第三話
私の心の内は誰にも分からない。他人にも、友人にも、家族にも。私自身にさえ……。
しかしそんな心の内を強引に覗き込もうとする無粋な輩が一人。
褒められた行為ではないはず。それでも、彼を咎めようとは全く思わない。むしろ、感謝している。
赤坂くんに興味を持った理由は、彼の中に曲げられない信念があることを感じたからだった。
行動だけ見れば提出物を出さないなどの素行の悪さは決して褒められた行為ではないのだが。それでも彼の中に自分なりのルールや信念があり、それを守り通したい強い我があることはすぐに理解できた。
単なる面倒くさがりであれば私の追及に辟易して、プロフィールカードくらいならと提出するのが常だからだ。
「そういえば水瀬さんって下の名前なんだっけ?」
こう尋ねられたことも、さらに私が彼に惹かれたキッカケの一つだろう。
これまで私の個人情報に興味を持とうとした知人は少ない。
私という人間と近しい立場に身を置こうとする人々はどこか打算的で、普通の友人として見られているかどうかは怪しい。
私はいつも基本的に学級委員のような立場にあることや、かつて転校生だったこと、可哀想な境遇だと思われやすいことなど、私に近づいてきてくれる人はいないわけではなかった。
しかし、申し訳ないがそのどれもに深い友情は感じない。
親切だったり、人の優しさは感じる。でも逆に言えばその友人たちは自分の意思で私と仲良くなりたいのではなくて、私のために私と仲良くなろうとしていたように思う。
だから、赤坂くんの口からあのタイミングで私の下の名前を尋ねられたことは、一種の衝撃だった。
計算高く学生生活を送るなら私や先生にはいい顔をしておけばいい。提出物など素行を悪くすることは面倒ごとを増やすだけだ。
私に友人がいないだとか、私の顔を立てるつもりならば尚更そうだろうと思う。
しかし彼は、提出物も出さない、遅刻もする、授業中は寝てばかりという問題児。なのに私に興味を持って積極的に下の名など聞いてきた。
その矛盾に、酷く魅力を覚えたのは確かだ。
映画館の前で偶然出会った日、彼に話しかけようと思ったのもそのため。
あの時点ですでに私は、彼のことを好ましい人間だと思っていた。気に入ったというほどは行かなかったけれど、少なくとも私との接し方が他の人と違うことは明白だったからだ。
彼は自分のルールを守ることにストイックで、それでいて他人は拒絶しない。
素行が悪いことは拒絶にも見えるが、別に先生に対して反抗的なわけでもない。ただ命令されるのが嫌いなだけ。ある種、すべての人間を究極的に対等だと考えているのかもしれない。
「なんで、映画を見て嘘泣きなんかするんだ?」
そう尋ねられたときに、私は驚いた。
そんな質問をされるとは思っていなかったわけではない。
そう尋ねられる気がしていた。それが的中したことに驚いたのだ。
彼のようなフラットな見方をする人間なら、私の不自然さに気付くのは必然だろうと。心の中でそう思っていた。それが当たったのだ。
私は何度か赤坂くんを褒めたり、気に入ったというようなことを彼に面と向かって言ったが、それは素直な事実。
彼が照れるのも無理はない。年頃の男女だ。その気がなくても気恥ずかしいところはあるだろう。
彼は嘘をつくようなタイプじゃない。それは誠実さというよりも、先述した彼のルールや信念に基づいているのだろう。それが態度にもありありと現れている。
私はどうか。
私は別に嘘をついているつもりはない。基本的に言葉は正直な方だという自負はある。
しかし彼に指摘された通り、私が映画を見て泣くのは”噓泣き”だ。
自分の心にだけは、嘘をつく。
彼が私の噓泣きを見抜いたこと自体、その矛盾を感じ取ったからなのかも知れない。
だとしたら珍しい者同士お互い様というところだろうか。
ここまで親近感のある相手はそういないと思えた。
でも、私の過去を語ろうとは別に思わない。
泣くことができなくなったキッカケには心当たりがある。でもその出来事が酷く心に伸し掛かっているという実感はないし、精神的な病気と診断されたこともない。
