↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
俺は善人なんかじゃない  作者: エクレアだった物
日常編2

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
32/54

第32話

放課後。


 一陽が教室を出ると、廊下の窓際に見慣れた姿があった。傾きかけた陽の光が窓から差し込み、床に細長い影を落としている。遠くでは部活動へ向かう生徒たちの声や、階段を駆け下りる足音が、少しずつ薄れていた。


「一陽君」


 呼びかけに、一陽は足を止めた。


「美琴?」


 三芳美琴だった。


 美琴は一陽を見ると、控えめに手を振った。窓の隙間から入り込んだ夕方の風が、彼女の髪をかすかに揺らす。


「待ってたのか?」


「うん。杏ちゃんも一緒」


「杏?」


 一陽が眉を寄せ、廊下の先を見回す。


「いないけど」


「さっきまでいたんだけど……」


 美琴は困ったように笑い、少しだけ肩をすくめた。


「甘い物の匂いがするって、購買のほうに行っちゃった」


「……あいつは犬か?」


「たぶん、犬より分かりやすいよ」


 美琴がくすりと笑う。


「否定できないな」


 一陽はため息をつきながら歩き出した。美琴もその隣に並ぶ。二人の靴音が、人気の薄れた廊下に小さく重なった。


「ところで、一陽君」


「ん?」


 短い返事だけを返し、一陽は前を向いた。


「杏ちゃん、最近すごく一陽君に懐いてるよね」


「そうか?」


「うん。見てれば分かるよ」


「まあ……何でだろうな」


「一陽君は分かってないの?」


「全然」


 即答だった。


 美琴は一陽の横顔を見て、ふっと笑う。


「たぶん、杏ちゃんは一陽君が思ってるより、一陽君のことをちゃんと見てるんだと思う」


 一陽の足が、ほんのわずかに緩む。


「……」


「だから、表面だけ見て『怖い人』って言う人達とは違うんじゃないかな」


「俺、そんなに怖いか?」


 少し間を置いてから、一陽が尋ねる。


「怖いというより……」


 美琴は視線を上に向け、言葉を選ぶように考えた。


「面倒」


「おい」


「褒めてるよ」


「絶対違う」


「でも、優しいとは思う」


「……またそれか」


 一陽は露骨に顔をしかめた。


「最近、俺のことを善人扱いする奴が多すぎる」


「善人じゃないの?」


「俺は普通の人間だ」


「普通の人は、あんな方法で問題を解決しないと思うけど」


「……」


「自分が嫌われる方法を選んでまで、杏ちゃんを守ったりもしないよ」


「結果的にそうなっただけだ」


「それを自己犠牲っていうんじゃないかな」


「違う」


「じゃあ、何?」


 美琴が穏やかな調子で問いかける。


 一陽はしばらく黙っていた。窓の外へ視線を逃がし、夕日に照らされた校庭を眺める。やがて、いかにも真面目に考えたような顔で答えた。


「……必要経費」


「人間関係を?」


「そう」


「変な人」


「よく言われる」


 美琴が声を立てて笑った。その声が静まり始めた廊下に柔らかく響く。


「でも、そういうところが杏ちゃんには分かりやすいのかもね」


「どういう意味だ?」


「一陽君、言葉では突き放すのに、行動は全然違うから」


「……余計な分析をするな」


「図星?」


「違う」


「じゃあ、否定するのが早すぎるよ」


 一陽が言い返そうとした、その時。


「一陽!」


 廊下の向こうから杏が走ってきた。ぱたぱたと軽い足音が近づき、手にした袋が大きく揺れている。


「おかえり!」


「どこ行ってたんだよ」


 一陽が呆れた声を向ける。


「プリン探してた!」


「今日はもう食べただろ」


「これは明日の分!」


「先取りするな」


「明日の楽しみを今日買っただけ!」


「それを先取りって言うんだ」


 杏は一陽の隣まで来ると、息を弾ませたまま、当然のようにその手を繋いだ。走ってきたばかりの杏から、甘い菓子の匂いと、外気を含んだ少し冷たい風の気配がした。


「一陽、帰ろ!」


「……お前な」


「何?」


「距離感」


「近い?」


 杏は手を繋いだまま、顔だけを一陽へ向ける。


「かなり」


「嫌?」


 一陽は答えず、視線だけを前へ戻した。


「……別に」


「じゃあ、いいね!」


 杏は満足そうに笑った。


 美琴が口元を押さえ、肩を小さく震わせる。


「美琴、笑うな」


「ごめん。でも、今のは一陽君の負けだよ」


「勝負してない」


「一陽はいつも負けてるよ」


「杏、お前まで……」


「だって、私が勝つから!」


 杏は得意げに袋を掲げた。中のプリンが危うく傾き、一陽が反射的に袋の底を支える。


「ほら、そういうところ」


 美琴が静かに指摘する。


「何がだ」


