第51話
月曜日の朝。
「……なあ、ハル。お前、何でそんなに普通なんだ?」
教室に入ってきた一陽を見て、照平が不思議そうに首を傾げた。
「普通って何だよ」
「いや、先週あれだけのことがあっただろ。もっとこう、怪我人っぽくしててもいいんじゃねえの?」
「怪我人っぽいって何だよ。包帯でも巻いて登校しろって?」
「そうそう。眼帯とかしてたら、ちょっと格好いいじゃん」
「お前、俺が何されたか分かってる?」
「分かってるから心配してんだろ」
照平は軽く笑ったが、その目は真剣だった。
一陽が昔から、他人のために無茶をする人間だということは知っている。だからこそ、今回の件も簡単には割り切れなかった。
「……まあ、冗談はここまでにして。身体、本当に大丈夫なのか?」
「医者からは無理するなって言われたよ。しばらく大人しくする」
「その言葉、信用していいんだよな?」
「善処します」
「信用できねえ!」
隣で二人の会話を聞いていた咲が、呆れたようにため息をついた。
「ハル、照平が心配してるんだから、ちゃんと大丈夫って言ってあげなよ」
「大丈夫だよ。ありがとう、照平」
一陽が素直に礼を言うと、照平は一瞬だけ目を丸くした。
「……うわ。何だよ、気持ち悪いな」
「お前が言わせたんだろ!」
「はいはい。元気そうで何より」
照平は笑いながら、一陽の肩を軽く叩こうとして、慌てて手を止めた。
「……あ、悪い。怪我してんだったな」
「今さら気づいたのかよ」
「いや、つい」
いつものやり取り。
けれど、一陽は少しだけ嬉しかった。
自分が何かを説明しなくても、以前と変わらず接してくれる人間がいる。それだけで、妙に肩の力が抜ける気がした。
「そういえば、ハル」
咲が思い出したように口を開く。
「この前の金髪の一年生、菖蒲ちゃんだっけ? あの子、どうしてる?」
「玲奈なら元気だと思うけど。昨日も普通に連絡が来たし」
「へえ。仲いいねえ」
「……何だ、その言い方」
「別に?」
咲はにやりと笑った。
「ただ、ハルが女の子と連絡を取り合ってるの、珍しいなって思っただけ」
「いや、普通に連絡くらいするだろ」
「その相手が玲奈ちゃんだから、ちょっと面白いんじゃない?」
「何が面白いんだよ……」
一陽が困った顔をすると、照平が横から割り込んできた。
「なるほどな。ハルもついに年下の彼女ができたか」
「できてねえよ!」
「えっ、違うの?」
「何で残念そうなんだよ!」
「いやあ、俺は応援するぞ。お前にも春が来たんだなって」
「まだ秋だよ!」
咲が吹き出した。
一陽は頭を抱えた。
――こいつら、絶対に面白がってるだけだ。
もっとも、玲奈との関係を詳しく説明するわけにもいかない。偽りの恋人という話が広まれば、玲奈がようやく整理をつけた過去に、余計な波紋を立てることになる。
だから、一陽は話題を変えることにした。
「……ところで、今日の宿題やった?」
「やってない!」
照平の即答。
「お前なあ……」
一陽は深いため息をついた。
いつも通りの朝は、こうして騒がしく始まった。
*
昼休み。
一陽が購買へ向かおうとしたところ、廊下の向こうから金色の髪が見えた。
玲奈だった。
その隣には、同じ一年生らしい女子が二人いる。玲奈は少し居心地が悪そうにしながらも、何かを説明していた。
「だから、別に怖くないよ。普通に話してくれるし。」
「でも、菖蒲さんって噂が……」
「噂は噂だろ。あたしだって、誰にでも喧嘩売るわけじゃねえよ」
「そ、そうなんだ……」
一人の女子がほっとしたように笑った。
玲奈は照れくさそうに頬を掻いた。
「……まあ、何か困ったことがあったら言えよ。できる範囲なら手伝うし」
「ありがとう、菖蒲さん!」
二人が去っていく。
その背中を見送った玲奈は、小さく息を吐いた。
「……ふう」
「お疲れ」
背後から声をかけられ、玲奈が勢いよく振り返った。
「うわっ! ……って、一陽パイセンかよ!」
「そんなに驚かなくても」
「急に後ろから声かけんな! 心臓に悪いだろ!」
「悪い悪い」
一陽は苦笑した。
「今の子たち、友達?」
「……まあ、クラスメイト。ちょっと話しかけられただけ」
「そうなんだ。ちゃんと話せてるじゃないか」
「……別に、普通だろ」
玲奈は目を逸らした。
学校に入ってから、彼女は人との距離を慎重に測っていた。
自分の噂を聞いて近づいてくる人間もいれば、怖がって避ける人間もいる。最初から自分を色眼鏡で見てくる相手に、わざわざ誤解を解こうとする気力はなかった。
けれど、最近は少しだけ違う。
一陽に言われたから、というだけではない。
自分から誰かに声をかけてもいいのかもしれない。そう思う瞬間が、ほんの少し増えていた。
「……そうだ、一陽パイセン」
玲奈が一陽の顔を見た。
「怪我、もう平気なのか?」
