第44話
昼休み。
「なあ、ハル。お前、一年にいるヤバい女子の噂って知ってるか?」
弁当の卵焼きを口に運んでいた大波一陽は、向かいに座る狭山照平を見た。
「ヤバい女子? 校則違反の化身みたいな人なら、うちの学校には何人かいると思うけど」
「そういう話じゃねえよ。喧嘩がめちゃくちゃ強い金髪の女子がいるんだってさ」
「へえ」
「興味なさそうだな、お前」
「知らない人の喧嘩の強さに興味を持てと言われても困るだろ」
一陽は至極もっともな返答をしながら、今度は唐揚げに箸を伸ばした。
隣で話を聞いていた新倉咲が、呆れたように笑う。
「ハルって、ほんとにそういう話には食いつかないよね」
「食いついてどうするんだよ。俺が一年生の喧嘩大会に出場するわけでもないのに」
「いや、喧嘩大会って……」
照平は苦笑しながら声を潜めた。
「それがさ、そいつ、一人で十人をのしたらしいぜ」
「十人?」
咲が目を丸くした。
「そうそう。しかも中学時代には教師をボコボコにしたとか、道端で野良猫にガン飛ばしてたとか、幼い女の子を連れ去ろうとしてたとか」
「最後の二つ、急に話の方向がおかしくなってない?」
一陽は思わず突っ込んだ。
「猫にガン飛ばすって、猫と喧嘩でもしてたのかよ。しかも幼女誘拐って、もう喧嘩が強いとかいう次元じゃないだろ」
「噂なんてそんなもんだろ」
「そんなもんで済ませていいのか?」
咲は少し心配そうな顔をした。
「でも、そんな子が同じ学校にいるなら、ちょっと怖いかも……」
「実際に何かされたわけでもないのに怖がっても仕方ないだろ。話の半分どころか、九割くらい盛られてそうだし」
「ハルは信じてないの?」
「信じる理由がない。人間が十人相手に勝つこと自体は、状況次第であり得るだろうけどな」
「そこは否定しないんだな」
「世の中には関わらない方がいい相手ってのもいるからな。自分から十人に喧嘩を売るような奴なら、なおさらだ」
「お前が言うと妙に説得力あるな……」
「褒め言葉として受け取っておくよ」
そんな話をしているうちに、昼休みは終わった。
一陽にとっては、それだけのことだった。
知らない後輩が何をしていようと、直接関わらなければ自分には関係ない。
学校には噂が溢れている。
誰かが誰かを嫌い、誰かが誰かを悪く言い、そこに面白半分の尾ひれがつく。
そういう光景なら、一陽は嫌というほど見てきた。
だからこそ、確かめてもいない噂を鵜呑みにするつもりはなかったし、かといって自分から真相を調べに行く気もなかった。
――面倒事は、できるだけ避けたい。
少なくとも、その日の放課後まではそう考えていた。
*
放課後。
委員会の用事を終えた一陽は、昇降口を出て駅へ向かっていた。
空は夕焼けに染まり、住宅街へ続く道には部活動を終えた生徒たちの姿がちらほら見える。
その途中。
「……うぅ」
小さなすすり泣きが聞こえた。
一陽は足を止めた。
道端の電柱のそばに、幼稚園児くらいの女の子が立っている。
明るい色の服を着た少女は、周囲をきょろきょろ見回しながら、大きな瞳に涙をためていた。
「……どうした?」
声をかけると、少女はびくりと肩を揺らした。
「おうち……わかんなくなっちゃった……」
「迷子か」
少女はこくんとうなずいた。
「お母さんと一緒だったのか?」
「おねえちゃんと、おかいもの……。それでね、ちょうちょがいたから、追いかけたの……」
「なるほど」
状況はだいたい理解できた。中で目を離した隙に、蝶を追いかけて迷ってしまったのだろう。
「名前、言えるか?」
「こはる!」
「小春ちゃんか。苗字は?」
「しょうぶ!」
「菖蒲……?」
聞き覚えのある地名のような響きだったが、今はそこを気にしている場合ではない。
「俺は大波一陽。お兄さんって呼んでくれればいいよ」
「おにいさん……」
「うん。おうちはどっちの方かわかる?」
小春は少し考え、道の向こうを指さした。
「こっち……かな?」
「よし。じゃあ、一緒に探そう。知らない人についていくのは危ないけど、今はおうちの場所を確かめないとな。お母さんかお姉ちゃんの電話番号、覚えてる?」
「……わかんない」
「そっか」
一陽はしゃがんで、少女と目線を合わせた。
「大丈夫。怒ったりしないから、ゆっくり思い出そうな」
少女の目に、また涙が浮かぶ。
「おねえちゃんに、おこられる……?」
「心配してると思うぞ。でも、無事に見つかればきっと安心するさ」
「ほんと?」
「ああ。俺も妹がこんなふうに迷子になったら、めちゃくちゃ心配すると思うし」
実際に一陽には妹がいる。
幼い子供が不安そうにしている姿を見ると、どうにも放っておけなかった。
杏に甘いのも、きっとこの辺りが原因なのだろう。
「じゃあ、行こうか。途中で何か思い出したら教えてくれ」
「うん!」
小春は一陽の手を握った。
その小さな手が、少しだけ安心したように力を込める。
それから二人は、少女の覚えている景色を頼りに住宅街を歩き始めた。
曲がり角を二つ越えたところで、小春が突然声を上げた。
