壱 (4)
やっと、尾崎の“力”に関わる進展があります。現実と夢との関わりは、尾崎にとって深刻な問題となっていきます。ちょっとでも興味を抱いていただければ幸いです。
5
静寂した教室。壁にかけられた時計の秒針の音も聞こえてきそうなほど、耳が痛くなっていた。
教室の中心の席。尾崎の席ではないのだが、尾崎はそこに座り、うつむいて机を眺めていた。
机の上には、一枚のトランプが置かれていた。絵柄を上にして、尾崎は息を詰まらせてしまう。
黄色い帽子をかぶり、真っ赤な鼻で、不敵に口角を上げ、不気味に笑ったピエロが描かれており、尾崎に何かを問うように見上げていた。
ジョーカー。
ジョーカーのトランプを手にしたとき、どこからともなく、何かの会話が聞こえた。
空耳ではなく、尾崎の上を声が舞っているように聞こえた。
誰の声かは分からない。一人は男の声。初めて聞いたはずなのに、なぜか心が握り潰されそうな痛みが走る。
そして、もう一人は女の声だった。
会話の内容から、まるで男が一方的にカードを押しつけられ、女がカードを渡しているように聞こえた。
どういう状況なのかは分からない。
ただ、そこで不意に左手を眺めてしまい、唐突に考えてしまう。
この手で……
「……消した、奴なのか?」
会話の中で「消す」というワードがあり、より恐怖心が強まり、無意識に左の掌に力がこもってしまう。汗が滲む感触が気持ち悪くなってしまう。
「……ヒメカって、誰だ?」
誰もいないのだと知りながらも、周りを見渡してしまう。誰かに聞かずにはいられず。
無論誰もおらず、最後に窓を眺めてしまった。夕日がこちらを眺めていた。空をオレンジ色に染めて。
つい、この夕日にさえ、問いかけていた。
「……ヒメカ?」
金曜日の朝。普段とは違う頭痛に苛まれ、尾崎は目を覚ました。
辺りを見渡す隙もないまま、尾崎は一言呟いてしまった。
誰か分からない名前に疑念を抱きながら、耐えられない頭痛に額に手を当てていた。
痛みのせいか、顔が火照っているみたいだ。
気持ちが落ち着き出し、天井の白さを把握した瞬間、背中に悪寒が走り、パッと目を開くと、咄嗟に左の頬に手を触れていた。
一週間ほど前、青い涙を流したときと、今が似ている感覚が体に残っていた。
だからこそ、時間を確認する前に手が動いてしまった。
頬が濡れていることはなく、泣いていない現実に安堵せずにはいられなかった。
ベッドに寝そべったまま、ため息をもらして瞬きをした。
「……ヒメカって、誰なんだろう?」
昨日、病院から帰ってから、ずっと考えていた。
辛い、か ーー
杉浦の言葉が強く耳に残っていた。時間が経つたび、尾崎の“力”を批難しているをじゃないか、と悩まされる。
「……もしかして」
夢で聞こえた声。どこか懐かしいと思えてしまう男の声。それは自分が消してしまった人物の声なんじゃないか、と不安が急に強まってしまった。
ヒメカ…… どこかで聞いた気になっていたのだが、それが分からないまま、尾崎は学校に向かった。
朝のホームルームが始まる十分前に教室へと入った。いつもはもう少し早く登校していたのだが、今日は気分が優れず、家を出るのが遅れてしまった。
すでに登校していた生徒が、教室内でいくつかのグループに分かれて盛り上がっていた。
扉付近で喋っていた生徒にあいさつして、席に着いた。これから長い一日が始まると思うと滅入ってしまい、椅子に座るなり机に突っ伏してしまった。
ややあって顔を上げ、教室を見渡した。
この中で誰かが消えたのか? ーー
すでに登校していた生徒の顔を、一人ずつ眺めてみた。勿論、全員を把握している。だからこそ、心が緊迫してざわめくことはなかった。
最後に遠くの杉浦の姿を見たとき、思い出した。
ーー 姫香。
昨日、病院で野村七瀬の友達だった女子生徒が、確かそんな名前だったような気がした。
だが、すぐに杉浦に訊きに席を立てずにいた。昨日、最後に見た杉浦の冷淡な表情が、尾崎を億劫にさせていた。
そのままうとうととしていると、ホームルームの始まりを告げるチャイムが鳴った。尾崎は顔を上げ、強まっていた睡魔を遠ざけようと、控え目に伸びをして、腕を前に伸ばした。
体を反らしたとき、机の引き出しに何かが入っているのに気づいた。普段、登校して教科書を引き出しに入れることはない。入れるならば、授業が一つ終わるごとに、筆箱を入れるぐらいで、教科書はすべてカバンに入ったままである。
怪訝に眉をひそめて見ると、どうやら一枚の紙が入っていた。
なんだ、これ、と取り出してみる。すると、ルーズリーフが二つ折りになって入っていた。
誰かのイタズラ、と何気なく首を傾げて開いてみた。
ーー 次は誰を消すつもり?
