第40話
放課後。
西日の差し込む廊下は静かだった。大波一陽は生徒会室の扉を開ける。
「失礼します」
「お、来たね、大波君」
御影川綾乃が顔を上げた。
「今日は何ですか?」
「特にないよ」
「……帰っていいですか?」
「駄目」
「理不尽だ」
いつものやり取りを交わしながら、一陽は空いている席に座った。
机の上では、鶴ヶ島和花が生徒会の資料を整理している。
「こんにちは、大波君」
「こんにちは、和花先輩」
「今日は普通に来てくれましたね」
「前回までは俺、何だと思われてたんですか?」
「ちょっとだけ、来ないかもしれない人かなって」
「それは否定できませんね」
朝霞怜司が書類から顔を上げた。
「だが、最近は来る頻度が増えたな」
「……会長に捕まってるだけだ」
「それを来ていると言うんだよ」
綾乃が笑う。
以前なら、生徒会室など自分には関係のない場所だった。それが今では、放課後に自然と足を運ぶようになっている。
とはいえ。
「……何か変だな」
「何が?」
「いや。何でもありません」
その時、扉が叩かれた。
「どうぞー」
「一陽〜」
一陽は固まった。
「こんにちは」
顔を出したのは蓮田杏だった。両手には小さな袋があり、甘いプリンの匂いが室内に広がる。
「何しに来た?」
「遊びに来た」
「ここ、生徒会室なんだけど」
「知ってる」
「なら、もう少し場所を考えような?」
「一陽がいるから大丈夫」
「その理屈やめようか」
杏は当然のように部屋へ入り、一陽の隣に座った。
「狭い」
「大丈夫」
「またそれか」
和花がくすりと笑う。
「杏ちゃん、こんにちは」
「こんにちは、和花先輩」
「覚えてくれてたんですね」
「うん。一陽のところにいる人」
「説明が雑だね」
怜司が眼鏡を押し上げた。
「蓮田、ここは生徒会室だ。あまり騒がないようにな」
「うん」
「素直だな」
「一陽がいるから」
「俺を基準にするな」
綾乃が袋を覗き込む。
「ところで、その袋はなんだい?」
「プリン」
「君は本当にプリンが好きなんだね」
「うん」
杏は袋からプリンを取り出し、もう一つを和花に差し出した。
「和花先輩にも」
「私に? どうして?」
「いつも優しいから」
和花は目を丸くしたが、すぐに微笑んだ。
「ありがとう、杏ちゃん」
「どういたしまして」
一陽はその様子を見て、少しだけ目を細めた。
杏は人に懐くのが早い。誰にでも同じというわけではないが、気に入った相手には驚くほど素直に距離を縮める。今日は、どうやら和花がその対象らしい。
「大波君」
「何ですか?」
「杏ちゃんって、可愛いですね」
「……まあ、小動物的な意味で」
「何その微妙な返事」
「本人の前で言うと調子に乗るので」
「乗らない」
杏が即座に否定する。
「乗るだろ」
「乗らない」
「じゃあプリン一個増やして」
「それは乗ってるだろ」
「違う」
和花が笑い、綾乃は机に突っ伏した。
「大波君、完全に負けてるね」
「会長は仕事してください」
「今日はもう終わったから」
「なら帰ってください」
「ここ、私の生徒会なんだけど?」
「そうでした」
和花が杏に尋ねた。
「杏ちゃんは、甘いものが好きなんですか?」
「うん。プリンが一番」
「では、今度おすすめのお店を教えましょうか?」
「行く」
「即答だ」
怜司が呟く。
「和花先輩、優しい」
「そう?」
「うん」
杏は嬉しそうに笑った。
その様子を見ていた一陽は、ふと思う。
杏が誰かと自然に話している。それだけのことなのに、妙に安心する。
以前なら、杏の周りで何か起きていないか、必要以上に気にしていた。今も心配ではある。だが、自分だけが杏を守る必要はない。そう思えるようになっていた。
「一陽」
「何?」
「プリン買ってきてくれる?」
杏が空のプリン容器を差し出してくる。
「さっき自分の分食べてただろ」
「和花先輩と話してたら、もう一個食べたくなった」
「それ、俺にどうしろと?」
「買ってきて」
「なんで俺が」
「一陽だから」
「便利な言葉だな、それ」
和花が小さく笑った。
「大波君、買ってきてあげたらどうです?」
「和花先輩まで杏側に回らないでください」
綾乃が立ち上がる。
「じゃあ、私も行こうかな」
「会長は仕事してください」
「もう終わったって」
「……じゃあ俺が買ってきます」
「やった」
杏が嬉しそうに笑う。
「ただし一個だけな」
「二個」
「一個」
「二個」
「……一個半」
「分かった」
「そこ納得するのかよ」
怜司が呆れたように笑った。
「お前たちは、ずいぶん息が合っているな」
「そういう言い方はやめてください」
一陽が出ていくと、杏は和花の隣に座った。
「和花先輩」
「はい?」
「また来てもいい?」
「もちろんです。いつでも来てください」
「じゃあ、また来る」
「はい」
杏は嬉しそうに頷いた。
綾乃が和花に近づく。
「和花、すっかり懐かれたね」
「そうですね」
「大波君と同じ位仲良しなんじゃないか?」
「大波君は自分から距離を離すことがありますから」
「確かに」
和花は杏を見る。杏は机の上のプリントを眺めながら、鼻歌を歌っていた。
「でも、大波君の尽力で杏ちゃんがこうして普通に笑っていられるのは、いいことですね」
「うん」
やがて扉が開いた。
「戻りました」
一陽が戻ってくる。
「早い」
「近いからな」
「プリン」
「はい」
杏が受け取る。
「ありがとう、一陽」
「どういたしまして」
その言葉が、思ったより自然に出た。一陽は少しだけ驚いた。
昔なら、誰かに何かをしてやった時、必ず理由をつけていた。頼まれたから。仕方がないから。放っておくと面倒だから。
けれど今は、そこまで理由を探さなくてもいい気がした。
「一陽」
「何?」
「また明日も来るね」
「……まあ、好きにしろ」
「うん」
杏はプリンを食べ始める。和花は微笑み、怜司は書類を整理し、綾乃は次の仕事を確認している。
誰かが特別なことをしているわけではない。ただ、放課後の生徒会室に、人が集まっているだけだ。
一陽は自分の席に戻り、ふと周囲を見渡した。
以前なら、この場所を「自分とは関係のない場所」だと思っていただろう。
でも今は。
「……ここ、意外と落ち着くな」
「でしょ?」
綾乃が笑った。
「勝手に答えないでください」
「でも本当でしょ?」
「……否定はしません」
和花が微笑む。
「それなら、よかったです」
生徒会室には、プリンの甘い匂いと、くだらない会話が残っていた。
大波一陽は、そんな放課後を――。
少しだけ、悪くないと思った。