かと言って彼にその事実を話せば、重く受け取られることは目に見えていた。
彼に責任を負わせたくはなかった。
しかし彼は、私が閉じようとした扉に強引に手をかけてきた。
別に彼は私の過去を追及しようとはしなかった。しかし、私が自分に嘘をつき続けていること。その一点が彼は許せなかったのだ。
本当におせっかい。
でも、嫌な気分じゃなかった。
「おはよう」
「ああ水瀬さんか。じゃ、おやすみ〜」
彼に少し踏み込みすぎた、というか気を許しすぎたとも考えた。
やはり私の過去を重く受け止められてしまうかも知れないことや、私の心が掻き乱されること。それらのリスクを考えたら、危険な賭けだとも思う。
けれど彼はどこまで行っても赤坂徹でしかない。
少しも他人に影響されてブレる素振りを見せることをしないのに、他人のことはちゃんと見ている。
そんな人間だ。
私は他人の心の芯の部分に興味がなかったし、そういう他人に関心が持てない多くの人間のことを軽蔑していた。自分のことを含めて、という意味だ。
そんなところに現れたこの男が、これまで出会った誰とも違うことは明白だった。
だったらそのギャンブルに乗るのは悪くないとも私は思えたのだ。
「今週は何見る? ちょうど公開しそうなのは、あの有名なハリウッド監督の……えっと誰だっけか」
「ん。別になんでもいいわよ」
「なんか投げやりな態度だな! いいし、じゃあ俺の趣味全開で決めるからな!」
投げやりに見られても仕方ないだろう。実際、なんでもいい。
映画の内容に興味がないわけではない。私の意思が介在しようとしなかろうと、何かを浴びられればそれで良いと思うのだ。
幸いにも、映画を見て感情が動かないということはない。
涙腺に来るという経験は長らくしていないけど、間違いなく心に熱いものが宿る瞬間はある。それを大切にしたい。
時期としてはもう梅雨時になる。
雨ばかり降っているのが当然の時期ではあるが、今日は珍しく快晴だった。天気予報を見ている限りは夕方くらいまでは天気が保つようだが…。
今日は赤坂くんといつもの映画館で待ち合わせしていて、もうすぐその時刻だ。
「もしもし、今どこ?」
こうして示し合わせて遊びの約束をしている関係上、携帯電話の連絡先はかなり早い段階で交換していた。
普段は返信の早い赤坂くんにしては珍しくメッセージを読んだ形跡すらないので一応電話をしてみたのだ。今日の予定を忘れて寝ていることもありえる。
『ごめんごめん、今すぐそばのコンビニなんだ』
「遅れておいてメッセージの確認もせず寄り道なんて、いいご身分ね」
『小腹が空いた時用のちょっとしたお菓子を持って来忘れてさぁ』
「どうでもいいけど、それ買ったらダッシュね」
『は、はい……学級委員様!』
返事を聞き一方的に電話を切る。
「ふふっ……」
笑いの声が溢れると同時に、柄にもなく自分がニヤニヤとした笑みを浮かべていることに気づく。
少しだけ気恥ずかしい気分になっていつもの表情を取り戻そうとするが、努めて真顔を浮かべるというのは難しいものだ。
なぜ自分はこんなにも楽しい気分なのだろう。形容してみて気づく。
私は今、すごく楽しい。
赤坂くんと毎週のように映画鑑賞をして、その後にカフェか何かでちょっとした感想会。夕方辺りに解散したり、時間帯によってはファミレスで夕飯を共にしたり。
最初こそ私は本当に泣きたいという目的のために映画を観に行っていたが、今は違う。
赤坂くんとの時間のために映画を観ている。それで幸せだ。
だとしたら、もう泣くことができなくたっていいんじゃないか。
赤坂くん自身は私の涙を嘘泣きだと形容したし、私もそう思う。
でも、だとしたら嘘泣きをしなければ済むことじゃないか。
別に映画を観て泣かなければならないというルールもない。私のように涙腺という機能が死んでいるのではないかというレベルではなくても、何年も本気で泣いていない人なんてたくさんいるだろう。
だとしたら赤坂くんがこれ以上何かを気負って頑張る必要なんて全然ない。
私とこうして一緒にいてくれるだけで、それで――。
――ブー!!!ドオォォオンッ!!!
