第33話
休日。
夕暮れの駅前は、平日の学校とは違う賑わいを見せていた。
商店街の軒先には色とりどりの看板が並び、八百屋からは威勢のいい呼び声が響いている。焼き鳥の香ばしい匂いや、パン屋から漂う甘い香りが通りに混ざり、買い物袋を提げた家族連れや、友人同士で歩く人たちが行き交っていた。
制服姿の学生は少なく、代わりに休日を楽しむ人々の穏やかな表情が目立つ。
そんな中、海老名美月は駅前の時計を見上げていた。
「……本当に来るのでしょうか」
「来るって言ったんですから、きっと来ますよ」
隣にいた妹の凪が、明るく答える。
「大波君、約束には意外と律儀ですから」
「意外とって何?」
「普段は適当そうに見えるからです」
「それは分かるかも」
二人が話していると、商店街の入口から声がした。
「おーい」
振り返ると、一陽が立っていた。いつもの制服ではなく私服姿で、片手には小さな紙袋を持っている。
「大波君、その袋は何ですか?」
「秘密」
「食べ物ですか?」
一陽が黙る。
「図星ですね」
「鋭いな」
「……そういえば、最近学校で大変だったそうですね?」
一陽の動きが止まる。
「……誰から聞いたんですか?」
「学校の友達からです。『二年生でまた大波君が揉め事を起こした』って」
「またって何だよ」
「そこではないでしょう」
「噂なんて、だいたい脚色されてますよ」
「かなり悪い噂になっていると聞きました」
一陽は紙袋を持ち直した。
「まあ、ちょっとした行き違いですよ」
「本当に大丈夫ですか?」
一陽は一瞬だけ黙った。
「大丈夫大丈夫。俺、こう見えてメンタルだけは鋼ですから」
「本当ですか?」
「……アルミ」
「弱くなっています」
「じゃあチタン」
「微妙です」
凪が吹き出し、美月も口元を緩めた。
商店街のざわめきの中で、三人の声だけが近くに浮かんでいるようだった。
「そうやって誤魔化すところ、変わりませんね」
「誤魔化してないですって」
「では、学校で何があったのですか?」
「これは罠だろ」
「心配しているだけですよ」
その言葉だけは冗談ではなかった。
一陽は視線を逸らす。
「……心配するほどじゃないですよ。俺が学校で嫌われるのなんて、今に始まったことじゃないし」
美月の表情が曇る。
一陽はしまったと思い、すぐに言い直した。
「いや、今のは冗談。俺は人気者ですよ」
「無理があります」
「休日に先輩と後輩二人から気にかけてもらえるくらいには人気者」
「そういう意味ではありませんよ」
凪が吹き出した。
「大波先輩、気にかけられるとすぐ変なこと言いますよね」
「防衛機構なんだよ」
「便利なんですか?」
「本人には便利」
三人で笑った。
けれど、美月は一陽の横顔を見つめていた。
いつも通りに冗談を言っている。それが本当に平気だからなのか、平気なふりをしているだけなのか、美月には分からなかった。
駅前の時計が、夕暮れの空を背に静かに時を刻んでいる。周囲では、買い物を終えた人々が家路を急ぎ、店先では店員が片付けを始めていた。
穏やかな休日の景色の中で、一陽だけが、見えない何かを抱えたまま笑っているように見えた。
◇
「では、今日は何を買いましょうか?」
凪が話題を変える。
「俺は本屋に行きたい」
「また難しい本ですか?」
「普通の漫画」
「漫画も読むんですね」
「俺を何だと思ってるんだ」
「難しい本しか読まない人です」
「偏見だな」
「では、どんな漫画ですか?」
「秘密」
「またですか?」
「男には秘密が――」
「それはもういいです」
美月が遮った。
「先に服を見ましょうか」
「俺、服そんなに興味ないんですけど」
「知っています。ですから、連れてきたんです」
「横暴だな」
三人で商店街を歩く。
古い喫茶店の窓から漏れる明かりを覗き、店先に並んだ小物を眺め、くだらない話をしながら、ときどき一陽が荷物を持たされる。夕暮れに染まったアーケードの下で、三人の歩調は自然と揃っていた。
