第8話
第二章 なくした鍵と、言えなかったこと
「あっ」
三芳さんが小さく声を漏らした。
俺も足を止める。
廊下の角から、担任がこちらへ歩いてくる。
「大波、そこにいたのか。ちょうどよかった」
「……はい」
先生の視線が、俺の手に移る。
「そのファイル、第二資料室に持っていくやつだろ?」
「そうです」
「じゃあ、三芳も一緒に――」
「先生」
俺は言葉を遮った。
「俺が今、三芳さんに資料室の鍵を開けてもらおうとしてたところです」
三芳さんがこちらを見る。
「え?」
「……そういうことにしておいてください」
小声で言う。
三芳さんは一瞬ぽかんとした。
「でも、鍵……」
「探してるんだろ?」
「うん」
「なら、俺も探してたことにすればいい」
「でも、それだと大波くんが――」
「先生」
俺は振り返った。
「鍵、俺が預かってました」
「……え?」
三芳さんの声が聞こえた。
先生も驚いた顔をする。
「大波が?」
「はい。昨日、資料室からファイルを借りたときに一緒に持ってきたんだと思います」
「じゃあ、今持ってるのか?」
「それが……」
俺はわざと困った顔を作った。
「どこに置いたか分からなくなりました」
三芳さんが目を見開く。
先生は深いため息をついた。
「お前なぁ……」
「すみません」
「まあ、今日中に見つければいい。職員室にも予備はあるから」
「はい」
先生はそう言って、廊下の先へ歩いていった。
姿が見えなくなったところで。
「……なんで?」
三芳さんが俺を見る。
「何が?」
「なんで嘘ついたの?」
「嘘じゃない」
「嘘でしょ」
「細かいことは気にしない」
「いや、気にするよ」
三芳さんは困ったように眉を下げた。
「私がなくしたのに」
「だから?」
「大波くんには関係ない」
「同じ学校の生徒だろ」
「それだけ?」
「それだけ」
俺はファイルを抱え直す。
「それに、先生に怒られるくらいなら俺が怒られた方が早い」
「……変なの」
「よく言われる」
「自覚あるんだ」
「ある」
少しだけ、三芳さんが笑った。
けれど。
その笑顔は、すぐに消えた。
「でも……」
「何?」
「本当に、私が鍵をなくしたことだけならよかったんだけど」
「……どういう意味?」
三芳さんは答えなかった。
◆
昼休みが終わる頃。
教室に戻ると、照平が俺の机に座っていた。
「遅かったな」
「そこ俺の席」
「知ってる」
「どけ」
「はいはい」
照平が立ち上がる。
その横で、咲が俺を見る。
「ハル、先生に呼ばれてた?」
「第二資料室の鍵をなくした人がいて」
「誰?」
「三芳さん」
「……ああ」
咲の目が少し変わった。
「三芳さんって、あの三芳?」
「知ってるのか?」
「名前だけ。図書委員の子が、ちょっと困ってるって言ってた」
「何を?」
「それは知らない」
照平が口を挟む。
「で、ハルはまた首突っ込んだわけ?」
「突っ込んでない」
「じゃあ、なんで昼休みにいなかったんだ?」
「資料室の整理」
「先生に頼まれた?」
「……」
照平が笑う。
「お前、絶対なんかやってるだろ」
「うるさい」
咲も呆れたように笑った。
「ハルってさ」
「何」
「困ってる人を見つける才能でもあるの?」
「そんな才能いらない」
「じゃあ、困ってる人がハルを見つけるのかもね」
「もっといらない」
そのとき。
教室の入口から声がした。
「大波くん」
見ると、美月先輩だった。
「またですか」
「また、ではありません」
美月先輩は苦笑する。
「先日の資料について、少し確認したいことがあって」
「今ですか?」
「はい」
その後ろには凪もいた。
「こんにちは、大波先輩」
「凪まで」
「お姉ちゃんが一人で来ると、また全部自分で決めそうなので」
「凪」
「冗談」
姉妹のやり取りに、咲が小さく笑う。
「仲直りしたんだね」
