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俺は善人なんかじゃない  作者: エクレアだった物
第一章 春の日、面倒事は向こうからやってくる

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第6話

一応確認しながら矛盾ないよう作っているのですがコレよく考えたら海老名家の親、妹帰ってきてないのになにしとんねんって感じですよね今回は放任主義ってことでご容赦おば。

「……凪」


 美月先輩が妹の名前を呼ぶ。


 その声には、いつもの落ち着きがなかった。わずかに震え、縋るように凪へ伸びている。


 凪は答えない。


 唇を固く結び、視線を地面に落としたまま、両手を強く握っている。


 駅前を行き交う人の声だけが、妙に大きく聞こえた。


 美月先輩は一歩近づきかけて、けれど途中で足を止めた。凪との間に残った距離が、まるで見えない壁のようだった。


「帰ろう」


「……嫌」


 凪が初めて、はっきりと言った。


 その一言に、美月先輩の表情が固まる。目がわずかに見開かれ、伸ばしかけていた手が宙で止まった。


「凪」


「帰りたくない」


 凪は顔を上げた。目の奥には、怒りと悲しみが入り混じっている。


「心配したんだよ」


「分かってる」


「だったら――」


「分かってるから嫌なの!」


 凪の声が駅前に響いた。


 何人かがこちらを見る。


 美月先輩は一瞬だけ怯んだ。肩が小さく跳ね、視線が周囲へ逃げる。


 けれど、逃げなかった。


 ゆっくりと息を吸い、凪をまっすぐ見つめ直す。


「……ごめん」


 凪が俯く。怒鳴ったことを後悔するように、眉間に皺が寄った。


「怒鳴りたいわけじゃない」


「うん」


 美月先輩は小さく頷いた。責めることも、言い返すこともしない。


「でも……」


 凪の指先が震える。


 目に浮かんだ涙を隠そうと、何度も瞬きをした。


「お姉ちゃんは、私が何を言っても『危ない』『やめた方がいい』『もっと近い学校にしなさい』って……」


「だって、武蔵浦霞は遠いし、私立でお金もかかるから」


 美月先輩の声が少し早くなる。自分を守るように、理由を並べてしまう。


「それは分かってる!」


「じゃあ――」


「分かってるけど!」


 凪が涙を拭った。乱暴な仕草のせいで、頬が赤くなる。


「私がどうしたいかも聞いてよ!」


「……」


 美月先輩が黙る。


 何か言おうとして、唇を開きかける。けれど、言葉は出てこなかった。


 凪はその沈黙を見つめたまま、震える声で続ける。


「写真をやりたいって言ったときも、趣味ならいいって言ったじゃん」


「……」


「でも、本気でやりたいって言ったら反対した」


「それは……」


「お姉ちゃんは、私が失敗するのが怖いんでしょ?」


 美月先輩の顔が強張る。


 視線が揺れ、握った拳に力がこもった。


「……そうだよ」


 意外だった。


 否定すると思っていた。


 でも、美月先輩は否定しなかった。


「怖い」


 静かな声だった。


 さっきまでの張りつめた表情が崩れ、眉が下がる。強く見せようとしていたものが、少しずつ剥がれていく。


「凪が苦労するのが怖い」


「……」


「お金のことで困って、やりたいことを諦めるのが怖い」


 美月先輩は拳を握ったまま、視線を落とした。爪が掌に食い込むほど、力を込めている。


「私みたいになってほしくないの」


「……」


「だから……」


 声が震える。


 一度、言葉が途切れた。美月先輩は唇を噛み、何かを飲み込むように息を吐いた。


「安全な道を選んでほしかった」


 凪が黙った。


 怒りをぶつけていた目から、少しずつ力が抜けていく。


「近い学校なら通学費も安い。公立なら家にも負担をかけない。大学に行くとしても、その方が選択肢を残せる」


「でも、それって……」


 凪が小さく言った。


 声には、まだ拭いきれない不安が残っている。


「私のため?」


「……」


「それとも、お姉ちゃんが安心するため?」


 美月先輩が息を止めた。


 肩がわずかに揺れる。


 答えが出てこない。


 俺は口を挟まなかった。


 ここで俺が答えを言ってしまえば、また同じことになる。


 だから待つ。


 美月先輩自身が答えるまで。


 長い沈黙の中で、駅のアナウンスが遠くに響いた。


「……両方」


 やがて、美月先輩が言った。


 凪の目を見たまま、逃げずに続ける。


「凪のためでもある。でも……私が安心したかったんだと思う」


 凪の目が見開かれる。


 驚きのあとに、戸惑いが浮かんだ。


「私、お姉ちゃんだから」


「……」


「凪より先に生まれたから。私の方が色々知ってるから。私が失敗したことなら、凪には同じ失敗をさせなくて済むと思ってた」


「お姉ちゃん……」


「でも、それって……」


 美月先輩は俯いた。


 肩が小さく丸まり、さっきまでの「姉」としての姿が消えていく。


「凪からしたら、ただの押しつけだよね」


