第29話 第三章完
翌日の昼休み。
二年二組の教室は、いつもより妙に静かだった。
一陽が席に座っていると、廊下を通る生徒たちがこちらを見ている。
「……あれが大波?」
「そう。蓮田の件で羽生田に謝らせたっていう」
「怖くない?」
「正論ばっか言う奴って、一番面倒じゃね?」
聞こえてくる声に、一陽は反応しなかった。以前なら腹を立てていたかもしれない。今は、杏への視線が減っていることのほうが重要だった。
杏の名前が噂に出る回数は明らかに減り、代わりに――大波一陽という名前が増えていた。
「……これでいい」
一陽が呟くと、美琴が教室の入口から声をかけた。
「一陽君。杏ちゃん、昨日よりは普通にしてる。でも、一陽君のことをすごく気にしてる。自分のせいだって」
「それは違う」
「うん。私もそう言った」
一陽は少し考えた。
「三芳さん。杏を二年一組から連れ出してくれ」
「え? 何をするつもり?」
「今日は、できるだけ人目の少ないところにいてほしい」
一陽は二年一組へ続く廊下を見た。そこには莉奈と、いつものように笑う生徒たちがいる。
「俺が終わらせる」
「また一人で?」
「今回は違う」
一陽は歩き出した。
「今度は、隠れてる奴らも全部表に出す」
*
二年一組。
昼休みの教室では、女子数人が机を囲み、その中心で莉奈が困ったように笑っていた。
「だから、私も困ってるんだよね。杏ちゃんと仲良くしたいとは思ってたんだけど……」
「莉奈は悪くないよ」
「そうそう」
「むしろ杏のほうが――」
「羽生田莉奈」
教室の入口から声が響いた。
全員が振り返る。
一陽が立っていた。教室のざわめきが途切れ、莉奈の周囲にいた女子たちも笑顔を消した。
「……大波?」
「何しに来たの?」
不安げな声が重なる。
莉奈だけは静かだった。いつもの笑顔を浮かべているが、膝の上で組んだ指はきつく絡んでいた。
「大波君。どうしたの?」
一陽は教室へ入り、莉奈の前まで歩いた。
「お前に話がある」
「私?」
「そう」
莉奈は笑顔を崩さず、一陽を見上げた。その静けさが、かえって緊張を際立たせる。
一陽は教室全体を見渡した。
「その前に、全員に聞く」
誰かが息を呑み、椅子が小さく軋んだ。
「蓮田杏への嫌がらせをやった奴。机の中を荒らした奴。上履きや持ち物を隠した奴。杏の悪口を広めた奴」
誰も答えない。
「そして、それを知っていて何もしなかった奴」
何人かが目を逸らした。
「……何だよ」
男子生徒の一人が言った。
「見てただけなら関係ないだろ」
一陽はその生徒を見る。
「関係ない?」
「俺、何もしてないし」
「じゃあ聞く。杏が一人で泣いてるのを見た時は? 机の中身を廊下に出されていた時は? 誰かが『蓮田ってウザいよね』と笑っていた時は?」
「……何もしなかった」
「そうだな。何もしなかった」
その言葉が教室に落ちた。
「それを俺は、無関係とは呼ばない」
「は?」
「見ていたのに止めなかったなら、この状況を成立させた一人だ」
「そんなの屁理屈だろ!」
「じゃあ聞く。お前らが何もしなかったことで、杏は助かったのか?」
誰も答えない。
「違うだろ。お前らが何もしなかったから、やった奴は続けられた。だったら、傍観者もこの問題の一部だ」
「お前に何が分かるんだよ!」
「分からない。だから聞いてる」
一陽は教室を見渡した。
「でも、分からないことを理由に何もしないなら、後から被害者面するな」
空気が凍る。
「『怖くて言えなかった』『関係ないと思った』『逆らったら自分が標的になるから』。全部、理由としては理解できる。でも、理由があることと、責任がないことは別だ」
「……なんなんだよ、こいつ」
「自分だって問題起こしてるくせに」
「正義の味方気取り?」
一陽は莉奈を見る。
「そう思えばいい。俺を嫌いになればいい」
「……は?」
「その代わり、今から言うことだけは聞け」
