第二話
今は昼休みである。
赤坂徹の一日は、ここから始まる。なぜなら授業中は寝ているからだ。
「さて……プロフィールカードの提出をお願いできるかしら?」
「えっ」
「えっ、てなによ。早くしてよね」
「いや、お友達割引みたいな感じで」
「ダメ。そんな不公平なことできるわけないでしょ」
「じゃあ明日、明日出すよ」
適当に出まかせで明日と言ってしまったが、当然提出する気はない。
「ふん……まあどうでもいいわ」
「どうでもいいのかよ」
少し拍子抜けだ。
「こうしてあなたに決断を急かすのが私の学級委員としての役目だから。それはそうと、また映画見に行くわよ」
最初に映画を一緒に観た日以来、雫との距離が近くなったのは確かだが、こうしてもう一度映画を観に行こうと誘われたのは初めてだった。
「今度は何見に行くんだ?」
「なんでもいいわ。この間のもう一回見ても良いし、アニメ映画だって良いわよ」
「そうか……まあ別にいいけど、何で俺と一緒になんだよ」
我ながら失礼な質問だとは思うが、雫がこれほどに俺にこだわる理由もまた分からない。
「あなたが信頼の出来る人間だと分かったからよ」
「お、おう」
常日頃真顔で人に感情を見せない彼女に褒められると言うのは何だかむず痒い感覚だ。
「まあいいか。じゃあ行こうぜ。次の日曜、映画に」
「ええ、ありがとう」
そして日曜当日。
「お待たせしたかしら」
「時間に間に合ってんだから問題ないよ」
「というかあなた、待ち合わせに遅刻しない人間なのね。意外だわ」
「いや、たまたまだ。普段は二時間遅刻する」
「最低ね」
「うっ……」
底知れず正直な奴だ。
気を取り直して、映画館に入ることにしよう。
「そういえば気になったんだけど、毎週映画見に来てるって言ってたよな」
「ええ、そうだけど」
「よくそんな金があるな」
「まあね。家もそれなりに裕福だからね」
不思議と嫌味っぽい感じはしない。ただ単に事実なのだろう。
「さて。映画、見ようか」
今日観た映画は『真偽の密室』という題名で、想像に易いであろうがミステリモノだ。
頭の回転の速い彼女には打ってつけの作品だろう。
そもそもとしてこの作品は泣くような代物ではないような気もするが、それは言わないでおこう。
「映画って面白いもんなんだな。先週今週と見ただけでも、世界が変わったよ」
「ええ。面白かったわね。この原作小説の作家と、今回の映画の監督の組み合わせが絶妙なのよ。監督の持ち味であるミステリアスで不気味なビジュアル。これが、原作小説を引き立たせているの」
「はは、よっぽど好きなんだな」
映画好きらしい感想だ。
「しかしまあ、ミステリーって当たり前だけどよく人が死ぬよな。ああも人が死んでくような作品を目にすると、作者の頭はどうなってんだ!って思ったりするよ」
「創作世界と現実世界は全くの別物よ。我々が創作の世界に入り込めないのと同様、創作の世界の人間はこちらに影響を与えたりはしない。だから、案外書いてみると躊躇なくなるものなんでしょうね。人の死を描くことでしか、伝えられない感情だってあるでしょうし……」
そうだ。
雫は感情を大切にしている。きっと、泣きたいという動機だけで映画を見ているわけじゃない。創作品から何かを受け取り、心を動かされたい。その一心で映画を見続けているのだろう。
「でもさ、やっぱり水瀬は感情がないわけじゃないよな」
「どうして?」
「相変わらず真顔で平坦な口調ではあったけど、さっき映画について語ってた時のお前は、楽しそうだったよ」
「……そう。ありがとう」
「俺は思ったことを正直に言う男だからな」
「正直に……ね」
雫は少しだけ顎に手を当てて何かを考える素振りを見せた。
「それじゃあ、一つ聞くわね」
「ああ」
「私のこと、好き?」
「はぁ!?」
突拍子のない質問に驚きすぎて、俺は飛び跳ねてしまった。
「正直に答えてくれるんじゃないのかしら?」
「い、いや……そんなこと聞かれるなんて想像だにしてなかったし、つーか、なんて言ったらいいか……」
心底困ってしまったが、観念して俺は素直に答える。
