第5話
少女はしばらく黙っていた。
やがて、意を決したように顔を上げる。
「……ちゃんと名乗ってませんでしたね」
「そういえば」
「私、**海老名凪**っていいます」
「凪……」
「はい」
凪は少し恥ずかしそうに笑った。
「お姉ちゃんから、名前くらい聞いてます?」
「いや」
「……そうですか」
「先輩、妹さんの名前すら教えてくれなかったので」
「お姉ちゃんらしいです」
「そこは否定しないんだな」
凪は小さく笑った。
張り詰めていた空気が、ほんの少し緩む。
「凪さんは、どうして武蔵浦霞大学に行きたいんだ?」
「……あの」
凪が、少しだけ困ったように眉を下げた。
「凪さん、じゃなくて……凪でいいです」
「え?」
「私のこと、呼び捨てで」
凪は照れたように視線を逸らした。
「お姉ちゃんの友達に『凪さん』って呼ばれるの、なんだか変な感じがするので」
「でも、初対面だしな」
「もう、名前も話も知ってもらいましたから」
「そういう問題か?」
「そういう問題です」
凪は少しだけ笑った。
「それに、大波先輩にまで丁寧に呼ばれると、距離があるみたいで嫌です」
「……分かった」
「本当ですか?」
「ああ。凪でいいんだな」
「はい」
「じゃあ、凪」
「……はい」
呼び捨てにすると、凪は満足そうに頷いた。
「これで大丈夫です」
「こだわるんだな」
「大事なことなので」
凪はそう言ってから、改めて俺を見る。
「それで、写真です」
「写真?」
「写真サークルに入りたいんです」
凪はスマートフォンを取り出した。
画面には、一枚の写真が表示されていた。
夕暮れの河川敷。
オレンジ色の空と、川面に反射する光。
その中央を、自転車に乗った人影が横切っている。
「これ、凪が撮った?」
「はい」
「結構いいな」
「本当ですか?」
「嘘をつく理由がない」
「……ありがとうございます」
凪は嬉しそうに画面を見つめた。
「武蔵浦霞大学の写真サークル、県大会で何度も入賞してるんです。設備もちゃんとしていて、外部の写真家さんを呼んだ講習会もある」
「だから、ここに行きたいんだな」
「はい」
凪の声には、今までとは違う強さがあった。
「将来、写真家になりたい?」
「そこまでは決めてません」
「まだ分からない?」
「はい」
「それでいいと思う」
「え?」
「高校生なんだから、将来の職業まで決まってなくても普通だろ」
凪が目を丸くする。
「お姉ちゃんは、『将来何になるか分からないのに、わざわざ遠い学校へ行く必要があるの?』って言います」
「まあ、それも分からなくはない」
凪は俯いた。
「……もう一つ、理由があります」
「お金?」
凪が顔を上げる。
「はい」
その一言で、表情が変わった。
「武蔵浦霞大学、私立なんです。学費も高いし、家からも遠い。電車を乗り継がないといけないから、定期代もかかります」
「だから先輩は反対してる」
「はい」
凪は膝の上で手を握った。
「お姉ちゃんは、『そこまでして行くほどの学校なの?』って」
「……」
「私だって、家にお金がたくさんあるわけじゃないのは分かってます。だから、奨学金とか学校独自の特待制度とか、調べました」
「ちゃんと調べたんだな」
「はい」
凪はスマートフォンの画面を操作する。
「成績が一定以上なら授業料の一部が免除されます。私、今の成績なら条件に届く可能性があります」
「まだ一年生だから、これから次第か」
「はい」
「先輩は、その制度を知ってる?」
「……知りません」
「話す前に反対された?」
「はい。『そこは駄目』って言われました」
「理由を聞く前に?」
「……」
「それは、きついな」
「でも、お姉ちゃんが悪いわけじゃないんです」
「どうして?」
「お姉ちゃん、自分が高校生のときに……」
