第47話
「ハルちゃん、また来てね!」
「うん。またな、小春ちゃん」
菖蒲家の玄関先。
一陽はしゃがんで小春の頭を撫でると、靴を履き直した。
「……本当にまた来るつもりなのかよ、パイセン」
後ろから玲奈の声が飛んでくる。
「え? 駄目だった?」
「駄目とは言ってねえだろ。……ただ、あんまり気軽に来られても困るっていうか」
「なるほど。じゃあ、次は事前に連絡するよ」
「そういう意味じゃねえ!」
「どっちだよ……」
一陽が苦笑すると、玲奈は恨めしそうに睨んできた。
その後ろでは、小春が母親の服の裾を握りながら、まだ帰ってほしくなさそうにしている。
「お姉ちゃん、ハルちゃん、また遊びに来る?」
「……さあな。パイセンにも予定があるだろ」
「俺は別に、予定がなければ来るよ」
「一陽パイセン!」
「はいはい、分かった分かった。……じゃあ、またな、小春ちゃん」
「うん!」
満面の笑顔で手を振る小春に見送られ、一陽は菖蒲家を後にした。
玄関の扉が閉まる直前、玲奈が小さく呟く。
「……また、来いよ」
その声は、一陽の耳には届かなかった。
*
帰り道。
一陽はスマートフォンを取り出し、照平から届いていたメッセージを確認した。
『生きてるか? 金髪の後輩に連れ去られてないか?』
「……あいつ、俺を何だと思ってるんだ」
『無事だ。夕飯をご馳走になった』
返信すると、ほとんど間を置かずに返事が来た。
『は? もう家に上がったのか? お前、意外と大胆だな』
『人聞きの悪いことを言うな。小春ちゃんとお母さんに誘われただけだ』
『小春ちゃんって。お前、もうずいぶん懐かれてるんだな』
『子供は素直だからな。お前と違って』
『おい、どういう意味だ』
「……ふっ」
思わず笑ってしまう。
学校では何かと面倒な噂を立てられる一陽だが、こういうくだらない会話ができる相手がいるのはありがたかった。
ただ、ふと先ほどの食卓を思い出す。
玲奈は、当たり前のように料理を作り、小春の世話をしていた。
母親も仕事で忙しいのだろう。玲奈が家を支えている部分は、きっと大きい。
あの年齢で、どれだけのことを抱えているのだろうか。
「……まあ、本人が話したくないことまで聞くのは違うか」
一陽は小さく呟き、スマートフォンをポケットにしまった。
他人の事情に踏み込みすぎない。
それもまた、彼なりに決めていることの一つだった。
*
翌日、昼休み。
「で? 昨日はどうだったんだよ」
弁当を広げるなり、照平が身を乗り出してきた。
「何が?」
「とぼけんな。菖蒲の家だよ」
「別に普通だったぞ。小春ちゃんは元気だし、お母さんは気さくだし、料理はうまかった」
「……お前、もう完全に家族ぐるみじゃねえか」
「一回夕飯をご馳走になっただけだろ」
「その一回でそこまで情報を仕入れてくるのが、お前らしいよな」
呆れたように笑う照平の向かいで、咲が箸を止めた。
「へえ。ハル、菖蒲さんの家に行ったんだ」
「小春ちゃんが会いたがってたからな。お母さんにもお礼を言いたいって誘われたんだよ」
「ふうん……それで、菖蒲さんとはどうだった?」
「どうって?」
「何か変わったことはなかったの?」
「……家でまで口が悪いわけじゃないんだな、とは思った」
「それ、本人に言った?」
「言うわけないだろ。怒られる」
「分かってるなら、余計なことを言わないようにしなよ」
咲は呆れた顔をした。
「ハルって、悪気なく相手の恥ずかしいところを突くからね」
「俺は事実を述べているだけだ」
「そういうところ!」
「はいはい、いつもの正論マシーンが出たぞー」
照平が茶化す。
「誰が正論マシーンだ。お前、昨日の数学の課題はやったのか?」
「……話を変えよう」
「逃げんな」
「いや、俺の学力とこの話題は無関係だろ!」
「課題をやってないことは認めるんだね」
咲が笑う。
三人のやり取りに、隣の席から声が割り込んだ。
「相変わらず仲いいね、三人とも」
三芳美琴だった。
「三芳さん。どうしたの?」
「いや、杏ちゃんを探してたんだけど、こっちから騒がしい声が聞こえたからさ」
「誰が騒がしいって?」
「照平君」
「俺だけ!?」
美琴は楽しそうに笑い、それから一陽に視線を向けた。
「そういえば一陽君、最近一年生の菖蒲さんとよく話してるんだって?」
「……何でみんな知ってるんだよ」
「目立つからじゃない? あの子、噂がすごいし」
「噂なんて、話半分に聞いとけばいいだろ」
「うん。私もそう思うよ。実際に話してみないと分からないことってあるしね」
美琴はあっさりと頷いた。
その言葉に、一陽は少しだけ目を細める。
彼女もまた、周囲の評判だけで誰かを決めつけない人間だった。
「一陽ー!」
今度は、聞き慣れた声が近づいてきた。
紙パックの飲み物を片手に、杏がやってくる。
「杏、何だ?」
「プリン買ったんだけど、スプーンがなかった」
「……購買で買ったのか?」
「うん」
