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青い痛みの先に  作者: ひろゆき
4/23

壱 (3)

 杉浦が言う野村という人物に尾崎は出会います。それは、尾崎にとって、予想外の出会いになります。ですが、それは彼にとって大きな出会いにもなり、抱いていた悩みにも繋がります。あと、ちょっとですが、ある大きなことに関わる会話が出てきます。よろしくお願いします。

               3



 病院はどんな病気でも治してくれるんだ、と信じていたのは、いつごろまでなんだろうか、とふと悩んでしまった。

 消毒液の臭いが鼻を突く中、案内板の下で尾崎は左手をじっと眺めていた。

 この左手に宿った“力”は病気なのか、と考えると、病院が万能でないと知らしめられ、胸が強く締めつけられると、どうしても滅入ってしまう。

 不安を潰そうと左手をギュッと握り締めた。掌に爪が食い込むほどに。

 それでも気持ちは治まることはなく、気づかされてしまう。

「そっか。だから病院が嫌いなんだな」

 居心地の悪さを理解して嘲笑してしまう。

「何が嫌いなんだよ?」

 得体の知れない苛立ちが込み上げ、頭を掻いていたとき、ふと尾崎を呼ぶ声がした。

 突然の呼び声に、気の抜けた情けない表情のまま、顔を上げた。すると、思い詰めた滑稽な顔を見つけた、と不敵な笑みを浮かべた杉浦が立っていた。

「何やってんだよ」

「いや、別に……」

 “力”のことは話せず、右の頬を忙しなく掻くしかなかった。

「じゃぁ、こっちな」

 怯む尾崎をよそに、奥に伸びる通路を小さく指差すと、尾崎の返事を待たずに、奥へと体の向きを変え、足を踏み出していた。

 気を抜けば離れそうなほど、足早に杉浦は進んでおり、尾崎も慌てて後を追った。

 通路はちょうど以前、会計カウンターの場所から、尾崎が杉浦を見つけ、角で見失った先に進んでいた。

 受付ロビーの横の通路を抜けていく。この先に診察室はないので人影はなく、二人だけが突き進んでいた。

 二人に会話はなかった。どう切り出せばいいのか分からず、尾崎からは何も話しかけることはなかった。

 杉浦は目の前にいたのだが、どこか背中が小さく見えてしまった。

 杉浦は以前と同じく、制服をちゃんと着ており、トートバッグを肩にかけ、今日も白いビニール袋を手にしていた。

 野村という人物への手土産なのだろうか。

 しばらく進むと、エレベーターホールへと出た。「上」のボタンを押すと、エレベーターが降りてくるのを待った。

 ややあって、エレベーターが降りてきて二人は乗り込んだ。ほかに乗り込んだ者はいなかった。

 扉が閉まり、下から突き上げるような衝撃とともに、昇り始める。

 杉浦は五階のボタンを押した。

 そこで壁に凭れると、杉浦は大きくため息をもらし、天井の明かりをぼんやりと見上げた。

「……この時間がどうも苦手なんだよね」

 入口付近で凭れていた尾崎は、途切れそうな声に「えっ?」と反応したが、杉浦は黙り込んでしまう。

 尾崎の疑問をよそに、エレベーターは五階に辿り着き、扉が開いた。杉浦は慣れた素振りで外に出てしまい、慌てて尾崎も後を追った。

 病棟に出ると、ベッドが余裕を持って動かせるほどのエントランスになっていた。気のせいか、一階よりも消毒液の臭いが強く、思わず尾崎は鼻を押さえてしまう。

 エレベーターの正面の壁には、右向きに青い矢印。左向きに赤い矢印が白い壁に記されており、青い矢印の上には内科病棟。赤い矢印の上には外科病棟と案内されていた。

 どっちだ、と迷っている尾崎をよそに、杉浦は体を内科病棟に向けると、迷わず進んだ。

 堂々と背を伸ばして歩く杉浦に対して、おどおどと辺りを見渡しながら、尾崎は後を追った。

 どうも、先ほどからこの関係が続いている。

 少し進むと、右側に開けた空間があり、青い長椅子が設置された休憩所になっていた。

 赤いパジャマ姿の四十代と見える女性がタバコを吸っていた。

 好奇な眼差しで見られながら、休憩所を横切ると、今度は右側にナースステーションがあった。

 ナースステーションは角になっており、正面はトイレとなっていた。通路は角を曲がって左の奥に続いている。