凪が言葉を止める。
「何かあった?」
「はい」
しばらく迷ってから、凪はゆっくり話した。
「お姉ちゃんも、本当は行きたい高校があったんです」
「今の高校じゃない?」
「はい。家から遠い私立高校で、今の学校より設備が良くて、お姉ちゃんがやりたかったことを専門的に勉強できる学校だったみたいです」
「でも、行かなかった」
「……お父さんが仕事で大変だった時期があって」
凪は目を伏せた。
「だから、お姉ちゃんは自分から諦めました。『私立なんて無理だから』って」
俺は何も言わなかった。
それはたぶん、美月先輩自身が誰にも言わなかった話なのだろう。
「だから、お姉ちゃんは私が同じような道を選ぼうとしているのを見ると、すごく心配するんです」
「自分と同じように諦めさせたくない?」
「違います」
凪は首を振った。
「たぶん、逆です」
「逆?」
「お姉ちゃんは、私に自分と同じ思いをしてほしくないんです」
「……」
「だから、失敗しないようにしてくれる」
凪の声が震えた。
「でも私は……」
一度、言葉を飲み込む。
「お姉ちゃんが私のためにしてくれてるって分かってるからこそ、嫌なんです」
「嫌?」
「お姉ちゃんに人生を決めてもらうのが」
静かな声だった。
「お姉ちゃんが苦労したから、私も苦労しない方がいい。お姉ちゃんが諦めたから、私も諦めた方がいい。お姉ちゃんが安全だと思う道を選べば、私は失敗しない」
凪は顔を上げた。
「でも、それじゃ私が何をしたいのか、関係ないじゃないですか」
「……そうだな」
俺は頷いた。
「ただ、先輩の気持ちも分かる」
「……」
「凪が武蔵浦霞大学に行って、もし金銭的に苦しくなったら。特待が取れなかったら。写真を続けられなくなったら」
凪は黙って聞いている。
「先輩はたぶん、自分を責める。『私が止めればよかった』って」
凪は何も返さなかった。
図星なのだろう。
俺は立ち上がった。
「帰ろう」
「え?」
「先輩と話す」
「でも……」
「逃げたままじゃ、何も変わらない」
「……怖いです」
「分かる」
「お姉ちゃん、怒ると思います」
「たぶん怒る」
「……」
「でも、怒られることと、話し合えないことは別だ」
凪はしばらく俺を見ていた。
そして、小さく頷いた。
「……はい」
俺たちは駅へ向かって歩き始めた。
しばらくして、凪がぽつりと言う。
「大波先輩」
「何?」
「どうして、そこまでしてくれるんですか?」
「未解決の問題が嫌いなんだよ」
「……本当に?」
「本当」
「じゃあ、私たちが仲直りしたら?」
「俺は用済み」
「冷たいですね」
「合理的だろ」
凪が笑う。
「……ありがとうございます」
「まだ礼を言うのは早い」
「でも」
「ん?」
「私、少しだけ勇気が出ました」
「……そう」
俺は前を向いた。
そのときだった。
駅前のロータリーに、見覚えのある姿があった。
「……え?」
凪が立ち止まる。
俺も足を止めた。
そこにいたのは――
美月先輩だった。
「……大波くん」
息を切らしながら、先輩がこちらを見ている。
「どうして……」
「先輩?」
「ごめんなさい」
美月先輩は苦しそうに笑った。
「やっぱり、待っていられませんでした」
そして。
凪の姿を見た瞬間。
「……凪」
「お姉ちゃん……」
二人の間に、重たい沈黙が落ちた。
俺は一歩下がった。
ここから先は、俺が勝手に答えを出してはいけない。
姉と妹。
それぞれが、自分の言葉で話す時間だ。
ただ――
「大波くん」
「はい」
美月先輩が俺を見る。
「……私、ちゃんと聞きます」
その声は震えていた。
「今度は、最後まで」
俺は小さく頷いた。
「それなら、俺から言うことはありません」
夕暮れの駅前で、三人の影が長く伸びていた。




