第35話
昼休み。
大波一陽が弁当を食べながら窓の外を眺めていると、教室の入口に見慣れない三年生の女子が立った。長い髪をきっちりまとめ、制服も隙なく着こなした優等生風の少女だ。ただし、周囲の視線など気にしていないような笑顔だけが、妙に楽しそうだった。
「大波一陽君。ちょっと来てもらえますか?」
「嫌です」
「まだ何も言ってないよ?」
「昼休みに生徒会が二年生の教室まで来る時点で、嫌な予感しかしないんで」
「じゃあ、言い方を変えるね。生徒会長からのお願い」
「もっと嫌です」
教室の何人かがこちらを見た。一陽は弁当の蓋を閉じ、深いため息をつく。
「……何ですか」
「場所を変えて、ちょっと話したいんだけど」
「ここじゃ駄目ですか?」
「できれば」
「じゃあ、行きません」
「理由、聞いてもいい?」
「面倒そうだからです」
「大波君、噂以上に面白いね」
「帰っていいですか?」
「それは困るなあ」
女子生徒は、断られるたびにむしろ楽しそうに笑った。普通なら気まずくなる場面でも、彼女は一歩も引かない。
「私は御影川綾乃。三年生で、生徒会長やってます」
「……大波一陽です」
「知ってるよ。生徒会室まで一緒に来てくれる?」
「断ったら?」
「私がここでお願いし続ける」
「それ、迷惑行為じゃないですか?」
「生徒会長権限」
「そんな権限ありませんよね?」
「ないよ」
「ないんかい」
綾乃が吹き出し、一陽は額を押さえた。相手の反応を見ながら、わざと話を転がしている。そんな印象だった。
「……分かりましたよ。ただし、協力すると決めたわけじゃありませんからね」
「うん、分かってる。そこも含めてお願いしたいな」
「……嫌な予感しかしない」
◇
川中東陵高等学校の生徒会室に入ると、大量の書類が目に入った。
「……帰っていいですか?」
「まだ何も始まってないよ?」
「書類の量を見て、帰りたくなりました」
「もうちょっとだけ付き合って」
綾乃は散らかった書類の山を見ても気にした様子がなく、むしろ面白そうに一陽の反応を眺めている。
奥の机には、ふわりとした髪の女子生徒が座っていた。彼女は一陽を見ると、手元の書類をそっと脇へ寄せ、穏やかに笑う。
「あら。こんにちは、大波君」
「……どうして俺の名前を?」
「綾乃ちゃんから聞いています。幼馴染なんです。鶴ヶ島和花、三年生で副生徒会長を務めています」
「大波一陽です」
「思っていたより、ずっと普通の方なんですね」
「どういう意味ですか?」
「もっと近寄りがたい方かと。けれど、安心しました」
和花は柔らかな口調のまま、一陽の表情を注意深く見ていた。警戒させないようにしながら、相手を知ろうとしているらしい。
「俺の悪評、三年にも轟いてんですか」
「ええ……かなり、でしょうか」
「さいですか」
「でも、実際にお話しすると、噂とは少し違うようです」
「フォローになってませんよ」
「すみません。けれど、本当にそう思ったんです」
一陽が椅子に座ると、書類を几帳面に分類していた眼鏡の男子生徒が顔を上げた。彼は一陽と綾乃、和花を順番に見てから、手元の紙を揃える。
「……会長。本当に連れてきたんですか?」
「うん。ちゃんと連れてきたよ」
「本人の意思は?」
「一応あります」
「それは、意思があるとは言わないと思います」
男子生徒は眼鏡を押し上げた。綾乃の勢いに流されず、淡々と事実だけを確認する姿勢だった。
「二年生の朝霞怜司だ。生徒会書記をしている」
「同学年か。大波一陽だ」
「知っている。噂では、『正論で人を追い詰める』『問題を起こして人間関係を壊す』『妙に喧嘩が強い』など」
「最後のは完全に嘘だね。俺、喧嘩なんかしたことねぇし」
「そこを否定するんですか。問題は他の二つでしょう」
怜司は表情を変えずに言ったが、書類を持つ指先だけがわずかに止まった。綾乃が楽しそうに笑う。
「怜司君、大波君は面白いでしょう?」
「会長、雑談は結構ですので本題に入ってください」
「はいはい。相変わらず真面目だねえ」
「真面目でなければ、生徒会は務まりません」
「そういうところだよ」
綾乃は怜司の制止を軽く受け流しながら、机の上の資料を一枚抜き取った。
「今回、あなたにお願いしたいことがあります」
綾乃は机の上に資料を置いた。
「今週末の校内交流フェスティバルですか?」
「うん。体育館の使用時間が、一部のクラスと部活動で重複してるの」
「時間をずらせばいいのでは?」
「それが簡単なら、問題にはなってないよ」
怜司がすぐに資料を開き、該当箇所を指で示す。