「……まあ、嫌いだったら映画に誘われても一緒に見に行ったりしねーよ。それは間違いないさ」
「……」
しばらくの間雫は沈黙していた。
その沈黙が徹には怖かったが、やがて口角を少しだけ上げてこう言った。
「ダメね……異性からの『嫌い』『好き』と言った強い感情は少しは私の心を動かすと思ったんだけど、そんな曖昧な言葉で返されたら判断できないわ」
「な、なんだよそれ……」
こっちが恥を掻いただけじゃないか。
「それじゃ、水瀬さんはどうなんだよ」
「私は好きよ」
「はい!?」
「好きじゃなかったら誘わないでしょう。冷静に考えなさいよ」
「いやでも、そんな急に告白されても対処に困るっつーか……」
「何勘違いしてるのよ。人として好きなだけで異性と好きだなんて一言も言ってないでしょ。ばーか」
「こ、こいつ……!」
これほどまでに愚弄されたことがこれまであったろうか。殴ってやりたい。
「つか……やっぱり笑いはするんだな」
「まあね。あなたに言われたように、私にも楽しいという感情くらいは残っているようだから」
「……どうして」
どうして、泣けないんだ。
それを尋ねようとして、なぜだか俺は躊躇してしまった。それを聞いたらもう、戻れないような予感がしていた。
それでも、聞かなければ前に進めない。
理由なんて彼女にも分かっていないのかも知れない。それでも、彼女のことをもっと知る足がかりになればいい。
俺にはもう雫はただの他人ではなかったし、純粋な興味もある。そんな人間の助けになれるかも知れないのなら。ここで立ち止まりたくはない。
迷惑になるかも知れない。それでも。
「……どうして、泣けないんだ?」
「ただ、泣けないのよ。原理とかは分からない」
「じゃあ、質問を変える……キッカケとか、あるんだろ?」
「……」
表情は変わっていない。ただ、俯いたのは分かった。
「詳しくは説明しない。でもあるとき……人間としての心を失ったようなものなの。脳機能の障害なのか、単純に精神的な物に起因しているのかは定かじゃないけれどね」
返す言葉もない。
彼女がどんな経験をして、何を思ったのか。今深掘りする気は起きない。
「でも、いいのよ」
「いい……?」
「涙は、流せるようになったから」
本当にそれでいいのか。それを尋ねるのは憚られた。
それからほどなくして、少ない事務的な会話をして俺らは解散した。
翌日。
「プロフィールカードは?」
「あ、いつもの調子なのね……」
少し気を使って接し方を考えようとしていた俺がバカみたいじゃないか。
「それで?」
「嫌だね。俺は絶対に提出しない」
「あらそう」
正直な話、雫も理解しているのだろう。この会話はただの挨拶みたいなものだ。
「で、昨日の話だけど」
結局その話に触れるのかよ!と突っ込みそうになったがやめておいた。
「あんまり気にしなくていいから。昨日の話し方だと重く聞こえたかも知れないけど、トラウマとかになってるわけでもないの」
そこで彼女は小さな微笑みを見せてからこう言った。
「それより、今週も行くわよ、映画」
「はあ? これからずっと俺と同伴する気なのかよ、お前」
「ええそのつもりよ。私はあなたを気に入ったの」
「なんかほんとその、真顔で褒められるって言うのはツンデレとはまた違う破壊力があるな……」
「気に入ったとしか言ってないんだから、もしかしたら良い実験材料だ、とか思っているかも知れないわよ?」
「お前が何の実験をすんだよ」
「そうね。あなたは感情表現が豊かな人間に見えるから、隔絶された環境下において変化を加え、それに対するあなたの反応によって喜怒哀楽の原理を探ってやろうかしらね」
「そんな実験の被験者になってる時点で怒哀の部分しか残らない気がするけど……」
「いいじゃない、あなたを怒らせるのは楽しいから」
「コイツ……」
ちょっとイラつくことは多いが彼女のこの極度の正直さが徐々に心地よくさえ感じてきた。
徹も元来素直に気持ちを表明する方なので、相性としては悪くないだろう。
似た者同士、とも言えるだろうか。
「まあいいか。映画だろ? 今週も付き合うよ」
