第32話
放課後。
一陽が教室を出ると、廊下の窓際に見慣れた姿があった。傾きかけた陽の光が窓から差し込み、床に細長い影を落としている。遠くでは部活動へ向かう生徒たちの声や、階段を駆け下りる足音が、少しずつ薄れていた。
「一陽君」
呼びかけに、一陽は足を止めた。
「美琴?」
三芳美琴だった。
美琴は一陽を見ると、控えめに手を振った。窓の隙間から入り込んだ夕方の風が、彼女の髪をかすかに揺らす。
「待ってたのか?」
「うん。杏ちゃんも一緒」
「杏?」
一陽が眉を寄せ、廊下の先を見回す。
「いないけど」
「さっきまでいたんだけど……」
美琴は困ったように笑い、少しだけ肩をすくめた。
「甘い物の匂いがするって、購買のほうに行っちゃった」
「……あいつは犬か?」
「たぶん、犬より分かりやすいよ」
美琴がくすりと笑う。
「否定できないな」
一陽はため息をつきながら歩き出した。美琴もその隣に並ぶ。二人の靴音が、人気の薄れた廊下に小さく重なった。
「ところで、一陽君」
「ん?」
短い返事だけを返し、一陽は前を向いた。
「杏ちゃん、最近すごく一陽君に懐いてるよね」
「そうか?」
「うん。見てれば分かるよ」
「まあ……何でだろうな」
「一陽君は分かってないの?」
「全然」
即答だった。
美琴は一陽の横顔を見て、ふっと笑う。
「たぶん、杏ちゃんは一陽君が思ってるより、一陽君のことをちゃんと見てるんだと思う」
一陽の足が、ほんのわずかに緩む。
「……」
「だから、表面だけ見て『怖い人』って言う人達とは違うんじゃないかな」
「俺、そんなに怖いか?」
少し間を置いてから、一陽が尋ねる。
「怖いというより……」
美琴は視線を上に向け、言葉を選ぶように考えた。
「面倒」
「おい」
「褒めてるよ」
「絶対違う」
「でも、優しいとは思う」
「……またそれか」
一陽は露骨に顔をしかめた。
「最近、俺のことを善人扱いする奴が多すぎる」
「善人じゃないの?」
「俺は普通の人間だ」
「普通の人は、あんな方法で問題を解決しないと思うけど」
「……」
「自分が嫌われる方法を選んでまで、杏ちゃんを守ったりもしないよ」
「結果的にそうなっただけだ」
「それを自己犠牲っていうんじゃないかな」
「違う」
「じゃあ、何?」
美琴が穏やかな調子で問いかける。
一陽はしばらく黙っていた。窓の外へ視線を逃がし、夕日に照らされた校庭を眺める。やがて、いかにも真面目に考えたような顔で答えた。
「……必要経費」
「人間関係を?」
「そう」
「変な人」
「よく言われる」
美琴が声を立てて笑った。その声が静まり始めた廊下に柔らかく響く。
「でも、そういうところが杏ちゃんには分かりやすいのかもね」
「どういう意味だ?」
「一陽君、言葉では突き放すのに、行動は全然違うから」
「……余計な分析をするな」
「図星?」
「違う」
「じゃあ、否定するのが早すぎるよ」
一陽が言い返そうとした、その時。
「一陽!」
廊下の向こうから杏が走ってきた。ぱたぱたと軽い足音が近づき、手にした袋が大きく揺れている。
「おかえり!」
「どこ行ってたんだよ」
一陽が呆れた声を向ける。
「プリン探してた!」
「今日はもう食べただろ」
「これは明日の分!」
「先取りするな」
「明日の楽しみを今日買っただけ!」
「それを先取りって言うんだ」
杏は一陽の隣まで来ると、息を弾ませたまま、当然のようにその手を繋いだ。走ってきたばかりの杏から、甘い菓子の匂いと、外気を含んだ少し冷たい風の気配がした。
「一陽、帰ろ!」
「……お前な」
「何?」
「距離感」
「近い?」
杏は手を繋いだまま、顔だけを一陽へ向ける。
「かなり」
「嫌?」
一陽は答えず、視線だけを前へ戻した。
「……別に」
「じゃあ、いいね!」
杏は満足そうに笑った。
美琴が口元を押さえ、肩を小さく震わせる。
「美琴、笑うな」
「ごめん。でも、今のは一陽君の負けだよ」
「勝負してない」
「一陽はいつも負けてるよ」
「杏、お前まで……」
「だって、私が勝つから!」
杏は得意げに袋を掲げた。中のプリンが危うく傾き、一陽が反射的に袋の底を支える。
「ほら、そういうところ」
美琴が静かに指摘する。
「何がだ」
「何でもないよ」
「絶対何かあるだろ」
「じゃあ、三人で帰ろうか」