 凪は何も言わなかった。


 しばらく美月先輩を見つめたあと、ゆっくりと一歩だけ近づく。


「……私も、ごめん」


「凪?」


 美月先輩が顔を上げる。


「お姉ちゃんが心配してくれてるのは分かってた」


 凪の声は、さっきより穏やかだった。


 涙の跡が残る頬を、今度は隠そうとせずにそのままにしている。


「でも、そう言ったら、また何も言えなくなる気がして……」


「……」


「だから、逃げた」


 美月先輩は小さく頷いた。


「家にも帰らなかった」


 返事はなかった。伏せた目に、安堵と悔しさが滲んでいる。


「心配させた」


「それは、本当にごめんなさい」


「私も、ごめん」


 二人の間に、静かな沈黙が落ちた。


 けれど、さっきまでの沈黙とは違っていた。


 拒絶するための間ではなく、互いの言葉を受け止めるための間だった。


 美月先輩がそっと手を開く。


 凪も一瞬だけ迷ったあと、その手に触れた。


 握るほどではない。ただ、指先が触れ合うだけの小さな接触だった。


 それでも、美月先輩の表情がわずかに緩んだ。


 けれど、問題はまだ残っている。


 俺は二人の様子を見ながら、口を開いた。


「一ついいですか?」


 二人がこちらを見る。


「武蔵浦霞大学に行くかどうか、今ここで決める必要はないと思います」


「……え?」


「入試までまだ時間がありますよね」


「はい」


「だったら、まず条件を全部確認しましょう」


 俺は指を一本立てた。


「学費」


 二本目。


「特待制度」


 三本目。


「通学費」


 四本目。


「写真サークルの活動内容」


 五本目。


「卒業後の進路」


 凪が黙って聞いている。


「それを全部調べてから、もう一度話せばいい」


「……」


「今は、凪は『行きたい』と言っている」


 凪を見る。


「先輩は『行かせたくない』と言っている」


 美月先輩を見る。


「でも二人とも、理由を全部知らないまま話している」


「……確かに」


 美月先輩が呟いた。


 その声には、先ほどまでの硬さがなかった。


「だから」


 俺は二人を見る。


「どっちが正しいかを決めるんじゃなくて、判断するための材料を揃えましょう」


「大波くん」


「はい」


「……それなら、私も賛成です」


 凪も頷いた。


「私も」


 少しだけ空気が軽くなる。


 美月先輩の指が、凪の手をそっと握り返した。


「じゃあ、帰りましょう」


「はい」


 三人で駅へ向かう。


 しばらく歩いたところで、美月先輩が俺の横に並んだ。


「大波くん」


「はい?」


「……ありがとうございます」


「だから、まだ早いですって」


「いえ」


 美月先輩は前を向いたまま言った。


「妹の話を、ちゃんと聞けたのは大波くんのおかげです」


「俺は何もしてません」


「しましたよ」


「……そうですか?」


「はい」


 美月先輩は少し笑った。


「少なくとも、私一人だったら……また『お姉ちゃんだから』って、凪のために答えを決めていたと思います」


「……」


「だから、ありがとうございます」


 俺は返事をしなかった。


 ただ、少しだけ歩く速度を落とした。


 後ろでは凪が、俺たちの会話を聞きながら小さく笑っている。


 その日の帰り道。


 姉妹の問題は、まだ解決していなかった。


 けれど――


 少なくとも二人は初めて、


 相手の答えではなく、相手の気持ちを聞こうとしていた。


 それだけでも、最初の一歩としては十分だった。


     *


 翌朝。


 俺が教室に入ると、席に着くより先に照平が近づいてきた。


「おい、ハル」


「何」


「昨日、海老名先輩と一緒に駅にいたって?」


「……誰から聞いた?」


「世間」


「世間怖いな」


「で?」


 照平がニヤッと笑う。


「何があった?」


「妹さんが見つかった」


「それだけ?」


「それだけ」


「嘘つけ」


「何でだよ」


「お前が『それだけ』で済ませる顔してない」


「……」


 こいつは、本当に余計なところだけ鋭い。


「まあいいや」


 照平が俺の肩を叩く。


「今日も頑張れよ、問題解決屋」


「その呼び方やめろ」


「じゃあ、人助け大好きマン」


「もっと嫌だ」


 俺はため息をついた。


 そのとき。


 教室の後ろの扉が開いた。


「大波くん」


 美月先輩だった。


 教室中の視線が一斉にこちらへ集まる。


「……」


 嫌な予感しかしない。


 美月先輩は俺の前まで来ると、丁寧に頭を下げた。


「昨日の件で、少し相談したいことがあります」


「……何ですか?」


「武蔵浦霞大学について、一緒に調べてもらえませんか?」


 俺は黙った。


 そして隣を見る。


 照平が、ものすごく楽しそうな顔をしていた。


「ハル」


「何」


「……面白くなってきたな」


「お前は黙ってろ」

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