第34話
月曜日。
朝の教室は、机の脚が床を擦る音や、椅子を引く音で絶えずざわめいていた。窓から差し込む白い光が、黒板の端や机の天板を細く照らし、舞い上がった埃を淡く浮かび上がらせている。あちこちで笑い声が弾み、廊下からは教師に呼び止められた生徒の声が聞こえた。
その中で、一陽は自分の席に座り、頬杖をついて窓の外を眺めていた。背中には、近くの席から向けられる視線が時折刺さる。誰かが小声で話すたび、その声が自分のことではないかと、耳だけが勝手に拾ってしまう。
「……眠い」
休日に少し歩きすぎた。商店街を回り、本屋に寄り、帰りには余計な菓子まで買わされた。
楽しかったのは間違いない。けれど、普段より人と話したせいか、妙に疲れていた。
「ハル」
背後から声がする。
「ん?」
振り返ると、照平が立っていた。
「何だ、その顔」
「月曜日の顔」
「意味分かんない」
「俺にも分からない」
照平は一陽の机に手をついた。
「昨日、何してた?」
「買い物」
「誰と?」
「人間」
「そういう聞き方してない」
「じゃあ、二足歩行する生命体」
「余計分かんねえよ」
そこへ咲がやって来た。
「朝から何やってるの?」
「ハルが会話を成立させてくれない」
「いつものことでしょ」
「咲までひどくない?」
「ハルだから」
「理由になってない」
三人で笑う。
「そういえば」
咲がふと思い出したように言った。
「杏ちゃん、今日は朝から元気だったよ」
「そうか」
「何かあったのかな」
「知らない」
「本当に?」
「本当に」
一陽が窓の外へ視線を戻した、そのときだった。
「一陽!」
教室の後ろから声がした。
杏だった。自分の教室が違うのに、わざわざ一陽の教室まで来たらしい。入口付近にいた何人かの生徒が振り返り、杏と一陽を交互に見ている。その視線に気づいても、杏はまるで気にしていなかった。
「何だ?」
「これ!」
杏が小さな袋を差し出す。
「何?」
「昨日買ったプリン」
「何で持ってきた」
「一陽に見せるため」
「食べたのか?」
「まだ」
「何で?」
「一陽が一緒に食べるって言ったから」
「……俺、そんな約束したか?」
「してない」
「じゃあ、何で待ってるんだよ」
「一陽なら一緒に食べてくれると思ったから」
「その信頼、別のところに使えないのか?」
「使えるよ」
「例えば?」
「一陽がまたプリン買ってくれるって信じる」
「悪化してる」
杏が笑う。教室の入口から見ていた咲も、つられて微笑んだ。
「元気そうじゃん」
「うん!」
杏は胸を張った。
「一陽がいるから!」
「……そういうことを堂々と言うな」
「何で?」
「恥ずかしい」
「一陽でも恥ずかしいことあるんだ」
「あるわ」
「意外」
「お前ら、俺を何だと思ってるんだ」
照平が横から口を挟む。
「問題解決屋」
「違う」
「人助け大好きマン」
「もっと違う」
「プリン屋」
「それは杏だけだろ」
「一陽、プリン屋なの?」
「違う!」
教室に笑い声が広がった。一陽も、つられて口元を緩める。周囲でこちらを見ていた生徒たちの視線も、いつの間にか別の会話や朝の支度へと散っていった。
学校での噂は、まだ消えていない。廊下を歩けば、視線を感じることもある。
けれど、こうして周りにいる人間たちは、以前と何も変わらない。
「一陽」
杏が袖を引く。
「ん?」
「今日も一緒に帰ろ」
「また?」
「また」
「前も言っただろ」
「今日も言う」
「……分かった」
「やった!」
杏が嬉しそうに笑う。
一陽は小さく息を吐いた。
「じゃあ、帰りにプリン買うか」
「本当!?」
「一個だけ」
「二個!」
「一個」
「二個!」
「一個半」
「そんなのあるの?」
「気持ちの問題だ」
「じゃあ二個!」
「交渉成立してないぞ」
また笑い声が起こる。
教室の窓から差し込む朝の光が、机の上を照らしていた。
以前と同じ学校。
以前と同じ日常。
ただ、一つだけ違う。
一陽の周りには、少しずつ自分のことを知ってくれる人が増えていた。
そして一陽自身も。
誰かに心配されることを、ほんの少しだけ。
悪くないと思い始めていた。