美琴が話題を切り替えるように歩き出す。
「待て」
一陽がすぐに口を挟む。
「俺に拒否権は?」
「ない!」
杏が間髪入れずに答えた。
「一陽君、諦めたほうがいいよ」
「美琴まで杏側か」
「杏ちゃん側だけど、一陽君の味方でもあるよ」
美琴は少し首を傾げて、穏やかに付け加えた。
「……複雑だな」
「じゃあ、一陽は私たちの真ん中ね」
「それは最初から決まってるのか?」
「うん!」
「勝手に決めるな」
文句を言いながらも、一陽は二人の歩幅に合わせて歩き出した。
途中、杏が美琴のほうへ身を乗り出した。
「ねえ、美琴」
「何?」
「一陽って、会った時からこんな感じ?」
「最初からこうだったよ」
美琴は即答した。
「やっぱり?」
「うん。会った時から、困ってる人を見ると放っておけないくせに、助けたあとで『別に』って顔をするんだよね」
「三芳さん」
「違う?」
「……話を盛るな」
「盛ってないよ」
杏は一陽を見上げ、少し考えるように首を傾げた。
「でも私が会った時から、評判悪かったよね?」
「一陽君のことを知らないからじゃないかな」
「そっか」
杏は歩きながら、しばらく黙り込んだ。やがて、ぱっと顔を上げる。
「じゃあ、私が教えてあげる」
「何を?」
「一陽は怖くないって!」
「やめろ」
一陽が低い声で遮る。
「何で?」
「余計なことをするな」
「でも、本当のことだよ」
「本当のことでも、言わなくていいことはある」
「変なの」
杏は頬を膨らませた。
「一陽君は、知られるのが苦手なんだよ」
美琴がぽつりと言う。
「何をだ」
「優しいところ」
「だから、優しくない」
「はいはい」
「流すな」
美琴は笑いながらも、それ以上は追及しなかった。その代わり、少し先に見えた校門へ視線を向ける。
「そういえば、杏ちゃん。プリン、家に着くまでに食べないでね」
「食べないよ。明日の分だから」
「さっき一陽君に言ってたね」
「私はちゃんと守るもん」
「信用できないな」
一陽が呟く。
「一陽、私のこと信用してないの?」
杏が足を止めかける。
一陽は一瞬だけ黙り、杏の手にある袋へ目を落とした。
「……人に悪い事をしないことは信用してる」
「そこだけ?」
「そこだけだ」
「じゃあ、他は信用してないんだ!」
「そういう意味じゃない」
「でも、そう聞こえたよ」
杏がわざとらしく怒る。美琴は二人のやり取りを見て、今度は声を立てずに微笑んだ。
少し前まで、杏は周囲の人間を警戒していた。
誰かに近づかれることにも、どこか慎重だった。
それなのに。
一陽に対してだけは、まるで昔から知っているように自然だった。
「……一陽君」
「ん?」
「杏ちゃんのこと、よろしくね」
美琴の声は、さっきまでより少しだけ静かだった。
一陽は一瞬だけ杏を見る。
杏は何も気づかず、購買で買った小さな袋を覗き込んでいた。袋の中で容器がかすかに触れ合い、控えめな音を立てる。
「……まあ」
一陽は苦笑した。
「俺が面倒を見るというより、みんなで面倒見てる気もするけどな」
「それはそうかも」
「美琴ひどい!」
杏がすぐに振り向く。
「ごめん、杏ちゃん」
美琴は笑いながら、軽く頭を下げた。
「でも、杏ちゃんが一陽君を見てるように、一陽君も杏ちゃんを見てるよ」
「美琴」
「今度は何だ」
「何でもないよ」
三人の笑い声が昇降口に響いた。外へ出ると、空は淡い橙色から紫色へゆっくりと移り変わり、校舎の窓には夕日が最後の光を残していた。昼間の熱を失った空気が頬を撫で、遠くで自転車のベルが一度だけ鳴る。
そのまま三人は、夕暮れの道を並んで歩いていった。
杏は一陽の手を繋いだまま、時折楽しそうに袋を揺らしている。美琴は二人の少し隣を歩きながら、穏やかな声で話しかけていた。一陽は短い返事を返しつつも、杏が転ばないよう歩幅をわずかに緩めている。
「ねえ、一陽」
「何だ」
「明日も一緒に帰ろうね」
「明日の予定がなかったらな」
「明日、なんか予定あるの?」
「あるかもしれないだろ」
「でも、帰るんでしょ?」
一陽は答えず、ほんの少しだけ歩幅を緩めた。
「ほら」
美琴が小さく笑う。
「何がだ」
「ううん。何でもない」
杏は満足そうに一陽の腕へ頬を寄せた。
三人の足音が、薄暗くなり始めた道に穏やかに重なっていく。
いつもと変わらない、穏やかな帰り道だった。




