第4話
俺は駅の階段を下りながら、スマートフォンの画面をもう一度確認した。夕方の駅は帰宅する人々で混み合い、階段を上り下りする靴音と、遠くで鳴る発車ベルが重なっている。
『お姉ちゃんには言わないでください』
『大波先輩なら、話を聞いてくれると思いました』
やっぱり、意味が分からない。
俺はこの子とまともに話したことがない。少なくとも、記憶にはなかった。
「……大波くん」
背後から美月先輩の声がした。振り返ると、夕暮れの光が差し込む階段の踊り場で、先輩が不安そうにこちらを見ている。
「はい」
「一人で行くって、本気ですか?」
「はい」
「妹は、私には言えないことがあるんですよね?」
「たぶん」
「だったら、私も行きます」
「駄目です」
「即答……」
「妹さんが『先輩には言わないで』と言っている以上、先輩が来たら話してくれないかもしれません」
「でも……」
「心配なのは分かります」
俺は足を止めた。改札の向こうでは電車が滑り込む音が響き、ホームから流れてくる風が少し冷たい。
「だからこそ、今は妹さんが話せる状況を作るのが先です。俺が話を聞いて、危険があるならすぐ連絡します」
「本当に?」
「本当に」
美月先輩はしばらく黙り、やがて小さく頷いた。夕方の薄明かりの中で、その表情には姉としての心配が滲んでいる。けれど、頷く直前、握りしめたスマートフォンへ視線を落としたことを、俺は見逃さなかった。
「……分かりました」
「ありがとうございます」
「でも、一つだけ」
「何ですか?」
「絶対に無茶しないでください」
「しません」
「大波くんの『しません』って、なんだか信用できないんですが」
「失礼ですね」
「初対面なのに、もう分かってきました」
「それはそれで怖いです」
美月先輩が少しだけ笑った。張り詰めていた表情が、ほんの少し緩む。
「それじゃあ、妹さんをお願いします」
「任せてください」
俺はそう言って駅を出た。自動ドアが開くと、夕方の空気が頬を撫でる。駅前の街灯はまだ点き始めたばかりで、空には薄紫色の雲が残っていた。
目的地は――久喜羽駅。
妹さんが行きたいと言っていた高校は、そこから徒歩圏内にあるらしい。
電車に乗り、窓際の座席に腰を下ろす。車内には部活帰りの学生や、買い物袋を抱えた人がまばらに座っていた。発車の揺れに合わせて、吊り革が小さく揺れる。俺は改めてメッセージを見た。
返信するべきか少し迷ってから、短く打つ。
『今からそっちに行く』
送信すると、すぐに既読がついた。
『ありがとうございます』
たったそれだけだった。
俺はスマホをしまう。窓の外を流れていく住宅街には、夕食の支度を始めた家々の明かりがぽつぽつと灯っていた。
やっぱり変だ。
どうして、俺なんだ。
そもそも、この子はどうやって俺の番号を知った?
その疑問に触れた瞬間、胸の奥で、古い駅のホームと誰かの泣き声が一瞬だけ重なった。だが、思い出そうとすると、頭の奥に薄い膜がかかる。俺はそれ以上考えず、窓の外へ視線を戻した。
*
久喜羽駅に着いたのは、それから三十分ほど後だった。
ホームに降りると、昼間の熱が抜けたコンクリートの匂いと、電車が走り去ったあとの風が残っていた。駅前には、学校帰りらしい学生が何人かいる。制服姿の少女たちが笑いながら通り過ぎ、ロータリーではバスのライトが夕闇を照らしていた。
俺は写真を開き、妹さんの姿を探した。
だが、それらしい人物はいない。
『どこにいる?』
メッセージを送ると、すぐに既読がついた。しかし、返信は来ない。
「……面倒だな」
独り言が漏れた、そのとき。
「大波……先輩?」
背後から声がした。
振り返ると、写真で見た少女が立っていた。肩より少し長い黒髪が夕方の風に揺れ、学校の制服の袖口から細い手首が覗いている。右手の甲には、小さな傷があった。
「……妹さん?」
「はい」
少女は緊張した様子で頷いた。握りしめたスマートフォンの角が白くなるほど、指に力が入っている。
「海老名先輩の妹さんで間違いない?」
「はい。海老名――」
少女が名乗ろうとした瞬間、俺は妙な既視感を覚えた。
「……?」
どこかで見たことがある。でも、思い出せない。
「大波先輩?」
「いや……」
俺は少女の右手と顔を見比べた。
「俺たち、前に会ったことない?」
「……」
少女が目を逸らす。駅前の時計が時刻を告げ、遠くで電車の発車ベルが短く鳴った。
「あります」
「やっぱり?」
「覚えてないんですね」
「ごめん」
素直に謝ると、少女は少しだけ笑った。
「駅です」
「駅?」
「半年くらい前です」
少女は話し始めた。
「私、駅で学生証を落としたことがあって。そのとき拾ってくれたのが、大波先輩でした」
