第2話 十歳の初雪
食堂の扉の前で、私は一度、足を止めた。
扉の向こうから、銀の食器が触れあう小さな音がしていた。紙をめくる音。暖炉の薪が、ぱち、とはぜる音。
毎朝聞いていたはずの音だった。
私は、エマが編んでくれた髪の先の青いリボンを、指でつまんだ。それから、扉を押した。
長い食卓の端に、父が座っていた。
窓から入る雪明かりで、白いクロスがいつもより眩しかった。父は、片手に紅茶の茶碗を持ち、もう片方の手で、手紙の束をめくっていた。
「おはよう、リディア。今朝は遅かったな」
父が、手紙から顔を上げた。
生きている。
当たり前のことが、喉の奥で、熱いかたまりになった。
前の人生で、最後に見た父の顔は、棺の中だった。白い布の上で、唇だけが紫色をしていた。私はその横で、泣くこともできずに立っていた。翌日、自分が衛兵に連れていかれることも知らずに。
「……おはようございます、お父様」
声が震えないようにするだけで、精一杯だった。
◇
席につくと、エマが銀のポットを運んできて、私の茶碗に紅茶を注いだ。
盆の上で、茶器は、かたかたとは鳴らなかった。
湯気の向こうで、エマは「お砂糖はおひとつですね」と笑った。私は、うなずくことしかできなかった。
スープが運ばれてきた。父は手紙を脇に置いて、匙を取った。
私は、その手ばかり見ていた。
匙が、銀の器の縁に、一度も当たらなかった。
八年後の秋、この食卓で、父の匙はかちかちと鳴り続ける。窓の外ばかり見て、何かに怯えて、夜ごと書斎で紙を燃やす。そして、エマの運んだ茶を飲んで、死ぬ。
その父を、私が殺したことにされる。
「初雪だな」
父が、窓のほうを見た。
「今年は早い。冬至祭までに、積もりすぎなければいいが」
「……お父様」
「なんだ」
「どこか、お体の悪いところは、ありませんか」
父は、眉を少しだけ上げた。
前の人生の十八歳の秋に、同じことを聞いた。そのとき父は、窓の外を見たまま、首を振っただけだった。
今朝の父は、私を見ていた。
「朝から、妙なことを聞く。悪い夢でも見たか」
「……はい」
「夢は夢だ。気にするな」
それきり父は、またスープに戻った。
エマと同じことを言う、と私は思った。夢は、口に出すと本当にならない。夢は夢だ。
あれが本当に夢だったら、どんなによかっただろう。
私は、スープを一口飲んだ。味が、よくわからなかった。
「今朝は、ハロウ先生の授業だろう」
父が言った。
「先生の言うことを、よく聞きなさい。あの方は、宮廷で薬師の修業をなさった方だ」
「……先生は、離れで、いつも何をしていらっしゃるのですか」
自分でも、どうしてそんなことを聞いたのか、わからなかった。
父の手が、手紙の束の上で止まった。
ほんの、一瞬だった。
「薬の研究だそうだ。お前が気にすることではない」
父は手紙を揃えて立ちあがり、私のそばを通るとき、頭に一度だけ手を置いた。大きくて、乾いた手だった。
扉が閉まった。
その音を聞いたとたん、こらえていたものが、ぼろぼろとこぼれた。
「お、お嬢様?」
エマが、ナプキンを持って飛んできた。
「どうなさったんです、どこか痛いんですか」
「……スープが、熱かったの」
エマは困った顔で、私の頬をそっと拭いた。
本当は、温かいだけのスープだった。
温かいスープを、父と同じ食卓で飲める朝が、あと何回あるのだろう。そう思ったら、涙が止まらなくなっただけだった。
◇
勉強部屋は、二階の、庭に面した部屋だった。
先生が来る時刻より、ずっと早く、私は机の前に座っていた。
机の引き出しから、字の練習帳を出した。後ろのほうの、まだ白い頁を開いて、ペンを取った。
覚えていることを、全部書いておかなければいけない気がした。忘れてしまう前に。前の人生の私が、ノアを忘れたみたいに。
初雪の二日後。ノアが消える。
十八歳の秋。王都から監察官が来る。ブラント子爵のこと。
お父様が怯える。書斎で紙を燃やす。
エマが運んだ茶。お父様が死ぬ。
葬儀の翌日。私が捕まる。
仮面の男。雪の上の足跡は、ひとつだけだった。
冬至祭の朝。処刑。
書いた字は、ひどく歪んでいた。十歳の指は、ペンを思うように動いてくれなかった。
最後の一行の下に、私は少し考えてから、もう一行書き足した。
ノアを、一人にしない。
それから頁を破りとって、小さくたたみ、靴の中敷きの下に押しこんだ。この屋敷で、本当に私だけのものと言える場所は、それくらいしか思いつかなかった。
顔を上げると、窓から、敷地の外れの離れが見えた。厩の向こう、葉の落ちた林の手前に、灰色の石の小さな家が建っている。ハロウ先生の住まいだ。
見ていると、離れの扉が開いて、痩せた人影が出てきた。先生だった。
先生は、まっさらな雪の上を、屋敷の裏口へまっすぐ歩いてくる。そのうしろに、足跡が一本だけ伸びていく。