教室中の視線が集まる。
「今回のいじめの主犯は――羽生田莉奈だ」
教室が騒然となった。
「……え?」
「莉奈が?」
「何言ってんの?」
「証拠あるの?」
莉奈は驚いたように目を見開いた。笑顔を作ろうとした唇がわずかに震えている。
「大波君……何を言ってるの?」
「お前が噂を作った。スクリーンショットを加工し、杏が言っていないことを言ったように見せた。人を使って噂を流し、杏の人間関係を一つずつ切った」
「証拠は?」
莉奈が初めて強い口調になった。
「証拠はあるの?」
一陽は黙った。
その沈黙に、莉奈の目に一瞬だけ安堵が浮かぶ。
「みんな、聞いたよね? 私はそんなことしてない。大波君が私を悪者にしようとしてるだけ」
「違う!」
別の女子が声を上げた。
「私、莉奈から杏の話を聞いたことがある。『杏って大波君を使って羽生田さんを悪者にしようとしてる』って」
「私も」
「私も……」
一人、また一人と声が出始める。
莉奈の顔から笑顔が消えた。
「……みんな、どうしたの?」
「莉奈」
一陽がスマートフォンを取り出した。
「お前が噂を流した時間と、杏への嫌がらせが起きた時間は妙に一致してる」
「それだけで私が犯人になるの?」
「ならない。だから確認した」
「……」
「でも、お前は嘘をついた。『杏が莉奈を追い出そうとした』という話を杏本人に確認した。杏は言っていない」
莉奈は画面から視線を逸らした。
「なのに、その話はクラス中に広がった。誰が最初に流した?」
莉奈は答えなかった。
沈黙が、今度は莉奈の側に落ちる。
「……莉奈?」
「本当にやったの?」
「違う」
否定の言葉は、先ほどより弱かった。
一陽は一歩、莉奈との距離を詰めた。
「違うなら、今ここで言え。誰が最初に杏を悪者にした? 誰に何を頼んだ? 誰が、どの噂を、どの順番で流した?」
「……知らない」
「知らない?」
一陽の声が低くなる。
「お前はさっきまで、俺が証拠を出せないことを根拠に、自分は無実だと言った。なら、俺が聞いていることにも答えられるはずだ。無実なら、何も隠す必要はないだろ」
莉奈の指が震えた。
「私は……ただ、みんなに杏のことを話しただけ」
「話しただけ?」
一陽は教室全体に聞こえるよう、言葉を区切った。
「その『話しただけ』で、杏の机は荒らされ、持ち物は隠され、誰も近づかなくなった。お前は自分の手を汚さず、他人にやらせた。だから自分だけは悪くないと思っているのか?」
「違う!」
莉奈が初めて声を荒らげた。
「私はそんなつもりじゃなかった!」
「つもりの話をしているんじゃない。お前が何をしたかを聞いている」
「私は、杏が嫌われるようにしたかったわけじゃ……」
「じゃあ、何をしたかった?」
莉奈は言葉を失った。
一陽は逃がさなかった。
「杏を孤立させたかったわけじゃない。噂を広めたかったわけでもない。嫌がらせが続くことも望んでいない。なら、お前は何のために動いた?」
「……」
「答えろ、羽生田」
教室の誰もが息を止めていた。
「自分が中心にいたかったからか? 杏を下に置いて、自分の立場を守りたかったからか? それとも、誰かを傷つけているのに、最後まで『私は何もしていない』と言える自分でいたかったからか?」
「やめて!」
莉奈が机を叩いた。
「もうやめてよ!」
「やめるのは俺じゃない」
一陽は冷たく言い切った。
「杏への嫌がらせを止めるのは、お前だ。今ここで、自分が何をしたのか認めろ。誰に何を言ったのか、誰を動かしたのか、全部話せ」
「そんなの……私だけが悪いみたいじゃん!」
「違う」
一陽は莉奈を見据えた。
「お前だけが悪いんじゃない。だからこそ、俺は全員に聞いている」
教室全体へ向き直る。
「莉奈の言葉を信じて、杏を避けた奴。噂を面白がって広めた奴。嫌がらせを見て笑った奴。止める力があったのに、面倒だから黙った奴」
一人ずつ、視線を向ける。