突然辺り一帯に響き渡った衝撃音に、一気に鼓動が強くなる。
あのブーという音はクラクションだとはすぐに理解できた。
だから、交通事故が起きたのだろうというのは想像に難くない。
今映画館の前の少し開けた場所に立っているとは言え、周囲で事故か何かが起こったような様子はない。
ただし、私からみて右方の人々が皆同じ道の方に視線を送っていることは確認できた。
確かそこにはコンビニが――。
「赤坂くん……!!!」
確信があったわけではない。
ただ、その時点ですごく嫌な予感はあった。
私がさっきまで噛み締めていた幸せが、すべて無に帰してしまうのではないかと。
そして彼は、私なんかと関わったせいで。
とにかく確認せねばならない。
足をもつれさせながら、映画館のあるビルの角を曲がってコンビニが見える位置まで辿り着いた。
「……!!」
少し離れた位置。
コンビニを出て目の前の横断歩道の傍に、その姿はあった。
コンビニ脇の柱に衝突して大破した車の影に隠れて上半身しか見えないが。あの姿は間違いなく――。
呼吸が苦しくなるのを感じた。
視界の中で占める割合はすごく僅かなはずなのに、道路に染み出したその”赤黒い”色が思考のすべてを乗っ取った。
「な……んで……! なんでッ! なんでなの……!?」
徐々に目の前が真っ暗になっていく。
駆け寄ろうとしたが、徐々に意識が遠のいていくような感覚に陥り、そして。
気づいたときには目の前で知らない男性が私に呼びかけているところだった。
「大丈夫!? 怪我はある?」
「え……」
少しの間だけ状況を飲み込めなかった。
私は何やら建物の前の生垣の淵の壁にもたれかかって座っているようだった。
今日は映画を観にきて、それで……そもそも赤坂くんと――。
「ぁ……赤坂くん!?」
周囲を見渡すと事故現場は少し影になっていて見えない位置に来ていた。
バッと立ち上がって駆け出そうとしたが、立ちくらみで頭がフラフラして転けそうになる。
介抱してくれたであろう男性が私の肩を慌てて支える。
「ほら、危ないよ!」
「でも、赤坂くんが……私の友達が!」
「友達? あ、事故の……大丈夫、すぐに救急車が来てくれるはずだ!」
「でもっ、でも……!」
この男性の腕を振り払って赤坂くんのところまで行きたい。
でも、私が行って何かできるわけではないことも分かっていたし、ここで私まで倒れてしまっては余計な迷惑をかけるとも思った。
だからその場にもう一度座って、体力の回復を待ちつつ救急車が到着してから彼の元へ行くことにした。
その後のことはあまり覚えていない。
少しだけ離れた位置から知り合いであることだけ周囲の人間に伝えて様子だけ聞くと、意識はないが息はあるそうだった。
大丈夫。きっと大丈夫。
そう言い聞かせても、私の心は過去の経験とリンクして不安を増大させた。
現実味が全くなくて、救急車が到着して隊員が彼を運んでいくところもあまり印象に残らなかった。
救急隊員や警察にも何か聞かれた気がするが、もはや何を聞かれたすら覚えていない。
赤坂くんが搬送された先の病院。
どうやら彼はすでに意識を取り戻しているようで、命に別状はないと聞いた。
ある種ホッとはしたけれど、私には別の不安感が生まれていた。
この待合室に私は一人だけというのも心細かった。
私は彼のことを何も知らないが、一人暮らしをしていて家族がすぐに来ることができないのかも知れないとは想像した。
それから2時間ほど待った頃だった。
「水瀬さんですね?」
看護師さんに呼びかけられるまで、そばに人がいることに気づけなかった。
寝ていたわけではないけれど、やはり現実感が少し薄れているというか、不安とともにボーッとした感覚を胸に抱いていたところだった。
「赤坂さんが会いたいそうですよ」
会いたい。私に?
私だって会いたい。でも。
恐る恐る、病室の扉をノックする。
「どうぞ」
いつもと変わらない声。
ゆっくりと扉をスライドさせ、病室の中に足を踏み入れる。
ベッドの上には、いつもと変わらぬ呑気な表情の赤坂徹の姿があった。
「ごめん水瀬さん! 今日映画見れなくて」
「……うん」
入り口の扉を閉めはしたものの、そこから彼の元へ近づくことに少し勇気が必要だった。
「いやー俺としたことが、事故に遭うなんてね」
「……怪我の状態は?」
「聞いてないか? 頭から結構出血したらしいんだけど、ダメージがあったのは皮膚だけだったらしいんだ。だからわりと平気なんだよ。数日で退院できるとさ」
「そっか……」
なんと返せばいいやら分からない。
「まあ、事故ったのは俺のせいだし。運転してた人にも悪いことしたなぁ」
「……私のせいだよ」
「水瀬さん?」
「私がダッシュしろなんて言わなければ……私と、今日映画の約束なんかしてなければ……私と、関わっていなければ……ッ!」
声も体も震えているのを感じる。
胸や頭がすごく熱くなってクラクラする。
「水瀬さん。君のせいじゃない。俺が水瀬さんと関わったのは、俺が関わりたかったからだし……映画を一緒に見に行っているのも、俺が水瀬さんに涙を取り戻したいっていう俺の欲求だ。それに、遅刻したのはどう考えても俺の責任だろ?」
「そんなこと……そんなことない! 私があのとき電話で急かしたからでしょ!? この映画館を選んだのも私! 最初のときに映画館の前で出会って声をかけたのだって私からッ! 私が、私が――!」
取り乱した私を見て困惑させてしまうと思った。
彼が怪我をしたのは私の責任で。しかもそれを彼に認めてほしいなんて。いくらなんでも自分勝手すぎる。
瞳の裏側辺りに少し重苦しいような感覚を覚え始めていたとき、彼はいつもと違う表情を浮かべた。
心の底から安心したような、笑顔ともならないような温かい顔。
「君はきっともう大丈夫だ」
「えっ……何、を……」
「俺は役目をもう果たしたって言ってるんだ」
それを聞いて私は慌てて頬の辺りに手を当てる。
いつの間にか嘘泣きしてしまっていただろうか。いや、涙は全く流れていない。
だったら彼は一体何を言っている?
