、父の部屋に駆けこんでも、何でもする。
離れの窓には、灯りがついていた。
雪が、窓の外を斜めに流れていく。ゆうべ一睡もしていない目が、何度も閉じそうになった。私は、自分の手の甲をつねった。指を合わせて、鳴らない音を、何度も鳴らそうとした。
すかっ。すかっ。
一度、扉が細く開いて、エマが顔をのぞかせた。手に、湯気の立つ牛乳の杯を持っていた。
「まだ起きていらしたんですか。雪なんて、明日になってもなくなりませんよ」
「……うん。もう少しだけ」
エマはため息をついて、杯を窓辺に置いた。それから、私の髪を一度だけ撫でて、出ていった。
牛乳は、飲まないうちに冷めた。
時計塔の鐘が、遠くで十一回鳴ったのを、数えたところまでは覚えている。
◇
目を開けると、窓の外が白く明るかった。
雪は、やんでいた。
私は、窓枠にもたれて眠っていた。肩に、毛布がかかっていた。エマがかけてくれたのだろう。窓辺には、冷めた牛乳の杯が、そのまま残っていた。
離れの窓の灯りは、消えていた。
いつ消えたのか、私は知らない。
眠ってしまった。
前の人生で一週間気づかなかった私は、今度は、たった一晩、起きていることもできなかった。
椅子を蹴るようにして立ちあがった。寝間着の上から外套をはおり、素足に長靴をつっかけて、階段を駆けおりた。厨房では、もう朝の火が焚かれていた。誰かが私を呼んだ気がした。振り返らなかった。
裏口を飛び出して、雪の庭を走った。離れのほうは、見なかった。見る時間が、惜しかった。
坂を、転がるように駆けおりた。
朝の下町は、まだ半分眠っていた。雪をかく音も、子どもの声もない。パン屋の煙突からだけ、細い煙がのぼっていた。
店の前で、パン屋のおかみさんが、粉だらけの手を前掛けで拭きながら、屋根を見上げて立っていた。私に気づくと、困ったような顔をした。
それだけで、わかった。
◇
約束は、守られなかった。
パン屋の屋根裏は、からっぽだった。
「夜のうちに、いなくなっちゃったの」
ティナが泣きじゃくりながら、私の外套の裾をつかんだ。粉だらけの前掛けではなく、寝間着のままだった。
「ノアにいちゃん、どこにも行かないって言ってたのに。明日は外に出ないって、ゆうべも言ってたのに。あたし、ちゃんと、おやすみって言ったのに」
ノアは、約束を破ったんじゃない。
そう思った。破るつもりなら、ノアは最初から約束なんかしない。
屋根裏から外へ続く、裏口の階段。その下に、夜のあいだに降り積もった新しい雪があった。
足跡が、ひとつだけ残っていた。
大人の靴の跡だ。ノアの足より、ずっと大きい。つま先の細い、底の平らな靴。裏口から路地へ、まっすぐに続いている。
子どもの足跡は、どこにもない。
階段のまわりも、屋根裏の窓の下も、路地の入り口も、何度も見た。小さな跡は、ひとつもなかった。
――雪の上の足跡は、ひとつだけだった。
膝が震えた。
これだ。
あの人が、牢で私に伝えようとしたのは、これだったんだ。
八年後の、処刑の前の夜。看守に一分だけ許されて、鉄格子の前で黙って立って、何かを言いかけて、やめて。それから、たった一言だけ。
自分の消えた朝のことを、言いに来たのだ。
俺は、逃げたんじゃない。
ここにあったのは、俺の足跡じゃない。
誰も探してくれなかった八年分の言葉を、たった一行にして。
私はしゃがんで、足跡をよく見た。涙で、雪がにじんだ。袖でこすって、もう一度見た。
かかとが、深く沈んでいる。
裏口の前の一歩より、二歩目。二歩目より、三歩目。路地へ向かうほど、跡は深くなっていく。
重いものを抱えて、歩いた跡。
「ノアは、歩いてない」
声に出すと、喉が焼けるようだった。
「運ばれたんだ」
ティナが、しゃくりあげるのをやめて、私を見た。
私は立ちあがって、足跡を追った。一歩も踏まないように、横の雪を歩いた。
足跡は、路地の角で、太い馬車の轍に消えていた。轍は、坂の上のほうへ伸びていた。
その手前の雪の上に、小さな紙切れが落ちていた。
拾い上げる。
油紙だった。
鼻を近づけると、甘い匂いがした。
蜂蜜の匂い。
勉強部屋の机の上に並んだ、二つの包み。屋根の上から見た、子どもたちを連れて歩く外套の背中。真夜中に門を出ていった、ランプの明かり。
町で蜂蜜の焼き菓子を配っているのは、一人しかいない。
「……先生」
今朝も、あの人は、いつもの穏やかな声で勉強部屋の扉を叩くつもりなのだろうか。焼き菓子を持って。
前の人生の私は、きっと、この紙切れに気づかなかった。気づいたとしても、「先生が落としたのね」と笑っただけだ。あの優しい人が、と疑うことさえしなかっただろう。
油紙を握りしめた手が、震えていた。素足のまま履いた長靴の中で、つま先の感覚は、とうになくなっていた。それでも、手が震えているのは、寒さのせいではなかった。
「お姉ちゃん」
ティナが、私の外套の裾を、もう一度引いた。
「ノアにいちゃん、帰ってくる?」
私は、ティナの冷たい手を、両手で包んだ。おととい、エマが私にしてくれたのと同じように。
「帰ってくる」
自分の声が、思ったより、ずっと強く響いた。
「私が、連れて帰る」
前の人生で、誰も言わなかった言葉だった。私も、言わなかった。
ティナをパン屋のおかみさんに預けて、私は屋敷へ走った。
坂の上に、伯爵家の屋敷が見えた。その敷地の外れに、灰色の石の小さな家がある。馬車の轍は、あの坂の上のほうへ伸びていた。
坂を上りながら、頭の中で、曜日を数えた。
初雪の日。その次の日。そして、今日。
火曜の午後、先生は必ず、町の薬師組合へ出かける。
今日は、火曜日だった。
ティナ。パン屋に住んでいる女の子。ノアのことを「ノアにいちゃん」と呼ぶ。
次回、離れの鍵。
処刑まで あと八年
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