第52話 第五章完
「ハルちゃん! こっちこっち!」
「おー、今行くよ、小春ちゃん」
休日の午後。
一陽が玲奈の家を訪れると、小春は待ちきれなかったとばかりに玄関まで駆けてきた。
「今日はね、おえかきするの! ハルちゃんもいっしょ!」
「いいね。何を描くんだ?」
「ひみつ!」
「秘密なのか……」
「できてからのおたのしみ!」
小春は得意げに笑い、一陽の手を引いてリビングへ連れていった。
その後ろで、玲奈が呆れたようにため息をつく。
「……悪いな、パイセン。こいつ、朝からずっと楽しみにしてたんだよ」
「いや、俺も楽しみにしてたよ」
「……そっか」
何気ない返事だった。
それなのに、玲奈はなぜか嬉しくなってしまい、慌てて台所へ向かった。
「と、とりあえず座ってろ! 飲み物持ってくるから!」
「ありがとう」
「礼はいらねえ!」
一陽と玲奈のやりとりに、小春がけらけらと笑った。
*
「じゃーん!」
しばらくして、小春が一枚の画用紙を掲げた。
そこには三人の人間が描かれていた。
金色の髪の大きな女の子。隣には小さな女の子。そして、その反対側には黒い髪の男の子。
三人の手は、それぞれつながれている。
「これ、あたしとおねえちゃんとハルちゃん!」
「おお、上手だな。俺、こんなに格好よく描いてもらっていいのか?」
「うん! ハルちゃん、かっこいいもん!」
「……っ」
玲奈が飲みかけていたお茶をむせた。
「げほっ、げほっ!」
「おねえちゃん、だいじょうぶ?」
「だ、大丈夫だよ!」
「玲奈、無理するなよ」
「誰のせいだと思ってんだ、誰の!」
「え、俺?」
「パイセンは黙ってろ!」
いつもの調子で怒鳴ってから、玲奈は自分の顔が熱くなっていることに気づいた。
小春は不思議そうに首を傾げたが、すぐに画用紙へ視線を戻した。
「ねえねえ、ハルちゃん。また来てくれる?」
「もちろん。また遊ぼうな」
「やったあ!」
小春は飛び跳ねて喜んだ。
その姿を見て、一陽は自然と笑顔になる。
玲奈は、その横顔をじっと見ていた。
この人は、誰に対してもこうなのだろうか。
小春の話を面倒がらずに聞いて、くだらない冗談にも付き合って、何かできれば素直に褒めてくれる。
相手が子供だから特別なのかもしれない。
けれど、学校でもそうだ。
噂だけで人を判断せず、困っている相手がいれば手を差し伸べる。自分が損をすると分かっていても、簡単には見捨てない。
――だから、あんな目に遭ったんだろ。
玲奈の胸に、倉庫での光景がよみがえった。
傷ついた一陽の姿。
自分を見たときの、安心したような顔。
思い出すだけで、胸の奥が苦しくなった。
「……玲奈?」
一陽がこちらを見ていた。
「どうした? 具合でも悪いのか?」
「……何でもねえよ」
「そうか?」
「そうだって」
玲奈は立ち上がった。
「……ちょっと、外の空気吸ってくる」
*
庭先に出ると、秋の風が頬を撫でた。
玲奈は家の壁に背を預け、空を見上げた。
自分は昔から、強い人間だと思われてきた。
実際、喧嘩は強かった。誰かに絡まれても、簡単には引かなかった。
周囲から怖がられることもあったが、それで構わなかった。
怖がられていれば、余計な人間が近づいてこない。
面倒なことに巻き込まれずに済む。
そう思っていた。
けれど、本当は違ったのかもしれない。
誰にも踏み込まれたくなかった。
自分の弱いところを知られるのが、怖かったのだ。
「……隣、いいか?」
振り返ると、一陽が立っていた。
「……小春は?」
「絵の続きを描いてる。今度は俺に帽子をかぶせるらしい」
「何だそれ……」
玲奈は思わず笑った。
一陽は少し離れたところに腰を下ろした。
無理に隣へ詰めてこない。何かを聞き出そうともしない。
ただ、そこにいてくれる。
その距離感が、玲奈にはありがたかった。
「……パイセンってさ」
「うん?」
「最初あたしのこと、あんまり怖がらなかったよな」
「そうかな?」
「そうだよ。あたしの噂、聞いてたんだろ。十人相手に喧嘩したとか、先生を病院送りにしたとか」
「聞いたよ」
「それでも、普通に話しかけてきたじゃん」
一陽は少し考えてから答えた。
「噂だけで玲奈のことを決めつけるのは、違うと思ったからな」
「……それだけ?」
「それだけ、っていうか。それが一番大事だろ」
玲奈は目を伏せた。
「……あたし、中学の頃、本当に荒れてたんだよ」
一陽は黙って耳を傾けた。
「喧嘩もしたし、先生に反抗したこともある。周りから見たら、ただの面倒な不良だったと思う」
「うん」
「……でも、あの頃は、家に帰るのが嫌だった」
