第30話
杏の件が一段落してから、数日。
学校には、以前とは少し違う空気が流れていた。
一陽が廊下を歩けば、視線が向けられる。
ひそひそとした声も聞こえる。
「……あれ、大波だろ」
「羽生田の件で、かなり揉めた奴」
「正論で人を追い詰めるって聞いた」
「怖いよな」
一陽は聞こえていないふりをして歩いていた。
別に、慣れている。
――というほど、強くはない。
正直に言えば、普通に傷つく。
ただ、それを顔に出さないだけだ。
「……俺って、いつの間にか校内有名人になったな」
小さく呟いた。
「悪い意味でな」
横から声がした。
「うわ」
一陽が振り向く。
照平がいた。
「いたのかよ」
「ずっといた。お前が一人で反省会してるから、邪魔しないようにしてた」
「人を変な奴みたいに言うな」
「自分で『校内有名人』って言ってたじゃん」
「自己評価だ」
「悪評込みの?」
「そこは拾うな」
照平が笑う。
その笑い方は、以前と何も変わっていなかった。
それが一陽には少しだけありがたかった。
「しかし、お前も災難だったな」
「何が?」
「学校中で怖い奴扱い」
「別に」
「その顔で?」
「どんな顔だよ」
「『気にしてません』って顔」
「具体的すぎるだろ」
そこへ、後ろから声が飛んできた。
「二人とも朝から何やってるの?」
「咲か」
新倉咲が呆れたような顔で立っていた。
「おはよう」
「おはよう、咲」
「ハル、また照平とくだらないことしてるの?」
「俺は巻き込まれただけ」
「お前から話しかけてきただろ」
「そうだっけ?」
「そうだよ」
咲がため息をついた。
「相変わらずね」
三人で歩き出す。
それだけだった。
何か特別なことが起こるわけでもない。
けれど、一陽は少しだけ安心していた。
自分を見る目が変わっても。
学校中で悪い噂が流れても。
この二人だけは、何も変わらない。
「そういえばハル」
咲が言った。
「ん?」
「杏ちゃんのことだけど」
一陽の足が少しだけ止まる。
「……杏がどうかした?」
「最近、前より元気になってきたみたい」
「そうか」
「でもね。ハルのこと、かなり気にしてるらしいよ」
「……」
「『一陽が悪者になったのは私のせい』って」
一陽は頭を掻いた。
「本人に言われたら困るな」
「何で?」
「そういう湿っぽい話、苦手なんだよ」
「じゃあ、杏ちゃんにちゃんと説明すれば?」
「ん?今のダジャレか?」
無言で咲が照平に肘打ちを食らわせていた。
「『お前のせいじゃない』って?」
「それ以外に何があるの?」
一陽は少し考えた。
「……それはもう言った」
「信じてないんじゃない?」
「だろうな」
咲が一陽を見る。
「じゃあ、どうするの?」
一陽は少しだけ笑った。
「甘い物でも食わせれば、少しは元気になるだろ」
「杏ちゃんを何だと思ってるの?」
「甘い物で機嫌が直るベイビー杏」
「否定できないのが悔しい」
照平が横から口を挟む。
「じゃあ今日、何か買ってやれば?」
「なんで俺が」
「責任感じてるんだろ?」
「……」
一陽は黙った。
「ハル」
咲が笑う。
「図星?」
「うるさい」
三人の間に笑い声が広がった。
廊下を歩いている生徒たちが、こちらを見る。
その視線には、以前とは違うものも混じっていた。
警戒。
好奇心。
そして、少しの距離。
けれど。
一陽の隣には照平がいる。
反対側には咲がいる。
それだけで十分だった。
「……まあ」
一陽が呟く。
「悪評ってのも、案外悪くないかもな」
「何で?」
「こうして堂々と駄弁ってても、『大波なら何か企んでる』って勝手に思ってくれる」
「それ、サボるために使うなよ」
「便利だぞ」
「使うな」
咲が呆れたように笑う。
照平も笑う。
一陽も笑った。
その笑い声は、久しぶりに何も考えずに出たものだった。