水瀬雫について、俺は思案する。
彼女は過去の出来事によって感情を封印している状態だ。
そんな彼女は、泣けないから嘘泣きをしているという。それが誤魔化しであるとも言っていた。
だったら、心の奥底で燻っている感情は、解放されたいと願っているのではないか。
彼女の心を解放して、本当の涙を見たい。
それが俺の目的となった。
二人で映画を見るのもいよいよ三回目。
最寄り駅から少しだけ開けた場所を歩いてすぐ左にあるビルに視線を移すと、ポスターがたくさん貼ってある壁面のすぐ横に雫が立っていた。
今日も今日とてキュートな淡いピンクを基調とした服を着用した雫に、俺は駆け寄りながら叫ぶ。
「待たせた! 早いな!」
「一時間遅刻してるんだけど」
そう言いながら雫はスマートフォンの時計表示を見せつけ、指でトントンと叩いた。
「どうして遅れたのよ」
「寝坊しただけです、ごめんなさい」
「あっそう。まあいいわ。私は休日は自由に使える時間として確保してあるから、あなたにどんなに時間を無駄にされても、生活ペースに影響はないわ。ただ、私の人生の貴重な一時間をあなたに奪われたと言うだけの話ね」
「……申し訳ございません」
「勘違いしないで欲しいものだけど、私は別に怒っているわけではないわよ。そう見えるかも知れないけどね。理由を問うたまでよ」
表情があまり変わらないというのは怖いものだ。彼女の心の底が計り知れない。
さて、今日観るのは数学者の半生をテーマにしたノンフィクションものの映画となった。
なぜその映画になったのかというと、元々集合してから二人の気分で観る映画を決める計画ではあったものの俺が遅刻した結果としてその映画くらいしか観たいと思える映画がタイミング的になかったからだ。
ただ、俺は高校で勉強する科目の中では唯一数学が少しだけ得意だからこの映画には興味はあった。
いつも高得点というわけにはいかないが、平均点は基本的に超えられる程度の実力はある。
そもそも以前数学が得意という話はしたはずなのだが、そのことを雫に話すと再度意外そうな顔をしていて不服だ。
そんな話をしていて気になったことを彼女に尋ねる。
「そういえば、そういう水瀬さんの成績はどうなんだ? 学年トップか?」
「私? 平均よりはだいぶ上だけど、トップを張るほどじゃない」
「へー。それはちょっと意外だな。勉強ばっかりしてるのかと」
「勉強ばっかりして涙が流せるとは思えなかったのが主な理由ね。他のことをする時間も必要だと判断して、勉強は程々なの」
「なるほど……」
やはりというか、今の雫にとっては涙を流す――というより泣くことが主目的になっているのだろう。
「さあ、もう少しで開場の時間よ」
スクリーンへ向かったあとはあまり多く会話もなく、そのまま映画の開始時刻となった。
そして2時間弱が経過し、映画はエンドロールを迎えた。
相変わらず雫は涙を流しているが、噓泣きだと思えば思うほどそれが明確に分かってしまっていたたまれない気持ちになってしまう。
スクリーンが明転し、他の客たちと一緒に出口へ向かうときには雫の表情には涙を流した痕跡など一切なかった。
ただしそのことばかり気にしていても仕方ないと思った俺は、とりあえず映画の内容について彼女と語り合うことにした。
実際今日見た映画は素晴らしい内容だったし、俺自身とても楽しめた。
ある数学者の子供時代から、大人になり有名な数式を導き出すまでの半生が描かれていたので数学を好んだり興味を持つ年代の若者にとって感銘を受ける内容の作品だったことは間違いない。
映画の感想を話すのは楽しかったし、実際熱中してしまったと言えるほどには高揚感もあった。
それに対して冷めた表情で応答しているように見える雫も、それなりに楽しんではいるのだ。そう思いたい。
「それにしても、やっぱり良いものね。映画の内容を語り合える相手がいるというのは」
「楽しいって感じてくれてるのか?」
「ええ。そうでなかったら、あなたをこうして映画に誘ったりはしないわ」