学校では、一陽を見る目が変わった。噂も消えていない。
けれど今だけは、そのことを考えずにいられた。
美月と凪の話し声を聞いている間だけ、胸の奥に沈んだ重さが遠のいていく。
「大波君」
「ん?」
「学校のこと、本当に無理しないでくださいね。私たちに話してくださってもいいですから」
一陽は口元を緩めた。
「大丈夫ですよ」
「またそれですか?」
「本当に大丈夫ですから」
「では、無理な時はちゃんと誰かに頼ると約束してください」
一陽は困ったように頭を掻いた。
「それは難しいな」
「人に頼るのが苦手だからですか?」
「……よく分かりましたね」
「だから申し上げているんです」
一陽は黙り、それから小さく息を吐いた。
「……善処します」
「それ、絶対やらない人の言い方です」
「よく分かりましたね」
美月が呆れたように息をつく。
「でも、何と言われても気にかけますからね」
「それは困る」
「どうしてですか?」
「気にかけられると罪悪感が発生する」
「そこまで考えなくていいですよ」
「では、俺が代わりにアイスを買います」
「何でそうなるんですか?」
「罪滅ぼし」
「意味が分かりません」
「俺にも分からないです」
凪が笑い出し、三人の声が商店街に響いた。
店じまいを始めた店先の明かりが、三人の足元を柔らかく照らしている。その穏やかな光景とは裏腹に、一陽の胸の奥には、学校で向けられた視線や、杏の不安そうな顔が残っていた。
それでも、今は二人の表情を曇らせたくなかった。
◇
帰り道、駅へ向かう途中で、美月がふと口を開いた。
「大波君」
「はい」
「杏さんという子……大波君のことを気にかけていると聞きました」
一陽が足を止める。
夕暮れの駅前には、帰宅する人々の足音と、電車の到着を知らせるアナウンスが重なっていた。商店街の看板には明かりが灯り始め、昼間とは違う静かな賑わいが広がっている。
「自分のせいで、大波君が悪く言われているのではないかと」
一陽はしばらく黙っていた。
「……あいつ、そういうところだけ妙に真面目なんだよな」
「……そうですね」
一陽は口元を緩めた。
「プリン一個買えば忘れるだろ」
「そんな簡単ではないと思いますけど」
「では、二個にしましょう」
「増やせばいいという話ではありませんよ」
美月が吹き出す。
「分かってますって」
けれど、美月には分かっていた。
一陽は冗談で話を逸らしただけだ。本当は、杏が自分のことで傷ついていることも、学校でどう見られているのかも、かなり気にしている。
駅前を行き交う人々は、それぞれの帰る場所へ向かっている。家族と並んで歩く人、誰かに電話をかける人、買い物袋を抱えて急ぐ人。その中で、一陽は二人と歩きながら、誰にも見せない不安を抱えていた。
「……大波君」
「何ですか?」
「ありがとうございます」
「何が?」
「いえ、何でもありません」
「それ、一番気になるやつだろ」
「では、秘密です」
「先輩までそれ言うのかよ」
二人が笑う。
少し前を歩いていた凪も振り返り、笑顔を見せた。
一陽もいつものように笑っていた。何も問題などないように。
けれど、その奥には、誰にも見せない疲れが残っていた。
それでも一陽は口にしなかった。
気にかけられるくらいなら、自分が冗談を言っていたほうがいい。
そう思っているからだ。
「では、次はどこに行きますか?」
「大波君、まだ帰らないの?」
「休日を無駄にするのはもったいないですよ」
「さっき疲れたって言ってなかった?」
「気のせい」
「絶対嘘です」
「先輩、俺のこと疑いすぎ」
「信用しているから気にかけているんです」
一陽は一瞬だけ黙り、それから口元を緩めた。
「それ、一番困るな」
また三人の声が響く。
夕暮れの駅前では、商店街の明かりが一つ、また一つと灯っていった。
その穏やかな光の中で、三人は並んで歩いている。
その日だけは、一陽も少しだけ、誰かに気にかけられることを悪くないと思っていた。