「複数のクラスが別々の予定を前提に準備を進めています。変更すれば別の場所にしわ寄せが出る。さらに、『生徒会が特定のクラスを優遇している』という噂まで広がっています」
「噂の出所も確認中です」と和花が静かに付け加えた。「ただ、皆さんが不安になっていることは確かです。準備を頑張っている方ほど、予定の変更を怖がっています」
「……面倒ですね。で、俺に何をしろと?」
綾乃が待っていましたとばかりに身を乗り出した。
「解決して」
「嫌です。生徒会の仕事でしょう」
「その通り。だけど、私たちだけじゃ難しいから君に頼みたいの」
「何で?」
「君が、普通の解決方法を嫌うから」
「……褒めてるんですか?」
「うん。私は君の問題解決能力を高く評価してるよ」
「悪評しかない俺を?」
「悪評と能力は別でしょ?」
綾乃は笑っていたが、その目だけは一陽の反応を見逃さなかった。軽口のようでいて、相手の本質を見抜こうとしている。
「君が悪評を気にせず、正しいと思ったことを実行できるところを評価してるの」
「買いかぶりです。俺、そんな立派な人間じゃないですよ」
「知ってる。だからこそ、面白いんだよ」
「会長は、人を面白がって動かすのが趣味なんですか?」
「うん。半分くらいは」
「半分は否定しないんですね」
怜司が小さくため息をついた。
「会長、相手を試すような言い方は控えてください。協力を得たいなら、必要な情報を先に提示すべきです」
「怜司君は本当に堅いなあ」
「堅くて結構です。話が逸れると、解決が遅れます」
和花が二人の間に視線を移し、穏やかに口を挟む。
「綾乃ちゃんは、大波君なら状況を変えられると思っているんですよね。怜司君は、変える前に状況を正確に把握したい。どちらも必要なことだと思います」
「和花は優しいねえ」
「優しいというより、役割分担です」
和花は微笑んだまま、資料の端を整えた。「私は皆さんの話を聞く役をします。怜司君は情報を整理して、綾乃ちゃんは交渉を。大波君には、今までのやり方では出てこない案を考えていただけると助かります」
苦手な人だと思いながら資料を追ううち、一陽の胸に別の感情が湧いた。
誰かの都合で決められた予定が、別の誰かの努力を無駄にしている。それを「仕方ない」で済ませるのは、どうにも気に入らなかった。
「……資料、全部見せてください。現場も見たいです。各クラスの希望を聞きたい」
「分かった。必要な場所に案内するね」
綾乃はすぐに立ち上がった。行動に移すのが早い。
「それと、誰が最初にこの予定表を作ったのか教えてください」
怜司が顔を上げた。
「そこまで必要か?」
「予定が破綻した原因を知りたいからだ。今ある予定を直すだけなら、またどこかで破綻する」
「記録上は、各担当から提出された希望を俺がまとめている。だが、元の希望に不自然な点がないかは、まだ確認できていない」
怜司はすぐに事実を補足した。疑問を持ちながらも、感情で決めつけないようにしているらしい。
「なら、そこから調べましょう」
怜司は黙った。綾乃だけが嬉しそうに笑う。
「やっぱり、君を呼んで正解だったね」
「まだ何も解決してませんけど」
「うん。それでも、だよ」
一陽はため息をついた。
「……分かりました。期間限定です。この問題が片付くまで」
「じゃあ、よろしくね」
綾乃が手を差し出す。一陽は少し迷ってから、その手を握った。綾乃は満足そうに笑い、和花はほっとしたように目を細めた。
断る理由ならいくらでもあった。面倒だし、時間も取られる。余計な噂が増えるかもしれない。
それでも手を引かなかったのは、綾乃の言葉が引っかかっていたからだ。
悪評と能力は別。
その言葉を、自分自身にも向けてみたくなった。
「……よろしくお願いします」
俺が小さく息を吐く。
「会長、俺、嫌な予感がしてきました」
「奇遇だね」
「会長もですか?」
「私は楽しみ」
「そこが一番不安なんですよ」
和花が二人を見て、ふわりと笑った。
「ふふ……綾乃ちゃんは先頭に立って進めて、怜司君は危ないところを止めて、大波君は予定外の方向へ進みそうですね」
「和花、それ褒めてる?」
「もちろんです。たぶん」
「たぶんなんだ……」
「でも、私は皆さんの間に入る役を頑張りますね」
和花の穏やかな声に、怜司がわずかに表情を緩めた。
「それは助かります。会長だけだと、話がどこへ飛ぶか分かりませんから」
「怜司君、ひどいなあ」
「事実です」
一陽は思った。
やっぱり、生徒会なんてろくな場所じゃない。
――ただ。
少なくとも、ここにいる三人は、自分を噂だけで見ているわけではなさそうだった。