言葉にすると、胸の奥にしまい込んでいたものが、少しずつ形になっていく気がした。
「母さんと父さん、ずっと仲が悪かったんだ。家の中はいつもピリピリしてて、ちょっとしたことで言い合いになって……。あたしと小春がいても、そんなの関係なかった」
玲奈は膝の上で手を握った。
「どうしたらいいか分かんなかった。母さんを助けたかったけど、子供のあたしにできることなんて、ほとんどなかった。父さんに腹が立つこともあったし、何も変えられない自分にも腹が立った」
「……そっか」
「家にいても落ち着かない。学校でも、何かを考えてると嫌なことばっかり頭に浮かぶ。だから、外で暴れてるときだけは、余計なことを考えなくて済んだんだよ」
玲奈は自嘲するように笑った。
「強くなれば、何でもどうにかできると思ってた。誰にも負けなければ、誰にも馬鹿にされなければ、自分のことくらい守れるってさ」
「……うん」
「でも、そんなことしても、家の問題は何も変わらなかった」
風が吹き、玲奈の金色の髪を揺らした。
「結局、母さんと父さんは離婚した。今は母さんと小春と三人で暮らしてる。母さんは仕事で忙しいし、あたしも家事とか小春の面倒を見てるけど……」
そこで玲奈は、初めて顔を上げた。
「今は、幸せだよ」
その表情には、無理に作った笑顔ではない、穏やかな明るさがあった。
「母さんは大変そうだけど、家に帰れば小春が笑ってる。三人でご飯食べて、くだらねえことで笑ってさ。昔みたいに、いつ何が起きるかって身構えなくてもいい」
玲奈は小さく息を吐いた。
「……あたし、今の生活を守りたいんだ。だから、昔の仲間とも離れたかった。嫌いになったわけじゃない。でも、あの頃に戻るんじゃなくて、今の自分として生きたかったんだよ」
一陽はしばらく黙っていた。
それから、静かに口を開いた。
「話してくれて、ありがとう」
「……別に。大した話じゃねえよ」
「そんなことないだろ」
一陽は玲奈をまっすぐ見た。
「家族のことも、昔のことも。簡単に話せることじゃないと思う」
「……」
「玲奈が荒れてた理由を、俺が全部分かったなんて言うつもりはないよ。でも、誰にも分かってもらえないまま、ずっと一人で抱えてたんだなってことは伝わった」
玲奈は唇を結んだ。
「……別に、分かってほしいなんて思ってなかったし」
「うん。そうかもしれない」
一陽は否定しなかった。
「ただ、今の玲奈が家族を大切にしてることも、自分の生活を守ろうとしてることも、俺はいいことだと思う。昔の玲奈を知ってる人が何を言っても、今の玲奈まで昔の噂で決めつける必要はないよ」
「……パイセン」
「それに、強くなきゃ誰かを守れないってこともないだろ。頼ったり、相談したりするのだって、自分を守る方法の一つだと思う」
玲奈は目を見開いた。
「……あんた、簡単に言うよな」
「簡単じゃないよ。俺だって、できてるわけじゃないし」
一陽は苦笑した。
「でも、玲奈が一人で全部背負う必要はないと思う。家族のことも、昔の仲間のことも。これから先、困ったことがあったら、俺にも話してくれればいい」
「……何で、そこまでしてくれるんだよ」
「玲奈が困ってるなら、力になりたいから」
あまりにも自然な答えだった。
見返りを求める様子も、格好をつける様子もない。
玲奈は、どう返せばいいのか分からなくなった。
「……ほんっと、ずるいよな。パイセンって」
「そうか?」
「本当にズルい。……いや、何でもねえ」
玲奈は顔を伏せた。
今、胸の中にあるものを言葉にしたら、何かが変わってしまう気がした。
だから、まだ言わない。
自分でも、何なのか分かっていないのだから。
*
「おねえちゃーん! ハルちゃーん!」
家の中から小春の声が聞こえた。
「できたよー!」
二人が戻ると、テーブルの上には新しい画用紙が置かれていた。
今度は三人の絵に加えて、小さな家と、大きな太陽が描かれている。
「これね、みんなでおでかけしてるところ!」
「おお、楽しそうだな」
「うん! ハルちゃんもいっしょなの!」
小春は一陽の手を握り、それから玲奈の手も取った。
「ねえ、今度は三人でおでかけしようね!」
「……そうだな。時間が合ったら、みんなで行こうか」
「やったあ!」
小春は満面の笑みを浮かべた。
「おねえちゃんも、ハルちゃんといっしょがいいでしょ?」
「……は?」
玲奈の動きが止まった。
「な、何でそうなるんだよ!」
「だって、おねえちゃん、ハルちゃんが来ると、いつも楽しそうだもん!」
「そ、それは……!」
玲奈は言葉に詰まった。