「店員さんに言えばもらえるだろ」
「もう教室に戻ってきちゃった」
「戻る前に確認しろよ……」
一陽はため息をつきながら、自分の鞄から予備のスプーンを取り出した。
「ほら」
「ありがと、一陽!」
杏は嬉しそうに受け取り、すぐにプリンの蓋を開ける。
「ハルって、杏には本当に甘いよね」
咲が言う。
「困ってる人間を助けるのは当然だろ」
「スプーンがないだけだけどね」
「……細かいことを気にするな」
「一陽、これおいしいよ。あとで一口あげる」
「いや、いいよ」
「じゃあ二口」
「増えてるぞ」
照平が吹き出した。
「お前ら、漫才でもやってんのか?」
「一陽がツッコミ役ね」
「杏、俺は別に芸人じゃないんだが」
いつもの昼休み。
くだらない会話に笑い声が重なる。
一陽はこういう時間を嫌いではなかった。
誰かの問題を解決するために頭を悩ませる時間とは違う、何も背負わなくていい時間。
だからこそ、気づかなかった。
昼休みの終わり際、廊下の向こうから自分たちの教室を見つめていた金髪の少女がいたことに。
*
放課後。
玲奈は校門から少し離れた場所で、足を止めた。
目の前に立っているのは、見覚えのある少女だった。
制服は玲奈の通う学校のものではない。肩まで伸びた黒髪に、鋭い目つき。腕を組み、こちらをじっと見つめている。
「……久しぶりじゃん、玲奈」
玲奈の表情から、いつもの気楽さが消えた。
「……千景」
上里千景。
中学時代、玲奈と同じグループに所属していた少女。
何度も一緒に笑い、何度も喧嘩をし、それでも最後には隣に立っていた、かつての親友だった。
「連絡しても返さないし、顔も出さないし。ずいぶん偉くなったもんだね」
「……悪かったよ」
「謝ってほしいわけじゃない」
千景は一歩近づいた。
「何で来なくなったの?」
「……もう、ああいうのはやめようと思ったんだ」
「は?」
「家のこともあるし、これからのことも考えたい。だから……」
「それ、本気で言ってんの?」
玲奈は言葉を詰まらせた。
千景の表情には怒りだけではなく、傷ついたような色もあった。
「うちら、ずっと一緒だったじゃん。喧嘩しても、何があってもさ」
「……分かってる」
「分かってないよ!」
千景の声が鋭くなる。
「何も言わずにいなくなって、勝手に終わりにしようとして。こっちは、あんたが戻ってくるのを待ってたんだよ!」
玲奈は唇を噛んだ。
反論はできなかった。
自分が何も告げず、仲間たちから離れたことは事実だったからだ。
「……ごめん」
「だから、謝れって言ってんじゃない!」
千景は苦しそうに顔を歪めた。
「……明日、いつもの場所に来て。話したいことがある」
「千景、あたしは……」
「待ってるから」
それだけ言い残し、千景は背を向けた。
玲奈は、その背中を追えなかった。
*
同じ頃。
学校を出た一陽は、咲と照平に挟まれて歩いていた。
「そういえばハル、今日も菖蒲と会うのか?」
照平が尋ねる。
「いや、今日は何も聞いてないけど」
「小春ちゃん、寂しがってるんじゃない?」
咲が冗談めかして言った。
「毎日会いに行くわけにもいかないだろ」
「えー、ハルなら行きそうだけど」
「俺を何だと思ってるんだ、お前らは」
三人は笑いながら交差点を曲がる。
その先に、玲奈が一人で立っていた。
普段なら気づいた瞬間に、ぶっきらぼうな挨拶でもしてくるはずだった。
けれど、今日の玲奈は違った。
俯いたまま、拳を強く握りしめている。
「……玲奈?」
一陽が声をかける。
玲奈は弾かれたように顔を上げた。
「……あ。一陽パイセン」
いつもの呼び方。
けれど、その声には明らかな無理があった。
「どうした? 何かあったのか?」
「……別に。何でもねえよ」
玲奈は笑おうとした。
うまく笑えていなかった。
一陽はそれ以上、すぐには聞かなかった。
ただ、彼女の顔を見つめる。
「……そっか」
一度だけ頷いてから、静かに続けた。
「でも、話したくなったら聞くよ」
玲奈の目がわずかに揺れた。
「……何で、そんなこと言うんだよ」
「何でって……困ってそうに見えたから」
「……パイセンって、本当にお人好しだよな」
「よく言われる」
「褒めてねえよ」
「知ってる」
いつものようなやり取り。
それなのに、玲奈は少しだけ泣きそうな顔をした。
「……ありがと」
その声は、今まで聞いたどんな言葉よりも小さかった。
一陽は気づかないふりをして、彼女の隣に並ぶ。
「帰る方向、途中まで一緒だろ。行こうぜ」
「……うん」
玲奈は短く返事をした。
かつての仲間との関係。
家族を守りたいという願い。
そして、簡単には切り離せない過去。
それらが、少しずつ彼女の前に戻ってきていた。
一陽はまだ、そのすべてを知らない。
けれど、玲奈が一人で抱え込もうとしていることだけは、何となく分かった。
だから今は、何も聞かずに隣を歩く。
その沈黙が、玲奈には不思議と心地よかった。