「あっ! あのおうち!」
指さした先には、白い外壁の一軒家があった。
「ここか?」
「うん! こはるのおうち!」
「よかった。じゃあ、まずは家にいる人に確認しよう」
一陽が玄関の呼び鈴を押そうとした、その時だった。
ガチャリ、と玄関の扉が勢いよく開いた。
「小春っ!」
飛び出してきたのは、背の高い女子生徒だった。
染めたような金髪。鋭い目つき。制服は着崩されていて、周囲を寄せつけないような雰囲気をまとっている。
その姿を見た瞬間、一陽の頭に昼休みの噂がよぎった。
――一人で十人をのした金髪の女子。
――教師をボコボコにした不良。
――幼い少女を連れ去ろうとした女。
まさか。
金髪の女子は小春の前にしゃがみ込むと、勢いよくその身体を抱きしめた。
「バカ! どこ行ってたんだよ! 心配したじゃん!」
「おねえちゃーん!」
小春も姉の首に腕を回す。
「ごめんなさい……」
「……無事ならいい。怪我とかしてない?」
「してない!」
「そっか……よかった」
姉は妹の頭を何度も撫でた。
その表情は、先ほどまでの険しさが嘘のように柔らかい。
やがて彼女は、小春の隣に立つ一陽へと視線を向けた。
「……で、あんた誰?」
口調は鋭い。警戒心も隠していない。
一陽は小さく息を吐いた。
「通りすがりの高校生。迷子になってたこの子を、家まで送り届けただけだよ」
「……高校生?」
彼女は一陽の制服を見た。
そして、自分の制服へ視線を落とす。
同じ高校の制服だった。
「……あんた、二年?」
「ああ。二年の大波一陽」
「大波……一陽?」
彼女の目がわずかに見開かれる。
その名前には覚えがあった。
二年生に、悪い噂ばかりが広がっている男子生徒がいる。
正論を振りかざして周囲と揉める。ある生徒のイジメを止めるためクラス全員を糾弾した。関わると面倒なことになる――。
そんな話を、彼女は以前から耳にしていた。
まさか目の前の男が、その大波一陽だとは思わなかった。
「……へえ。あんたが、あの大波先輩」
「その呼び方、今初めて聞いたんだけど」
「別に。こっちの話」
彼女は少しだけ視線を逸らした。
そして、気まずそうに頭を下げる。
「……妹を送ってくれて、ありがと。助かった」
「どういたしまして。もう迷子にさせないように気をつけてな」
「わかってる。あたしが悪かった」
思ったよりも素直な返答だった。
噂の人物という先入観がなければ、少し口調のきつい、妹思いの姉にしか見えない。
もっとも、見た目の迫力はなかなかのものだったが。
その時、小春が一陽の手をぎゅっと握った。
「おにいちゃん、もうかえっちゃうの?」
「うん。家に帰れたしな」
「やだぁ……」
「えっ?」
小春は姉の腕に抱きつきながら、一陽を見上げた。
「こはる、ハルちゃんともっとおはなししたい!」
「……ハルちゃん?」
一陽は思わず自分を指さした。
「俺?」
「うん! ハルちゃん!」
「いや、まあ……別にいいけど」
幼い子供の無邪気な笑顔に、一陽はどうにも弱かった。
金髪の姉は、妹の頭を抱えながら困ったように眉を寄せる。
「小春、先輩を困らせるなって」
「でもぉ……」
「でもじゃないの」
そう言いながらも、姉の声は驚くほど優しい。
一陽はその様子を見て、思わず口元を緩めた。
「じゃあ、また会ったらな」
「ほんと!?」
「ああ。約束」
「やったぁ!」
小春が嬉しそうに跳ねる。
その隣で、姉は一陽をじっと見つめていた。
噂では、厄介な男だと聞いていた。
けれど、妹を家まで送り届け、見返りも求めず、最後まで優しく接してくれた。
少なくとも、彼女の目に映る大波一陽は、噂だけでは判断できない男だった。
「……あたし、菖蒲玲奈。一年」
「菖蒲か。俺はさっき名乗ったけど、改めてよろしく」
「……ああ。よろしく、一陽パイセン」
取って付けたような敬語だった。
一陽は苦笑する。
「無理して敬語を使わなくてもいいぞ」
「うっせ。先輩には敬語だろ」
「今、普通にタメ口だったけどな」
「細かいこと気にすんな」
「はいはい」
玲奈は小春を抱き上げ、玄関へ戻ろうとした。
その背中を見送りながら、一陽は思う。
噂の金髪少女。
確かに見た目は怖いし、口も悪い。
けれど、妹を抱きしめるあの顔を見れば、少なくとも噂だけで決めつけるのは違う気がした。
もっとも。
自分から積極的に関わろうとは、まだ思っていなかったが。
「ハルちゃーん! またきてねー!」
玄関先から、小春の声が響く。
一陽は振り返り、軽く手を振った。
「またな、小春ちゃん」
扉が閉まる直前。
玲奈が、ほんの少しだけこちらを見ていた。
その目に浮かんでいたのは、警戒心だけではない。
自分と同じように、周囲から勝手な噂を流されている二年生。
そして、その噂とは違う顔を見せた男。
――少し、気になる。
玲奈自身も、まだその感情の正体を知らなかった。
こうして大波一陽は、関わるつもりのなかった噂の金髪少女と、思いがけない縁を結ぶことになったのだった。