「何でもないよ」


「絶対何かあるだろ」


「じゃあ、三人で帰ろうか」


 美琴が話題を切り替えるように歩き出す。


「待て」


 一陽がすぐに口を挟む。


「俺に拒否権は?」


「ない!」


 杏が間髪入れずに答えた。


「一陽君、諦めたほうがいいよ」


「美琴まで杏側か」


「杏ちゃん側だけど、一陽君の味方でもあるよ」


 美琴は少し首を傾げて、穏やかに付け加えた。


「……複雑だな」


「じゃあ、一陽は私たちの真ん中ね」


「それは最初から決まってるのか?」


「うん!」


「勝手に決めるな」


 文句を言いながらも、一陽は二人の歩幅に合わせて歩き出した。


 途中、杏が美琴のほうへ身を乗り出した。


「ねえ、美琴」


「何?」


「一陽って、会った時からこんな感じ?」


「最初からこうだったよ」


 美琴は即答した。


「やっぱり?」


「うん。会った時から、困ってる人を見ると放っておけないくせに、助けたあとで『別に』って顔をするんだよね」


「三芳さん」


「違う?」


「……話を盛るな」


「盛ってないよ」


 杏は一陽を見上げ、少し考えるように首を傾げた。


「でも私が会った時から、評判悪かったよね?」


「一陽君のことを知らないからじゃないかな」


「そっか」


 杏は歩きながら、しばらく黙り込んだ。やがて、ぱっと顔を上げる。


「じゃあ、私が教えてあげる」


「何を?」


「一陽は怖くないって!」


「やめろ」


 一陽が低い声で遮る。


「何で?」


「余計なことをするな」


「でも、本当のことだよ」


「本当のことでも、言わなくていいことはある」


「変なの」


 杏は頬を膨らませた。


「一陽君は、知られるのが苦手なんだよ」


 美琴がぽつりと言う。


「何をだ」


「優しいところ」


「だから、優しくない」


「はいはい」


「流すな」


 美琴は笑いながらも、それ以上は追及しなかった。その代わり、少し先に見えた校門へ視線を向ける。


「そういえば、杏ちゃん。プリン、家に着くまでに食べないでね」


「食べないよ。明日の分だから」


「さっき一陽君に言ってたね」


「私はちゃんと守るもん」


「信用できないな」


 一陽が呟く。


「一陽、私のこと信用してないの?」


 杏が足を止めかける。


 一陽は一瞬だけ黙り、杏の手にある袋へ目を落とした。


「……人に悪い事をしないことは信用してる」


「そこだけ?」


「そこだけだ」


「じゃあ、他は信用してないんだ!」


「そういう意味じゃない」


「でも、そう聞こえたよ」


 杏がわざとらしく怒る。美琴は二人のやり取りを見て、今度は声を立てずに微笑んだ。


 少し前まで、杏は周囲の人間を警戒していた。


 誰かに近づかれることにも、どこか慎重だった。


 それなのに。


 一陽に対してだけは、まるで昔から知っているように自然だった。


「……一陽君」


「ん?」


「杏ちゃんのこと、よろしくね」


 美琴の声は、さっきまでより少しだけ静かだった。


 一陽は一瞬だけ杏を見る。


 杏は何も気づかず、購買で買った小さな袋を覗き込んでいた。袋の中で容器がかすかに触れ合い、控えめな音を立てる。


「……まあ」


 一陽は苦笑した。


「俺が面倒を見るというより、みんなで面倒見てる気もするけどな」


「それはそうかも」


「美琴ひどい!」


 杏がすぐに振り向く。


「ごめん、杏ちゃん」


 美琴は笑いながら、軽く頭を下げた。


「でも、杏ちゃんが一陽君を見てるように、一陽君も杏ちゃんを見てるよ」


「美琴」


「今度は何だ」


「何でもないよ」


 三人の笑い声が昇降口に響いた。外へ出ると、空は淡い橙色から紫色へゆっくりと移り変わり、校舎の窓には夕日が最後の光を残していた。昼間の熱を失った空気が頬を撫で、遠くで自転車のベルが一度だけ鳴る。


 そのまま三人は、夕暮れの道を並んで歩いていった。


 杏は一陽の手を繋いだまま、時折楽しそうに袋を揺らしている。美琴は二人の少し隣を歩きながら、穏やかな声で話しかけていた。一陽は短い返事を返しつつも、杏が転ばないよう歩幅をわずかに緩めている。


「ねえ、一陽」


「何だ」


「明日も一緒に帰ろうね」


「明日の予定がなかったらな」


「明日、なんか予定あるの?」


「あるかもしれないだろ」


「でも、帰るんでしょ?」


 一陽は答えず、ほんの少しだけ歩幅を緩めた。


「ほら」


 美琴が小さく笑う。


「何がだ」


「ううん。何でもない」


 杏は満足そうに一陽の腕へ頬を寄せた。


 三人の足音が、薄暗くなり始めた道に穏やかに重なっていく。


 いつもと変わらない、穏やかな帰り道だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。