「お前らは、自分が何をしたのか分かっているのか?」
「俺たちは……」
「『俺たちは』じゃない。自分の名前で答えろ」
男子生徒が口を閉ざす。
「誰かに命令されたからやった。みんながそうしていたから合わせた。自分だけが悪者になりたくなかった。そんな言い訳で、杏の傷が消えるのか?」
誰も顔を上げられない。
「消えない。お前らが黙った時間も、笑った時間も、見て見ぬふりをした時間も、杏にとっては全部同じだ。誰も助けてくれなかった時間として残る」
「でも、俺たちだって怖かったんだよ!」
別の生徒が叫んだ。
「莉奈に逆らったら、次は自分が狙われるかもしれなかった!」
「だから杏を差し出したのか?」
「……」
「自分が傷つきたくないから、もっと弱い奴を見捨てた。それを怖かったで終わらせるな。怖かったなら、せめて黙って見ていた自分を正当化するな」
「お前にそんなこと言う資格あるのかよ!」
「あるかどうかを決めるのはお前じゃない」
一陽の声が教室を貫いた。
「俺に資格があるかどうかなんて、どうでもいい。俺だって間違える。俺だって誰かを傷つける。だから、俺を正義の味方だと思うな」
拳を握りしめる。
「でも、間違えたくないから黙るなんてことはしない。自分が嫌われたくないから、誰かを見捨てることもしない。お前らができなかったことを、俺はできる限りやる」
教室の空気が揺れた。
「それが気に入らないなら、俺を責めろ。俺を嫌え。俺の言い方が気に入らないなら、好きなだけ悪口を言え」
一陽は莉奈を指差した。
「ただし、莉奈一人に全部押しつけて、自分たちは被害者の顔をするな」
誰も反論できなかった。
「お前らは莉奈に利用された。だが、利用されたことと、何も悪くないことは別だ。自分の足で噂を運び、自分の口で杏を笑い、自分の目で嫌がらせを見て、それでも黙った。その一つ一つに、お前ら自身の意思があった」
「……そんなの、厳しすぎるだろ」
「厳しい?」
一陽は笑わなかった。
「杏が受けた仕打ちは、もっと厳しかった。教室に来るだけで怯え、誰かが笑うだけで自分のことかと疑い、助けを求めることすらできなかった。その間、お前らは普通に昼飯を食って、普通に笑って、普通に帰った」
声が低く沈む。
「その普通を守るために、杏を犠牲にしたんだろ」
教室の隅で、誰かが小さく息を呑んだ。
「俺は、お前らに許されろとは言わない。反省しろとも、今すぐ仲直りしろとも言わない。そんな簡単な言葉で杏の傷が消えるわけじゃないからな」
一陽は全員を睨みつけた。
「ただ、二度と『自分は何もしていない』とは言うな。何もしなかったことも、お前らが選んだ行動だ」
莉奈が震える声で言った。
「……大波君。私を悪者にして、満足?」
「満足すると思うか?」
一陽は即答した。
「お前を責めれば杏が元通りになるのか? お前が謝れば、杏が傷つかなかったことになるのか? ならない。だから俺は、お前一人を悪者にして終わらせるつもりはない」
「じゃあ、何がしたいの?」
「お前ら全員に、自分が何をしたのか認めさせたい」
一陽は教室の中央に立った。
「莉奈。お前は噂を作り、人を動かし、杏を孤立させた。まず、それを認めろ」
「……」
「噂を聞いて広めた奴。認めろ」
女子の一人が俯いたまま、かすかに頷いた。
「嫌がらせを見て黙った奴。認めろ」
男子生徒が唇を噛んだ。
「杏を笑った奴。認めろ」
誰も声を出せない。
「認められないなら、これからも同じことを繰り返す。相手が杏じゃなくなっても、また誰かを標的にする。自分は悪くないと言いながら、誰かを壊す」
一陽の視線が一人ずつを射抜いていく。
「俺は、それを見逃さない」
莉奈が顔を上げた。
「……脅してるの?」
「警告だ」
「先生に言うつもり?」
「必要なら言う。証拠も出す。お前が誰に何を話したか、誰が何をしたか、全部な」
莉奈の顔から血の気が引いた。