美月先輩は頷いた。
「はい。まだ完全に解決したわけではありませんけど」
「それでも十分ですよ」
俺がそう言うと、美月先輩は少しだけ嬉しそうに笑った。
その瞬間だった。
廊下から、慌ただしい足音が聞こえてきた。
「三芳さん!」
別の女子生徒だった。
教室の前で立ち止まり、息を切らしている。
「文化祭実行委員の人たちが探してる」
三芳さんの名前が出た瞬間。
俺は嫌な予感がした。
「何を?」
「第二資料室の鍵」
教室の空気が止まる。
「それと……」
女子生徒が続ける。
「文化祭の展示に使う資料が、何枚かなくなってる」
三芳さんの顔から、表情が消えた。
「……なくなった?」
「うん。昨日、三芳さんが資料室から持ってきたはずの資料」
視線が、三芳さんに集まる。
誰も何も言わない。
でも、その沈黙だけで十分だった。
疑われている。
「私……」
三芳さんが口を開く。
「違う」
小さな声だった。
「私、持ってきてない」
「でも、最後に資料室を使ったのは三芳さんなんでしょ?」
「……」
「それに鍵も――」
「待って」
俺が口を挟んだ。
「まだ何も決まってないだろ」
女子生徒が俺を見る。
「でも……」
「資料がないなら探せばいい」
「鍵もないよ」
「だから探す」
「大波くん」
三芳さんが俺を見る。
「もういいよ」
「何が?」
「私が悪いってことでいい」
「よくない」
即答だった。
三芳さんが黙る。
「俺は、そういうの嫌いだから」
「でも……」
「学校って、狭いんだよ」
俺は教室を見回した。
同じ教室。
同じ廊下。
同じクラス。
噂なんて、数時間もあれば広がる。
一度「犯人かもしれない」と思われれば、本人が何を言っても、その視線は簡単には消えない。
だからこそ。
「一回疑われたら、それだけで終わる」
俺は言った。
「だから、今日中に全部探す」
照平が俺を見る。
「ハル」
「何」
「お前、まさか」
「放課後、予定ある奴は帰っていい」
「いや、そうじゃなくて」
照平はため息をついた。
「また自分一人でやるつもりだろ」
「……」
図星だった。
咲が口を開く。
「ハル」
「何」
「手伝うよ」
「必要ない」
「必要あるよ」
即答だった。
「三芳さんが悪いって決まってないなら、ちゃんと探さないと」
凪も頷く。
「私も手伝います」
「凪は帰れ」
「嫌です」
「即答かよ」
美月先輩も静かに言った。
「私も手伝います」
「先輩まで……」
「昨日、大波くんに助けてもらったので」
「それは関係――」
「あります」
美月先輩は珍しく、俺の言葉を遮った。
「助けてもらった人が、今度は誰かを助ける側になってもいいでしょう?」
俺は何も言えなかった。
そして。
横にいた三芳さんが、小さく笑った。
「……ずるいなぁ」
「何が?」
「大波くん」
彼女は少しだけ顔を伏せた。
「私が一人で困ってたら、勝手に入ってくるんだ」
「別に」
「そういうところ」
三芳さんは初めて、少しだけ真面目な顔をした。
「嫌いじゃない」
「……」
俺は視線を逸らした。
「それより、探すぞ」
照平が笑う。
「はいはい。問題解決屋さん」
「だからその呼び方やめろ」
「じゃあ――」
照平が教室を見回す。
「みんなでやる、問題解決だな」
「……」
俺は少しだけ考えて。
「それならいい」
そう答えた。
このときの俺はまだ知らなかった。
なくなった鍵。
消えた文化祭資料。
そして三芳さんが抱えていた「言えなかったこと」。
それらが一つにつながっていることを。
そして何より。
この事件を解決するために俺が取ることになる行動が――
また、自分一人で責任を背負うためのものになることを。
学校という狭い世界の中で。
誰かを守るために、誰かが悪者になる。
その役を。
俺が引き受けることになるとは、このときはまだ思っていなかった。