「私、泣いてなんかない……まだ」
「そうかもな。でももう泣けないなんてことはないと思うよ」
「何言ってるの……?」
「きっと次に映画を観たときにでも、自然に涙が出るんじゃないかな。だからもう俺は君に必要ないと思う。だからさ――」
「――勝手に決めるなッ!!!」
病院に迷惑なほどの、これまでで最も大きな声を出してしまったような気がした。
息が上がり、心臓もドキドキしている。
「あなたを必要としたのは私なの! もう必要ないって、決めるのも私! アンタがそんなこと言うんだったら、もう私もアンタのことなんていらない……元のクラスメイトに、学級委員と問題児の関係に戻るの……私も、らしくないことはもうしない……」
酷く乱れてしまった髪の毛を少しだけ左手で整えて、彼の目をもう一度見ようとした。
しかし、もう目を合わせることができなかった。
「……ごめんなさい。私が悪いのは分かってる。でももう終わりなの。酷いやつでごめんね」
「そっか……分かった。来てくれてありがとう」
なるべく平静を保ちながら、私は病室を去った。
昼休みに菓子パンでも買いに行こうと購買の方まで移動したいと思ったとき。
校舎の反対側に購買があるので、近道のために校庭を通る。
屋根がある通路を通るとは言え、生憎の大雨だ。すっかり梅雨真っ只中なので当たり前ではあるけれど、これでは気分が上がりようがない。
いや、そもそも私の気分が上がるなんて、私らしくないんだろう。
――今、赤坂くんはどこにいるかな。
雨が降っているので屋上で寝転んでいることはないだろうけれど、相変わらず人とはつるまず一人で過ごしているのだろう。
あの出来事があったあと、私はあまりまともに彼とは話していない。
クラスメイトや学級委員として必要な会話を最低限したりはする。
しかし当たり前の友人としての会話はもう、できない。
あの時病院で怒鳴ってしまったことも、それなりに自己嫌悪してはいる。
しかしそれよりも私は、私にとって彼が必要ないと彼に断じられてしまったことが何より許せなかった。
それがショックだったし、だからこそあの場で怒ったこと自体は自然な感情の流れだとは納得していた。
しかし事故に遭ったばかりで大怪我を負い、家族もすぐに来れない心細かったであろう彼に向ける言葉としてはおよそ最悪の部類だったことは想像に難くない。
私のあの言動を知った人がいたら、多くの人は私を悪いと言うだろうし、私のことを嫌うんだろうと思う。
でも。それでも彼は私のことを嫌ってはいないんだろうなという想像が、私の心の平穏を阻害していた。
私が話しかければこれまでのように返答をしてくれる。
恐らく雑談を持ち掛ければそれには応じてくれるし、友愛を求めればそれを拒否するような人ではない。
なのになんで私は彼との溝を作ってしまっているのだろう。
彼と一緒に過ごすのが楽しかった。幸せだった。
であれば彼にちゃんと謝って、もう一度友達として接することも可能だと思うし、それが理想なんじゃないか?
そう思うのに、そうしようという気は起きなかった。
私がそう感じる理由は多分一つ。
――私は彼を必要としたけれど、彼は私を必要としていなかった。
それだけだ。
考えてみれば当たり前だった。
彼は自分の理に従って生きている。
自分の世界が第一にあり、それでいて困っている他人は放っておけない。でも、その困り事が解決したら、自分はもう相手には必要ない。そう判断するのだろう。
彼に友達を作ろうという気概がないのも最初から知っていた。
友達になることを求められれば友達にはなるのだろう。でもそれは他人が自分おいう友達を必要としていることが前提であり、彼の方から友達を必要とすることはないのだろう。
それを思い出したからこそ、やはり私の方から友情を求めることはできないと思ってしまった。
私は彼を必要としていても、彼は私を必要としていない。その状態で友情を求めれば、それは一方通行の依存だ。
私は彼と共依存でありたかった。




