第50話
「……だから、病院に行くって言ってるだろ」
「うるせえ! いいから黙って歩け、一陽パイセン!」
「いや、歩くのは俺なんだけど……」
「口答えすんな!」
翌日の朝。
一陽は、病院での診察を終えて帰宅する途中だった。
幸い、重大な怪我はなかった。身体のあちこちを痛めており、しばらくは無理をしないようにと言われたが、入院するほどではない。
問題は、隣を歩く玲奈だった。
昨日からずっと、この調子なのである。
「……玲奈。そんなに怒らなくてもいいだろ」
「怒ってねえよ」
「怒ってる人はだいたいそう言うんだよな」
「じゃあ、怒ってる。文句あんのか?」
「ありません」
一陽が素直に答えると、玲奈は不満そうに頬を膨らませた。
いつものように乱暴な言葉を使っているが、歩く速度は一陽に合わせている。段差があれば先に気づいて声をかけ、横断歩道ではさりげなく車道側に立った。
その様子を見て、一陽は小さく笑った。
「……何笑ってんだよ」
「いや。玲奈って、面倒見がいいんだなと思って」
「はあ? 普通だろ、こんなの」
「そうかな」
「そうだよ!」
即答だった。
しかし、その声には少しだけ照れが混じっていた。
一陽はそれ以上からかわず、素直に彼女の隣を歩いた。
昨日、倉庫で自分が倒れていたとき。
玲奈は、今まで見たことがないほど取り乱していた。
あの怒りは、仲間を傷つけられたからなのか。それとも、単純に自分を心配してくれたからなのか。
一陽には分からなかった。
ただ、あんな顔をさせてしまったことは、申し訳ないと思っている。
「……玲奈」
「何だよ」
「昨日は、ごめんな」
玲奈の足が止まった。
「……は?」
「心配かけたからさ」
「……何でパイセンが謝んだよ」
「いや、だって」
「謝るのは、あいつらだろ!」
玲奈の声が大きくなる。
通行人がちらりとこちらを見た。
玲奈は慌てて声を抑えたが、怒りは収まっていないようだった。
「……あたしが、もっと早く気づいてればよかったんだ。パイセンを一人にしなきゃ、あんなことには……」
「それは違うよ」
一陽は静かに言った。
「玲奈が悪いわけじゃない。あれは、あの人たちが自分で選んだことだ」
「でも……」
「それに、玲奈が来てくれたから、話が終わったんだ。助かったよ。ありがとう」
玲奈は口を閉じた。
素直に感謝されると、どう返せばいいのか分からない。
まして、相手は自分をかばって傷ついた人間だ。
「……別に。礼を言われるようなことしてねえし」
「そう?」
「そうだよ」
「じゃあ、そういうことにしておくか」
一陽は笑った。
玲奈はその顔を見て、胸の奥がまた少しだけ痛くなった。
昨日から、何度も同じことを考えている。
この人が笑っていると安心する。
苦しそうにしていると、落ち着かなくなる。
その理由を考えようとすると、なぜか顔が熱くなってしまう。
――何なんだよ、これ。
玲奈は考えるのをやめた。
今は、一陽がちゃんと家に帰って休むこと。それだけを考えればいい。
*
「ただいまー」
「お邪魔します」
玲奈の家に到着すると、玄関から小さな足音が聞こえてきた。
「おねえちゃーん!」
飛び出してきた小春は、玲奈の腰に抱きついた。
「おっと。ただいま、小春」
「おかえりー!」
小春は顔を上げ、玲奈の後ろにいる一陽を見つけると、ぱっと笑顔になった。
「ハルちゃん!」
「おう、小春ちゃん。ただいま」
「ハルちゃん、どうしたの? お顔、いたい?」
小春は一陽の顔をじっと見つめた。
頬の傷に気づいたらしい。
「ちょっと転んじゃってな」
「ころんだの? いたかった?」
「まあ、ちょっとな」
「よしよししてあげる!」
小春は背伸びをして、一陽の腕をそっと撫でた。
「もう、いたいの飛んでけー!」
「ははっ。ありがとう。もう大丈夫だ」
「ほんと?」
「ほんとだよ」
「じゃあ、いっしょにあそぼ!」
「こら、小春!」
玲奈が慌てて妹を止めた。
「一陽パイセンは怪我してんだよ。今日は遊べないの」
「えーっ!」
小春は見るからにしょんぼりした。
その顔を見て、一陽が困ったように笑う。
「いや、少しくらいなら……」
「駄目!」
玲奈が即座に遮った。
「パイセンは休む! 絶対!」
「……はい」
「おねえちゃん、こわーい」
「誰のせいだと思ってんだ!」
小春の無邪気な言葉に、玲奈が思わず突っ込む。
そのやり取りを見て、一陽は笑いをこらえきれなかった。
家の中は温かかった。