「そんなことしたら、私だけじゃなくて、みんなが……」
「そうだ」
一陽は遮った。
「みんなが、自分のしたことに向き合うことになる」
「大波!」
誰かが怒鳴った。
「もういいだろ! 問題は解決したんだから!」
一陽はその生徒を睨みつけた。
「解決した?」
低い声に、教室が静まる。
「杏がまだ怯えているのに? お前らが誰一人、自分の責任を認めていないのに? 莉奈が黙っていれば全部終わりだと思っているのに?」
一陽は机を強く叩いた。
「それは解決じゃない。ただ、次の標的を探すために蓋をしただけだ!」
机の上の筆箱が跳ね、教室中が凍りついた。
「お前らは、杏が黙って耐えていたから問題にならなかったと思っている。違う。杏が壊れる寸前まで追い込まれて、ようやく俺が気づいただけだ」
一陽の声は震えていた。
「もし俺が気づかなかったら? もし杏が学校に来られなくなっていたら? それでもお前らは『俺たちは何もしていない』と言うのか?」
返事はなかった。
「言えよ」
一陽が迫る。
「杏が消えても、何もしていないと言える奴は手を挙げろ」
誰も手を挙げない。
「言えないだろ。自分が見捨てたことを、心のどこかでは分かっているからだ」
莉奈の目に涙が浮かんだ。
「……私は、そんなつもりじゃ」
「その言葉を何度繰り返す?」
一陽は莉奈を見下ろした。
「そんなつもりじゃなかった。悪気はなかった。みんなが勝手にやった。自分は頼んでいない。便利な言葉だな」
「違う!」
「違うなら、何が違うのか言え!」
莉奈は肩を震わせた。
「私は……杏が、みんなに好かれているのが嫌だった。大波君にも、みんなにも……私より大事にされているみたいで」
教室に、莉奈の声だけが響いた。
「だから、少し困らせたかっただけ。少し、立場を下げたかっただけ……」
「その『少し』で、杏は毎日怯えていた」
「分かってる!」
「分かっているなら、なぜ止めなかった?」
「怖かったのよ!」
莉奈が叫んだ。
「ここで認めたら、私が全部悪いことになる! みんなに嫌われる! 誰も私の味方をしなくなる!」
一陽は冷たく言った。
「杏は、とっくにそれを全部失っていた」
莉奈の顔が歪む。
「お前は、自分が失うのが怖かったから、杏に全部押しつけた。自分が嫌われないために、杏を嫌われ者にした。それを卑怯と言わずに何と言う?」
「……」
「答えろ」
莉奈は俯いた。
「……卑怯、だと思う」
「聞こえない」
「私が、卑怯だった!」
莉奈の声が教室に響いた。
「私が噂を流した。杏を孤立させたかった。みんなに杏を嫌わせたかった。嫌がらせをするように直接頼んだこともある。……私が、始めた」
誰かが息を呑んだ。
一陽は莉奈から視線を外さなかった。
「それで終わりじゃない」
「……え?」
「始めたことを認めただけだ。次は、巻き込まれた奴らが自分のしたことを認めろ」
生徒たちの顔が強張る。
「莉奈に言われたからやった。莉奈が怖かったから従った。みんながやっていたから便乗した。どれも理由にはなる。だが、免罪符にはならない」
一陽は一人の女子を見た。
「お前は杏の上履きを隠したな」
「……」
「答えろ」
「……隠した」
「誰に言われた?」
「莉奈に……」
「それだけか?」
女子は唇を震わせた。
「……自分でも、面白いと思ってた」
一陽は次の生徒を見る。
「お前は杏の机の中身を廊下に出した」
「俺は、ただ手伝えって言われて……」
「手伝ったんだな?」
「……ああ」
「お前は杏の悪口を広めた」
「聞いた話を言っただけだ」
「聞いた話を、確認もせずに他人へ伝えた。それを広めたと言う」
「……」
「お前は笑った」
教室の後ろにいた男子が顔を上げた。
「何のことだよ」
「杏が泣いているのを見て、笑った」
「そんなの覚えてねえよ」
「覚えていないなら、なおさら最低だ。お前にとっては忘れる程度のことでも、杏にとっては忘れられない一日だった」
男子は顔を背けた。