良かった。やはり、彼女の心は死んでいるわけじゃない。ただ自衛の為に眠っている。そんな表現が適切だろうか。
水瀬雫は確かに笑う。その笑顔が嘘だとは俺は思わない。
しかし、その自嘲的な表情は彼女の深層心理を表しているような気がしていた。
水瀬雫は、いつも感情のない自分自身を見下しながら他人と接してるんじゃないか。それを声に出そうとして、少しだけ躊躇する。
水瀬に対して現実を突きつけることは、果たして彼女へポジティブな作用を引き起こすことになるだろうか。今の彼女が感情を押し殺している状態だというのなら、自分がそれを解放してしまうのは無粋な真似だろう。
彼女の押し殺した感情を解放してしまったら。これまでの人生の悲しみ、怒り、虚しさが全て、濁流のように押し寄せてくるのではないか。そんなことをしたら、彼女は今度こそ本当に壊れてしまうのではないか。それに対しての責任なんて、取りようがない。
だからどうした。彼女がそれを望んでいるのなら、彼女がこのままの状態でいることなんて、許せない。俺が伝えたいのはシンプルな事実だけだ。
「なあ水瀬さん……君さ、言ったよな」
「何を?」
「涙は流せるようになったから良い……って」
「ええ」
「俺は……そんなこと絶対に思わない」
言ってしまう。口から想いが吐き出される。
「良いわけない……涙を流せるようになった? そんなの、ただ水を流してるだけだ。雫を零してるだけなんだ。自分で言ってたじゃんかよ……これは『嘘泣き』だって。自分を誤魔化したいからだって。それなら、心の底から泣くのが、本当の願いなんだろ?」
「……本当の願い」
「そうだ! それがお前の本心……水瀬雫の本当の心なんだよ!」
精一杯の言葉。全てが彼女に伝わったのかどうかは分からない。
「……そっか。なるほどね」
「ごめんな」
「ショックを受けたわ。どう責任取ってくれるのかしらね」
相変わらずの抑揚のない声。ただし、その時浮かべていた彼女の表情は、苦笑だった。いつもと変わらぬ彼女の様子に俺は少しばかり落ち着きを取り戻し、彼女の言葉に返答する。
「これでも……出来る限りマイルドな表現をしたつもりだったんだけどな」
「そう。でも、これで分かったわよ」
「何がだよ」
「確かに私には、まだショックを受ける感情くらいは残ってたってこと。現実を突き付けられて、ちょっと怒りも湧いた。あなたを蹴り倒したいくらいにね」
冗談じゃない。
実際、俺がもう少し踏み込んだ発言をしていたら、彼女の心の枷は外れていたのだろうか。それがどんな方向へ飛んでいくのかは別として。
「だから、赤坂くんのその気持ちは、有難く受け取るわ。私を泣かせられるものなら、泣かせてみて欲しい。いえ……これじゃまたあなたに喝を入れられてしまうかも知れないから、もう素直に言うわね」
一息置いて、彼女は。
「私に……本当の涙を取り戻させて欲しい」
言いながら頭を下げる雫。
「……そこまでされたら、絶対に引き下がれないな。ま、引き下がるつもりもないけどさ」
何となくそのタイミングで気恥ずかしさを感じた徹は、少しだけ後退る。
考えてみれば水瀬雫は女子だ。女子と三回も映画館デートをして、そして今なぜだか頭を下げられている。
しかし不思議と、下心のようなものが湧いてくることはなかった。
こいつの本当の涙を見たい。それが俺の一番の願いだった。
「約束だ。君を本当に泣かせられたら。俺は君のこと、下の名前で呼ぶ」
「どうして?」
「……どうしても何もない。ただ……契約みたいなもんだ。お前を心から泣かせられたら……俺のことも、下の名前で呼んでくれないか」
「……」
しばらくの間、その場は静まり返っていた。
やがて雫は。
「ぷっなにそれ……カッコつけてるつもりかなにか?」
笑い。それは彼女がいつも見せている苦笑のような表情ではなく、微笑みだった気がした。しかしそれは本人にさえ分からない。この世に生きているどんな人物であっても、彼女の表情が微笑みなのか苦笑なのか、判別する術はない。
「まあいっか……約束してあげる」
そんなこんなで、俺と雫の契約はこの日から始まった。