 ナースステーションの前を通りすぎる。中では、女性の看護師が三人、忙しなく動き回っていた。

 杉浦は角を曲がり、尾崎があたふたと後を追うと、今度は通路の右側に病室が並んだ通路となっていた。

 左側は、入院患者用の浴室などがあった。

 そのまま進んでいくと、

「ーーここだよ」

  と、突然杉浦が足を止め、こちらに振り返った。一度髪を掻き上げたが、やはり表情は優れなかった。

 言われて尾崎は視線を移すと、病室の一室の前であった。通路を挟んだ向かいの壁には、消火栓の赤い設備があり、上部に非常用ボタンも設置されていた。

 扉のそばに病室の番号が書かれた白いプレートが右側に掲げられていた。

 507号室と記された病室。その下に記入された名前を見つけ、尾崎は息を詰まらせ唇を強く噛んだ。

 野村七瀬 ーー

 黒いマジックで書かれていた。野村とは、入院患者だったらしい。

 唖然としている尾崎の横で、杉浦は唐突に自分の頬をバン、バン、と両手で軽く叩いた。まるで、気持ちを入れ替えるように見えた。

 杉浦は扉をノックする。

「七瀬、入るよ」

 それまでより穏やかな口調で言うと、中からの返事を待つこともなく、杉浦は扉を開き、中に入ってしまった。

 圧倒されてしばらく佇んでいた尾崎は、ややあって恐る恐る中を覗き、「失礼します」と、まるで職員室に入るような面持ちで入った。

「体の調子はどうだ?」

 病室は正面には大きな窓。その壁に面するように横向きにベッドがあり、窓からは日が落ち始めた光がベッドに射し込んでいた。

 ベッドでは眠っているのか、野村七瀬と呼ばれた人物はうごいておらず、ベッドの脇に立つ杉浦の姿で、半分が隠れていた。

 体格と名前からして、少女のようだ。

 病室の扉を閉め、その様子を見た瞬間、病室全体の異質さに気づく。

 尾崎は体を硬直させた。

「悪いな。今日はお前の好きな桃の紅茶はなかったんだ。だから、これでいいだろ」

 右側の手前に革製のソファーがあり、そこにトートバッグを投げると、手にしていたビニール袋から、一本のペットボトルを出すと、ベッドのそばにある小さなテーブルの上に置いた。

 音を立てる杉浦だったが、ベッドの上の野村は微動だにしなかった。そして、音が鳴り終わったときに訪れた静寂に、どこからともなく無機質な機械音が広がった。

 音の元はベッドのそば。音を辿って尾崎は目を疑った。そこには小さなモニターがあり、黒い画面に緑の線が波を打っていた。

 医療に関して知識がなくても、それが心電図であるのは一目で理解した。

 目線を落とせば、杉浦の横から野村の横顔が見えた。そして、彼女の喉元からチューブが繋がられており、それが心電図の機械の方に繋がっていた。

 一瞬にして、野村七瀬が置かれている状況を察すると、より背中に悪寒が走る。

 病室に入ったときにから、空気が張り詰めているような緊張が、鋭い針となって、尾崎に無数に突き刺さっていた。

 植物状態? ーー

 脳裏にこの言葉が浮かんだとき、全身から力が抜けてしまい、扉に倒れ込むように凭れてしまう。

 正直、怖くなってしまった。これまで、重体の人を見たのは初めてだったので。

「ーーん? どうした?」

 扉に凭れ込んだ音に杉浦は振り返り、力の抜けた様子を見て、おどけた表情で首を傾げた。

「あ、いや、ちょっと、驚いたからさ……」

 焦点が定まらず、動揺も隠せなかった。辛うじて体勢を整えた。

 無意識に右手で左の腕を擦っていた。まだ、寒気が治まらなかった。

「お前、コーラでいいか?」

 情けない表情の尾崎を鼻で笑うと、手にしていたビニール袋から、一本のコーラのボトルを、尾崎に差し出した。

 躊躇する尾崎。すると、「ん」とボトルを突き出したので、「ありがと」と弱々しい声で、コーラを受け取った。

 そこでようやく、病室の中へと進んだ。そこで野村七瀬の顔を正面から見ることができた。

 胸の辺りでペットボトルを持っていた手が、力なく垂れ下がってしまった。すると、杉浦はベッドの前を譲った。

 不本意ではあったが、今度は尾崎がベッドに眠る姿がいたたまれず、手にしていたボトルをギュッと握ってしまう。

 一目だけでは正直、生きているのかさえ分からなかった。寝返りを一切打たず、真っ直ぐ横になり、白い掛け布団を肩までかけていた。それでも、背が低い小柄なのは伝わってくる。