昨日の出来事が嘘のように、いつもの生活がそこにある。
けれど、その日常を守るために玲奈がどれだけ頑張っているのか、一陽は少しずつ理解し始めていた。
*
「大波君、今日は本当にありがとうね」
台所から出てきた玲奈の母親が、一陽に頭を下げた。
仕事へ出かける前に、一陽の様子を見に来たらしい。
「いえ、こちらこそ急にお邪魔してすみません」
「そんなの気にしなくていいのよ。玲奈から聞いたわ。怪我をしたのに、あの子のことまで気にかけてくれたんでしょう?」
「……いや、俺は別に」
「ふふ。あの子、昔から強がりだから。心配してるときほど、口が悪くなるのよ」
「母さん!」
玲奈が顔を赤くして抗議した。
「余計なこと言うなよ!」
「あら、本当のことでしょう?」
「そういう問題じゃねえ!」
母親は楽しそうに笑った。
「大波君。今日はゆっくりしていってね。玲奈、お願いできる?」
「……分かったよ」
「小春のことも、あんまり無理しないでね。あなたも自分の時間を大事にするのよ」
その言葉に、玲奈は少しだけ表情を曇らせた。
母親はそれに気づいているのか、優しく頭を撫でる。
「いつもありがとうね」
「……別に。家族なんだから普通だろ」
「そうね。でも、ありがとうは何度言ったっていいのよ」
母親が出かけたあと、玲奈はしばらく玄関を見つめていた。
「……玲奈?」
一陽が声をかける。
「ん。何でもねえ」
そう答えた玲奈は、すぐにいつもの表情に戻った。
「とりあえず、座ってろ。昼飯作るから」
「え、いいのか?」
「怪我人に台所立たせるわけねえだろ。何食いたい?」
「何でもいいよ」
「それが一番困るんだよ!」
玲奈は呆れたように言いながら、台所へ向かった。
その背中を見て、一陽は思う。
玲奈はきっと、ずっとこうしてきたのだろう。
家族のために動くことを当たり前だと思い、自分の疲れや気持ちを後回しにして。
だからこそ、自分は彼女に無理をしてほしくない。
けれど、それをどう伝えればいいのかは、まだ分からなかった。
*
昼食は、玲奈が作った卵入りのおじやだった。
「……うまい」
一陽が素直に感想を口にすると、玲奈は少しだけ得意げになった。
「だろ。あたし、料理は得意なんだよ」
「すごいな。俺なんか、卵焼きも焦がすぞ」
「それは料理が下手すぎるだろ」
「反論できない」
小春も隣でおじやを食べながら、満足そうに頷いた。
「おねえちゃんのごはん、おいしいよ!」
「はいはい。ありがとな」
玲奈は妹の頭を撫でた。
その表情は、学校で見せる鋭い顔とはまるで違っていた。
柔らかくて、優しくて、少しだけ誇らしげだった。
一陽はそれを見て、自然と笑みを浮かべた。
「……何だよ、また」
玲奈がこちらを睨む。
「いや。いいお姉ちゃんだなって」
「……っ!」
玲奈の手が止まった。
「な、何だよ急に!」
「いや、思ったことを言っただけだけど」
「そういうの、いちいち言わなくていいんだよ!」
「そっか。じゃあ、心の中にしまっておく」
「……最初からそうしろ!」
玲奈は顔を背けた。
耳まで赤くなっている。
小春は不思議そうに姉を見上げた。
「おねえちゃん、おかお赤いよ?」
「赤くねえ!」
「でも赤いよ?」
「小春!」
「きゃー!」
小春が笑いながら逃げ出し、玲奈が追いかける。
その光景に、一陽はまた笑った。
昨日まで、玲奈は自分にとって少し変わった後輩だった。
噂が多くて、口は悪いけれど、根は優しい。
今も、その認識は変わらない。
ただ、彼女の大切なものを、少しだけ知ることができた気がした。
そして玲奈の方は、一陽の笑顔を見るたびに、昨日の倉庫で感じた恐怖を思い出していた。
もし、あのまま目を覚まさなかったら。
もし、もう二度と、あの声を聞けなかったら。
そこまで考えて、玲奈は慌てて首を振った。
――何考えてんだ、あたし。
ただの先輩だ。
大事な、頼れる先輩。
それだけだ。
「……一陽パイセン」
「ん?」
「……明日も、ちゃんと休めよ」
「分かった。心配してくれてありがとう」
「だから、礼なんかいらねえって!」
玲奈は顔を背けた。
その横で、小春が無邪気に笑う。
「ハルちゃん、またあそびにきてね!」
「もちろん。また来るよ」
「やったー!」
小春が両手を上げて喜ぶ。
玲奈はその様子を見ながら、小さく息を吐いた。
明日も、明後日も。
この人が、いつも通りに笑っていてくれたらいい。
そんな願いが、自分の中に生まれていることに。
玲奈は、まだ気づいていなかった。