記憶が少しずつ繋がる。
半年くらい前。駅の階段付近。泣きそうな顔をした女子生徒。俺が拾った学生証。
そのとき、彼女の手を見て、なぜか自分の古い傷を隠したことまで思い出しかけた。だが、理由だけが抜け落ちている。
「……ああ」
ようやく思い出した。
「『ありがとうございます』って、三回くらい頭を下げてた子?」
「はい」
「それ、お前だったのか」
「そうです」
「……世間狭いな」
少女が苦笑する。風に揺れた髪が頬にかかり、彼女は慌てて耳にかけた。
「そのあと、照平先輩から大波先輩の連絡先を教えてもらいました」
「照平から?」
「はい。以前、照平先輩に相談したことがあって、そのときに大波先輩のことを聞きました。連絡してもいいと言ってくれたので、番号を教えてもらいました」
少女はスマートフォンを取り出し、登録された連絡先を見せた。画面の青白い光が、夕暮れの中で彼女の指先を照らしている。
「でも、急に連絡したら迷惑だと思って、ずっと迷っていました」
「それで、今回連絡してきた」
「はい。お姉ちゃんに進路のことを話したら、また反対されて……誰かに相談したかったんです」
少女は画面を伏せた。
「先輩は、学生証を拾ってくれたとき、私の話を急かさずに聞いてくれました。お姉ちゃんみたいに、私のために先に答えを決めるんじゃなくて、私がどうしたいのかを聞いてくれた」
「……」
「だから、先輩なら私の気持ちを否定せずに聞いてくれると思いました」
俺は黙った。駅の屋根を叩くように、どこかで自転車のベルが鳴った。
「お姉ちゃんには、言えないんです」
「進路のこと?」
「……はい」
少女は駅前のベンチに座り、俺も少し離れて腰を下ろした。ベンチは夕方の冷気を吸っていて、制服越しにもひんやりとしている。
「お姉ちゃんは、私のことを心配してくれてます」
「うん」
「でも……私が何をしたいかより、失敗しないことを優先してる」
「……」
「私は、失敗しても自分で決めたいんです」
少女は膝の上で両手を握った。指先が小さく震えている。
その言葉を聞いて、俺は美月先輩の顔を思い出した。
妹を守りたい姉。姉に認めてほしい妹。
どちらも間違っていない。だからこそ、ぶつかる。
「行きたい学校って、武蔵浦霞大学?」
「はい」
「ここを受けたい?」
「……はい」
「もう決めた?」
「決めたいです」
少女は拳を握った。夕闇の中、その小さな拳だけが妙に強く見えた。
「でも、お姉ちゃんに言ったら絶対に反対される」
「だから家に帰らなかった?」
「……はい」
「それで、俺を呼んだ」
「はい」
俺は頭を掻いた。駅前を通り過ぎる人々の足音が、途切れてはまた近づいてくる。
「一つ聞いていい?」
「はい」
「俺に何をしてほしい?」
少女は黙った。しばらくして、ようやく口を開く。
「……お姉ちゃんに、私の気持ちを伝えてほしいです」
「それだけ?」
「はい」
「自分で言えばいいだろ」
「怖いんです」
「何が?」
「また、お姉ちゃんを怒らせるのが」
その言葉に、俺は何も言えなかった。少女は俯いたまま、靴先で地面の小石をそっと蹴った。
姉も妹も、お互いを傷つけたくない。だから言葉が足りなくなる。
その沈黙の形を、俺はどこかで知っている気がした。誰かに何かを言えないまま、相手が先に諦めていったような、そんな遠い感覚だった。
「……分かった」
「本当ですか?」
「ただし、一つ条件がある」
「条件?」
「俺は、お前の代わりに人生を決めない。お姉さんの代わりにも決めない」
少女を見る。
「俺がするのは、二人がちゃんと話せるようにすることだけ」
少女はしばらく黙っていた。やがて、小さく頷く。
「……はい」
その瞬間、俺のスマートフォンが震えた。
美月先輩からだった。
『妹は見つかりましたか?』
俺は画面を見つめる。駅前の明かりが一つ、また一つと灯り始めていた。
嘘はつきたくない。でも、約束もある。
『見つかりました』
そこまで打って、指が止まった。
続けて、
『今、本人と話しています』
送信。
数秒後に返事が来た。
『分かりました』
それだけだった。
だが、その直後。
『大波くん』
『妹をお願いします』
俺はそのメッセージを見て、少しだけ笑った。
「……姉妹そろって人使いが荒いな」
「え?」
「いや、こっちの話」
少女が初めて笑った。さっきまで強張っていた頬が緩み、その笑顔は夕闇の中でひどく幼く見えた。
けれど俺はまだ知らなかった。
この小さな姉妹喧嘩が――
俺自身の過去まで掘り起こすことになるなんて。
そして。
美月先輩が俺を見る目が、少しずつ変わっていくことも.