「ああ。まだ少し痛むけど、日常生活には問題ないよ」
「本当に?」
「本当」
「無理してねえ?」
「してないって」
「……ならいいけど」
玲奈は納得したように頷いた。
その直後、一陽の腹が小さく鳴った。
「……」
「……」
二人の間に沈黙が落ちた。
「……昼飯、まだなのか?」
「今から買いに行くところ」
「何やってんだよ。もう昼休み半分終わってんぞ」
「話しかけられたからな」
「誰に?」
「玲奈に」
「……あたしのせいにすんな!」
玲奈が一陽の腕を軽く叩いた。
もっとも、怪我をしている腕ではないか、叩く直前に確認していたことを、一陽は見逃さなかった。
「……一緒に購買行くか?」
「え?」
「いや、あたしも昼飯買いに行くし。別に、パイセンのためじゃねえからな」
「まだ何も言ってないけど」
「うるせえ!」
玲奈は先に歩き出した。
一陽はその後ろを追いかける。
「待ってくれよ。歩くの遅いんだから」
「知ってる。だから合わせてんだろ!」
「……え?」
「何でもねえ!」
玲奈は顔を背けた。
その耳が少し赤くなっていることに、一陽は気づかなかった。
*
放課後。
玲奈は職員室へ向かう途中、廊下で二年生の女子に呼び止められた。
「ねえ、菖蒲さん。ちょっといい?」
「……はい?」
反射的に警戒した玲奈だったが、相手は困ったような顔をしていた。
「大波君って、今どこにいるか分かる?」
「……一陽パイセンですか?」
「そうそう。先生に頼まれたプリントを渡したいんだけど、教室にいなくて」
玲奈は少し考えた。
「たぶん、図書室です。さっき、先生に頼まれた資料を見に行くって言ってました」
「あ、本当? ありがとう!」
「いえ。……先輩、職員室に行くなら、階段のところ気をつけてください。さっき床が濡れてたんで」
「えっ、そうなの? 助かる。ありがとうね」
二年生は笑顔で去っていった。
玲奈は、その背中を見送りながら首を傾げた。
――あれ。
今、普通に話せたな。
相手は上級生だったが、変に緊張することもなかった。もちろん、呼び方だっていつも通りだ。
「……まあ、普通か」
小さく呟き、玲奈は再び歩き出した。
その先の曲がり角で、一陽と鉢合わせた。
「お、玲奈。どうした?」
「いや、別に。さっき二年の先輩に、パイセンの居場所聞かれたから教えといた」
「そうなんだ。ありがとう」
「……うん」
一陽が自然に笑う。
その顔を見て、玲奈はなぜか少しだけ嬉しくなった。
自分が誰かの役に立てたことを、こんなふうに喜んでもらえるのは悪くない。
それが一陽だからなのか、それとも以前より人と関わることに慣れてきたからなのか。
今の玲奈には、まだ分からなかった。
「……一陽パイセン」
「ん?」
「明日、放課後って空いてる?」
「明日? たぶん大丈夫だけど」
「……そっか」
玲奈は少し迷ってから、続けた。
「母さんがさ、また家で飯食ってけって言ってた」
「え、でも、そこまでしてもらうわけには……」
「いいから来いよ!」
思ったより大きな声が出た。
玲奈は慌てて周囲を見回し、声を落とす。
「……いや、母さんがそう言ってんだよ。あたしも、来てくれたら助かるし」
「玲奈も?」
「小春が、一陽パイセンに会いたがってんだよ。ずっと、また来ないかなって言ってるから」
「そっか。それなら、お邪魔しようかな」
一陽が笑顔で頷く。
玲奈はほっとした。
「……じゃあ、決まりな」
「うん。楽しみにしてるよ」
「……っ」
楽しみ。
その一言が、妙に耳に残った。
玲奈は慌てて顔を背ける。
「……あんまり期待すんなよ。うち、普通の飯だからな」
「玲奈の料理、おいしいから楽しみだよ」
「……っ、だから、そういうことをさらっと言うなって!」
「え? 何か変なこと言った?」
「言った!」
玲奈は足早に歩き出した。
一陽は首を傾げながら、その後を追う。
「待ってよ、玲奈」
「知らねえ! 先帰る!」
「いや、同じ方向だろ!」
廊下に二人の声が響いた。
少し離れた場所でその様子を見ていた榛名真琴は、偶然にも学校の門の外から二人を眺めていた。
玲奈の様子が、以前とは違う。
大波一陽の隣では、彼女は自然に笑い、怒り、照れている。
そして何より、彼の予定を気にしている。
真琴は小さく笑った。
「……まったく。本人はまだ、気づいてないんだろうね」
玲奈が自分の未来を選び始めたことは、喜ばしい。
その未来に誰がいるのか。
それも、いつか本人が自分で選ぶことになるのだろう。
真琴は二人に声をかけず、その場を後にした。
一方、玲奈は校門を出たところで、ふと一陽を振り返った。
「……一陽パイセン」
「ん?」
「明日、絶対来いよ」
「分かった。約束する」
一陽は、いつも通りの笑顔で答えた。
玲奈は小さく頷き、前を向いた。
その胸の奥にある、名前のつかない感情を抱えたまま。