ひとすじだけ。
授業に来る先生の足跡。それだけのことだった。
それなのに、背中が、ひやりとした。
処刑台の下で見た、小さな靴の跡。牢の暗がりで聞いた、低い声。
雪の上の足跡は、ひとつだけだった。
扉が、二度、叩かれた。
「おや、リディア様。今朝はずいぶんお早いですね」
穏やかな声がして、扉が開いた。
セドリック・ハロウ先生。私の家庭教師で、元は宮廷の薬師見習いだったという人。痩せた体に、いつも少しだけ大きい外套を着ている。外套の裾が、雪で濡れていた。
十歳の朝に見る先生は、八年後、牢の鉄格子の向こうにいた先生と、何も変わらなかった。
同じ声。同じ笑い方。同じ、少し大きい外套。
「いつもは、時計が鳴ってから走ってこられるのに。初雪で、じっとしていられませんでしたか」
「……はい」
「それはよかった。では、まずはこれを」
先生は、外套の内側から、小さな包みを取り出した。
油紙だった。
甘い匂いが、ふわりと広がった。
「初雪のお祝いです。内緒ですよ」
蜂蜜の焼き菓子だった。
牢の中で、一晩じゅう漂っていた匂いだった。開けないまま膝に置いて、朝まで嗅いでいた匂い。その匂いの中で、私は処刑の日を待っていた。
前の人生の私は、この先生が大好きだった。勉強を褒めてくれて、町の子どもたちにも同じように焼き菓子を配る、優しい人。
「……ありがとうございます、先生」
受け取った指が、少しだけ震えた。
理由は、わからない。わからないけれど、十八歳の私が、胸の奥で何かを叫んでいた。
◇
油紙の包みを机の端に置いて、授業が始まった。その日は、薬草だった。
先生は、図鑑を開いて、薬草の絵を一つずつ指さした。名前を聞かれるたびに、私は答えた。前の人生で八年かけて覚えた名前が、するすると口から出た。
「これは」
「ニワトコです。花を煎じて、熱さましに使います」
「よくできました。では、こちらは」
「セイヨウオトギリ。花を油に漬けて、傷に塗る薬を作ります」
「すばらしい」
答えるたびに、先生は目を細めて褒めてくれた。前の人生の私は、この声に褒められたくて、夜遅くまで図鑑をめくったものだった。
「では、これは」
先生の指が、青い花の絵の上で止まった。
「トリカブトです。根に毒があって、冬にいちばん強くなります」
先生の指が、図鑑の上で、ぴたりと動かなくなった。
「……よくご存じですね。冬に強くなることまで」
「先生に、教わりました」
言ってから、しまった、と思った。
先生が私にそれを教えたのは、前の人生の、十四歳の冬だ。
「おや。まだ、お教えしていないはずですが」
先生は、首をかしげて私を見た。細い目の奥で、何かが、ほんの少しだけ光った気がした。
「……図鑑で、読んだの。夜、眠れなくて」
「なるほど」
先生は、ふっと笑った。
「リディア様は、勉強熱心でいらっしゃる。次は、焼き菓子を二つ持ってこなくては」
いつもの、優しい笑い方だった。
私は、膝の上で両手を握りしめていた。
◇
授業が終わると、先生は図鑑を閉じて、外套の前を合わせた。
「今日の午後は、町へ出ます。初雪の日には、下町の子どもたちに焼き菓子を配ることにしているんですよ」
先生は、扉の前で振り返った。
「子どもは、甘い匂いがすると、どこまでもついてきますからね」
そう言って、楽しそうに笑った。
扉が閉まって、廊下の足音が遠ざかっていった。最後まで、少しも急がない足音だった。
私は、机の上の油紙の包みを、長いあいだ見ていた。
食べなかった。食べられなかった。
包みを引き出しのいちばん奥に押しこんで、窓の前に立った。
裏口から出てきた先生が、雪の上を、離れのほうへ歩いていく。来るときについた足跡の横に、もうひとすじ、新しい跡が増えていく。
痩せた背中が、離れの扉の向こうに消えた。
町の子どもたちに、焼き菓子を配る、優しい先生。
あの頃の私は、それを一度も、おかしいと思わなかった。
今も、何がおかしいのか、わからない。わからないのに、窓の桟を握る手の震えが、止まらなかった。
前の人生の、この日の午後。
私は、どこへも行かなかった。先生にもらった焼き菓子を食べながら、夜まで図鑑を読んでいた。次の授業で、また褒めてもらいたくて。
初雪が降ったら、屋根の上から、町じゅう見せてやる。
その少し前に、ノアはそう言っていた。煤だらけの顔で、得意そうに。
私は、行かなかった。次の日も、その次の日も。
そしてノアは、いなくなった。
靴の中で、たたんだ紙が、かさりと鳴った。
ノアを、一人にしない。
ノアが消えるまで、あと二日。
セドリック・ハロウ。リディアの家庭教師。焼き菓子は、いつも内緒。
次回、ぱちん。
処刑まで あと八年
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