 全体的に小さく丸い顔で、幼く見える。ショートボブの黒髪が、幼く見えてしまっていたのかもしれず、中学生かと見間違えそうだった。

「……もう二年かな。中三の夏だったから……」

 起きる気配のない野村に見入っていると、奥の窓のそばに立っていた杉浦が、ポツリと呟き、尾崎は視線を移した。

 すると目を伏せていた杉浦は、手にしていたコーラのボトルを軽く揺らし泡立てた。儚げな表情で唇を噛んで。

「目を覚まさないの?」

「ーーそ。ずっとね。ま、いわゆる“植物状態”……だね」

「ずっと……」

 理解はしていたが、直接声に出して言われると、より心に重くのしかかる。

「……その、原因は?」

 口ごもりながら訊いてしまった。すると、杉浦は下から上を見据えるように睨み、髪を擦った。

「……自殺だったんだ」

「……自殺」

「中学のとき、学校の屋上からね。運がよかったっていうのかな、やっぱり。ちょうど、落ちた場所が土の上だっから、命は大丈夫だったんだけど、打ち所が悪くてね」

 それで植物状態に、とは辛いのか、杉浦も言葉を呑んだ。そこで尾崎も小さく頷いた。

「お前、それからずっと?」

「……毎日、ってわけにはいかないけれど、週に二、三回って感じかな」

 それまでのことを思い返していたのか、一瞬、宙を見上げた後に杉浦は答えた。左手を顎に当てながら。

 尾崎はまた野村の顔を伺った。やはり起きる気配はない。

 ふと考えてみた。自分の知り合いが、同じ境遇に陥ったとき、杉浦のようになれるだろうか、と。

 杉浦が嘘をついていないのは分かる。しかし……。

「……どうして、そこまで」

 本音を聞かずにはいられなかった。疑念を杉浦に向けると、今度は苦笑して、左の頬を指で掻いてみた。

 その姿はどこか照れているようにも尾崎には見えた。

「ま、一応、僕恋人だし」

 弱々しく答えた杉浦。尾崎は突拍子のない返事に目を点にして、呆然としてしまうと、最後に「ーーえっ?」と間の抜けた声を出してしまった。

「ま、そういうことだよ」

 体裁が悪いのを察したのか、杉浦は話を無理に断ち切った。恥ずかしさを隠すように、コーラを一口飲んだ。

 そういえば ーー

 テーブルには紅茶が置かれている。以前、見かけたときも袋を持っていた。ならば、毎回何かを持ってきていたらしい。

 会話は…… ない。それでも献身的に見舞っている杉浦に感心してしまった。

「なぁ、なんで僕にこの子のことを教えてくれたんだ?」

 ずっと疑問が残っていた。尾崎は杉浦とは別の中学に通っていた。だから野村とも面識はなかった。それなのになぜ、ここに連れて来たのかが。

 すると、杉浦は尾崎の顔を見た後、ボトルのキャップを閉めた。

「今日、お前が七瀬のことをもう一度、訊いてくれたからだよ」

「どういうことだよ?」

「なぁ、最初、七瀬のことを誰に訊いた?」

「豊田だよ」

「豊田か。そうだな。あいつとも同じ中学だったからな」

 そこで杉浦の表情が曇った。それまでの、照れを隠した明るさではなく、病室入る前の暗さをまとっていた。

「なぁ、僕らの高校に、七瀬と同じ中学だった奴、どれぐらいいると思う?」

「さぁ。でもそんなに多くないんじゃ」

 尾崎が通う高校は公立高校。進学校ほどでもないが、いくつかの中学から集まっていた。尾崎が通っていた中学からも、何人もいた。

「じゃぁさ。ここ一年で、僕以外の子が何人、見舞いに来たと思う?」

「それは…… でも、この野村って子の女友達とかは来るんじゃ」

 明確な人数は分からなかったが、予想できる範囲のことを答えてみた。

 しかし、それを否定するように、杉浦はかぶりを振る。

「……一人もいないんだよ」

 意外な返答。杉浦の苦笑に、尾崎は声を失う。

「最初はいたよ。何人も。それこそ、こいつの親友だった奴も。けどさ、一ヶ月が経っても目を覚まさない。それで卒業、高校で別々になって…… そうやって時間が経つと、みんな遠離っていくんだ。まぁ、姫香は別か……」

「……そうなんだ」

 返事に困り、尾崎は上手く言えなかった。

「別に責める気はないよ。けど、豊田だってそうだ。七瀬のことを知ってるんだよ。けど、病院には来ないんだよ。みんなね。きっと、嬉しかったんだろうな、僕は。お前がちょっとでも気にかけてくれたことが」

「……それは」

 “力”が影響している。とは言えなかった。さらには心配よりも、好奇心があったことを。

 何より今どんな言葉をかけても、軽率になってしまう。尾崎には自信がなく、目を伏せずにはいられなかった。

「なぁ、お前だったらどう思う? こいつは忘れられているんだ。ここにいるんだよ。ちゃんとここに。それなのに…… 生きているのに、忘れられる。お前には分かるか? その辛さが……」

 辛さ…… その部分で語尾が強まった。まるで、微かでも湧いてしまった好奇心を見透かされ、批難しているような冷たい眼差しで。



               4



「……お前はなぜ、俺を消そうとするんだ?」

「理由は…… ない。それが掟だから」

「まったく、なんだよ、それ」

「あなたが選んだのはジョーカー。それがすべての答え。それじゃ、答えにならない?」

「勝手だな、それは。で、それは誰の差し金だ?」

「それを知る必要も…… ない」

「じゃぁ、誰の指図だよ」

「指図じゃない。ただ…… 姫香の願いかもしれない」

「姫香? 誰だそれ? まぁ、いいか。しかし、こんなことで俺は死ぬのか…… バカバカしいな」

 野村七瀬の存在。それは“力”によって強引に消される人物の存在と、忘れられてしまった人物との対比として、出現させたかったのです。それは、献身的になる杉浦の苦しみや辛さの悲しみとしても。そして、最後の会話。それは今後にも繋がる会話にもなります。そこを楽しんでいただければ嬉しいです。

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