一陽は困ったように笑う。
「小春ちゃん、玲奈はいつも楽しそうだろ?」
「ううん。ハルちゃんがいると、もっと楽しそう!」
「こ、小春!」
玲奈は妹の口を塞ごうとしたが、小春はするりと逃げて一陽の後ろに隠れた。
「えへへー!」
「こら、待て!」
リビングに笑い声が広がった。
そのとき、仕事から帰ってきた母親が玄関から顔を出した。
「あら、楽しそうね。大波君、いらっしゃい」
「お邪魔してます」
「ふふ。玲奈がこんなに誰かを家に呼ぶなんて、珍しいわね」
「母さんまで何言ってんだよ!」
「何も言ってないわよ?」
母親は楽しそうに笑いながら、買い物袋を台所に置いた。
「そうだ。今度、みんなでどこかに出かけるのもいいわね。小春も喜ぶでしょうし」
「ほんと!? おでかけ!?」
「ええ。大波君も、都合が合えば一緒にどう?」
「俺でよければ、ぜひ」
「やったあ!」
小春は両手を上げて喜んだ。
玲奈は何か言おうとしたが、母親に意味ありげな視線を向けられ、口を閉じた。
――絶対、面白がってるだろ……。
そう思いながらも、玲奈は一陽の方をちらりと見た。
一陽は小春と一緒に、次はどこへ行こうかと楽しそうに話している。
その姿を見ていると、胸の奥が温かくなる。
この時間が、ずっと続けばいい。
母さんが笑っていて、小春が元気で、一陽がいつものように笑っていて。
そんな日々を、これからも大切にしたい。
そう思った。
*
帰り際。
玄関まで一陽を見送りに出た玲奈は、何度か口を開きかけては閉じていた。
「……玲奈?」
「……何でもねえ」
「今日、いろいろ話してくれてありがとうな」
「……うん」
「また何かあったら、いつでも話してくれよ」
一陽はいつも通りに笑った。
「俺にできることなら、力になるから」
玲奈は、その笑顔を見つめた。
今まで、自分は誰かを守る側でいたかった。
家族のために動いて、妹の面倒を見て、誰にも弱みを見せないようにしてきた。
でも、この人の前では、少しだけ肩の力を抜いてもいいのかもしれない。
自分の弱さを見せても、すぐに否定されるわけじゃない。
昔の自分を知られても、今の自分を見てくれる。
そんな相手がいることが、こんなにも嬉しいなんて知らなかった。
「……一陽パイセン」
「ん?」
「……また、来いよ」
言ってから、玲奈は慌てて付け足した。
「小春が会いたがってるからな! あたしが呼んでるわけじゃねえから!」
「分かってるよ」
一陽は笑った。
「小春ちゃんにも、玲奈にも、また会いに来るよ」
「……っ!」
玲奈は一瞬、何も言えなくなった。
それから、いつものように顔を背ける。
「……じゃあ、約束な」
「ああ。約束だ」
一陽が帰っていく。
その背中が見えなくなるまで、玲奈は玄関先に立っていた。
*
「……おねえちゃん」
家の中へ戻ると、小春が不思議そうに見上げてきた。
「ハルちゃん、帰っちゃったね」
「……ああ」
「さみしい?」
「はあ!? 何でだよ!」
玲奈は即座に否定した。
しかし、小春は気にせず、にこにこと笑っている。
「小春はね、またハルちゃんに会いたいな!」
「……そっか」
「おねえちゃんも?」
「……あたしは……」
言葉が出てこなかった。
会いたい。
また話したい。
一緒に笑いたい。
今日みたいに、自分のことを聞いてほしい。
そして、あの人が笑っているところを、もっと見ていたい。
その気持ちは、小春がハルちゃんを好きだと言うのとは、少し違う。
けれど、どう違うのかは分からない。
玲奈はそっと胸元に手を当てた。
「……何なんだよ、ほんと」
小さく呟くと、小春が首を傾げた。
「なあに?」
「何でもねえよ」
玲奈は妹の頭を撫でた。
「……ほら、明日の準備するぞ。」
「はーい!」
小春が元気よく返事をする。
その無邪気な声を聞きながら、玲奈は笑った。
今の生活が好きだ。
母さんと小春と過ごす毎日が、大切だ。
そして、その日常の中に、一陽がいてくれたらいいと思う。
それがただの憧れなのか、信頼なのか、それとも別の何かなのか。
まだ、分からない。
ただ一つだけ、はっきりしていることがあった。
もう、あの人が傷つく姿は見たくない。
もう、あの人が自分の前からいなくなることを、想像したくない。
「……一陽パイセン」
誰もいない玄関に向かって、玲奈は小さく名前を呼んだ。
そして、照れくさそうに笑う。
「……また、来いよな」
こうして、玲奈は過去と向き合い、今の幸せを確かめた。
まだ名前のついていない感情を胸に抱きながら。
彼女の新しい日々は、ここから始まっていく。




