第31話
昼休み。
一陽は購買部の前でパンの棚を眺めていた。
「一陽。私の分は?」
「俺の昼飯」
「じゃあ、何で見てるの?」
「買う前提で話すな」
「前に買ってくれたじゃん」
「一回だけだ」
「実績は実績」
「強引だな」
杏は当然の顔をしている。少し前まで周囲の視線に怯えていたとは思えない、いつもの杏だった。けれど一陽には、その明るさが無理をしているようにも見えた。
「で、何買ってくれるの?」
「買うとは言ってない」
「一陽。お願い」
妙に素直な声に、一陽は弱かった。廊下の奥から視線を感じる。自分の指がわずかに強く握られたのを見て、一陽は半歩ずれて杏を人の流れから隠した。
「……一個だけな」
「やった。プリン!」
「即答かよ」
「プリンは裏切らないから」
「なんだその格言は」
一陽はプリンを取り、杏に渡した。
「ありがとう、一陽」
杏はほっと息を吐き、一陽の隣を歩き出す。肩が腕に触れても離れず、袖をそっとつまんだ。
「最近、私と一緒にいると見られるよね」
一陽の足が止まる。
「……まあな」
「嫌じゃない?」
「別に」
「嘘。顔に出てる」
「観察力だけ高いな」
杏が俯く。
「ごめん」
「その話、今日はなし」
「他人の目線を気にするほど暇じゃない」
「暇そうだけど」
「失礼だな」
一陽は歩き出した。杏は何も言わず、袖をつまんだままだった。
「じゃあ、何するの?」
「プリンを食べる」
「私が?」
「お前が」
「一陽は?」
「見てる」
「それ、楽しい?」
「人の幸せを見るのが趣味だ」
「変なの」
杏が笑った。まだ少し硬い笑い方だったが、一陽もつられて笑った。
◇
中庭の人気がないベンチに座ると、杏はさっそくプリンを食べ始めた。
「おいしい……一口食べる?」
「いらない」
「じゃあ、あーん」
「何でそうなる」
一陽は差し出されたスプーンを押し返した。
「自分で食え」
「ケチ」
「どうゆうことだよ…」
杏は一口食べてから、一陽を見た。表情は戻っていたが、校舎の窓を誰かが通るたび、視線だけがそちらへ向く。
「一陽ってさ、優しいよね」
「やめろ」
「何で?」
「似合わない」
「でも優しい」
「聞かなかったことにする」
「無理」
杏が笑う。
その時、中庭の前を通った生徒が一陽をちらりと見た。小さな声を交わして去っていく。杏の笑顔が曇り、スプーンを持つ手が止まった。
「……また言われるかな」
「何を?」
「一陽が怖いって」
「言わせとけばいい」
「でも、一陽まで……」
「俺が気にしてない」
一陽はベンチの端に手を載せて冗談めかして言った。
「オーラが出てるんだよ強大なヤツが、俺のコスモよ」
「変な一陽」
「そうか?」
「うん」
杏は少し笑ったが、目の奥にはまだ不安が残っていた。一陽は、せめて自分のそばにいる間だけでも、杏が怯えずに済めばいいと思った。
杏は一陽の小指にそっと手を置いた。触れるか触れないかの距離で、一陽のそばにいることを確かめるように。
「じゃあ、私も怖がらせる」
「誰を?」
「一陽」
「どうやって?」
「プリン。あと、また甘いもの買ってもらう」
「目的が小さい上に図々しいな」
「一陽だからいい」
「理由になってない」
杏は楽しそうに笑った。今度の笑顔には、作ったような硬さがなかった。
その笑顔を見ていると、一陽は思う。
――これでいい。
杏が普通に笑えるなら、自分が多少悪く思われるくらい、安いものだ。
ベンチの上で、一陽の手がゆっくり握られる。
気づいた杏が、何も言わずに一陽の袖をつまんだ。
「……一陽」
「ん?」
「私、一陽のこと嫌いにならないからね」
「急に何だよ」
「宣言」
「必要ないだろ」
「必要」
杏は真剣な顔をした。
「みんなが一陽のこと怖いって言っても、私は怖くない」
「そうか」
「むしろ……プリン買ってくれる人」
「評価が低すぎる」
「あと、私が困った時に助けてくれる人」
一陽は黙った。胸の奥が熱くなったが、悟られたくなかった。
「……それだけでいいよ」
杏は笑った。
「私は一陽の味方だから」
一陽は照れ隠しに目を逸らす。
「……プリン一個で買収された奴に言われてもな」
「じゃあ二個」
「そういう問題じゃない」
「三個」
「増やすな」
二人で笑った。
窓から入る昼の光。騒がしい教室。くだらない会話。
周囲の視線はまだ消えない。それでも杏は、一陽の隣で笑っている。一陽はその笑顔を守るように、袖をつまむ指をそっと受け止めた。
「一陽」
「何?」
「放課後も一緒に帰ろ」
「……いいけど」
「やった」
「ただし」
「うん?」
「今日はプリン禁止な」
「えー!」
「一日一個」
「一陽のケチ!」
「健康管理だ」
「絶対嘘!」
中庭に杏の声が響く。
一陽は笑った。
杏の笑顔と中庭の木々から差し込む昼の光に包まれながら、二人はそのまま穏やかな時間を過ごした。