ルーズリーフを開いた瞬間、尾崎の背中に悪寒が走り、全身から血の気が引いてしまう。
まるで尾崎の“力”を把握しているような文面。ルーズリーフを握る手に力がこもり、目を見開いてしまう。
字は横書きで、シャープペンで書かれた細い文字。文字の角がしっかりとなっており、単純なイメージで、芯が強うな人物に感じてしまった。
バンっと机にルーズリーフを叩きつけ、咄嗟に教室を見渡した。
確実にこの教室にいる。その確信だけは抱け、生徒を見渡す眼差しが険しくなる。
なんで、知ってるんだ? ーー
もしかして、消すところを見られた? ーー
いや、そもそも、なんで“それ”を知っているんだ? ーー
困惑が頭痛を引き寄せてしまう。誰もが怪しく見えてしまい、一人、一人と顔を眺めていると、教室の扉が開いた。担任が来たらしい。
席を立っていた生徒が、担任の「座れ」の一言に、立っていた生徒が忙しなく散った。
何気に杉浦に目線が移った。すると、杉浦はこちらの目線に気づいたのか、一瞬「何?」と顔を傾げた後だった。
不敵に口角を上げたのは。
なぜ? ーー
という問いを咽の奥に詰まらせていると、別の生徒が杉浦の横を通りすぎ、再び姿が見えたときは、何もなかったように、違う方角を眺めていた。
お前、何か知っているのか? ーー
無言の疑問を宙に彷徨わせていると、担任がざわめきを遮断させ、朝のホームルームが始まった。
担任の話は耳に入らなかった。目尻をつり上げ、険しい表情で頬杖を突きながら、机の上に置いた、ルーズリーフを睨んでいた。
何度見ても、文面に苛立たされる。
お前は誰なんだ? ーー
苛立ちをそのままルーズリーフに書き込んだ。そしてグシャッと丸めた。
ルーズリーフは教室の後ろにあるゴミ箱に捨てた。手元にこの紙を残していると、胸の動揺は静まりそうになかった。
一限目が終わり、二限目が始まるまでの十分間の休憩時間、尾崎は席を立ち、トイレに向かうと、時間を空けてから席に戻った。
席に戻り、椅子に座る前に一度、教室を見渡した。一瞬だけでなく、一人、一人を観察するように。
そして座ると右手で頬杖を突き、左手の人差し指で机を忙しなく突いていた。
しばらく教室を眺めた後、唐突に指が止まる。
松井、大場、川原の三人がノート。それで、島田、山口がルーズリーフか ーー
次の授業までの間、前の授業のまま席を立った者。机の中にすぐに仕舞う者。様々であったが、机の上に教科書を置いたままになった者のノートを思い出していた。
席を立ったのはワザとだった。一度立ち上がり、教室全体を確認したかったから。
全員を確認できたわけではない。しかもルーズリーフでも、遠くからなので確信はできないが、誰なのか少しでも絞りたかった。
確かなのはクラスの誰か、ということ。
ルーズリーフの存在。
それは誰の仕業なのか、誰であれ、尾崎にとっていいことなのか、悪いことなのか。そして冒頭のトランプ。それが尾崎の“力”にも大きく関わっていくことになります。今後もよろしくお願いします。