一陽は教室全体に言い放った。
「これが、お前らのしたことだ。莉奈が始めた。だが、莉奈一人ではここまでできなかった。お前らが口を貸し、手を貸し、沈黙を貸したから、杏は追い詰められた」
誰も反論できない。
「だから、俺はお前ら全員を責める」
一陽の声に、迷いはなかった。
「莉奈を責める。噂を流した奴を責める。嫌がらせをした奴を責める。見て見ぬふりをした奴を責める。自分は関係ないと逃げた奴を責める」
拳を握る。
「誰一人、逃がさない」
「そんな権利、お前にないだろ!」
「権利の話じゃない」
一陽は叫び返した。
「杏が一人で耐えていた時、お前らは権利があるかどうかなんて考えたのか? 傷つけていい権利があると思ったのか? 違うだろ。自分が安全な場所にいるから、考えずにやっただけだ」
教室の空気が震える。
「俺は、お前らと同じことをする。考えずに誰かを傷つけることはしない。だが、見逃しもしない。杏を傷つけた事実を、なかったことにはさせない」
莉奈が涙を拭った。
「……私を、どうするつもり?」
「俺が決めることじゃない」
一陽はスマートフォンを掲げた。
「先生に報告する。必要なら保護者にも伝える。お前が何をしたか、誰が何をしたか、杏がどれだけ追い詰められたか、全部話す」
「やめて……」
「嫌か?」
「お願い……」
「杏が何度もやめてと言った時、お前は聞いたのか?」
莉奈は答えられなかった。
「聞かなかったよな。なら、今度はお前が聞け。自分がしたことの結果を」
「大波君、やりすぎだよ!」
女子の一人が叫んだ。
「莉奈はもう謝ったじゃん!」
「謝った?」
一陽はその女子を見た。
「お前は、杏に謝ったのか?」
「私は……」
「莉奈を庇う前に、自分が杏に何をしたか考えろ」
「でも、莉奈だけが悪いわけじゃないって言ったのは大波君でしょ!」
「だから全員に言っている」
一陽は一歩も引かなかった。
「莉奈だけを責めて終わらせるなら、俺はここまで言わない。お前ら全員が、自分の責任から逃げようとしているから、逃がさないと言っている」
「そんなの、ただの復讐じゃん!」
「そう見えるなら、それでいい」
一陽は冷たく笑った。
「俺が復讐したいだけの人間だと思えばいい。正義感を振りかざして、気に入らない奴を追い詰める最低な奴だと思えばいい」
教室を見渡す。
誰かが息を呑んだ。
「俺を責めろ。俺を嫌え。俺のことを学校中に広めろ。『大波は怖い』『大波は性格が悪い』『大波は人を追い詰める』。好きなだけ言え」
一陽は莉奈を見た。
「その代わり、杏の名前を出すな。杏を笑うな。杏を責めるな。杏に近づいて、また何かを吹き込むな」
声が鋭くなる。
「次に杏へ手を出した奴は、誰であろうと俺が止める。莉奈でも、お前らでも、教師でも関係ない」
教室は完全に沈黙した。
「俺はもう、見て見ぬふりをしない。お前らが何を言おうと、誰に泣きつこうと、杏を傷つけた事実から逃がさない」
誰も顔を上げられなかった。
「……何様だよ」
誰かが呟いた。
一陽はその声の主を見た。
「何様でもいい」
静かだが、拒絶を許さない声だった。
「お前らが杏を一人にしたなら、俺は一人でも立つ。お前ら全員が俺を敵に回しても、杏をこれ以上傷つけさせない」
莉奈が震える声で言った。
「そんなことをしたら、大波君だって一人になるよ」
「もうなってる」
一陽は即答した。
「どう見られるかなんてどうでもいい」
「……本当に、私たち全員を敵に回すつもり?」
「敵に回したのはお前らだ」
一陽は教室の出口へ向かいながら言った。
「俺は、杏を傷つけた奴を許さないだけだ」
そして、最後に振り返った。
「覚えておけ。誰かを傷つけた時、手を出した奴だけが加害者じゃない。笑った奴も、煽った奴も、黙って見ていた奴も、止められたのに止めなかった奴も、その場にいた全員が選んでいる」
視線が一人ずつに突き刺さる。
「お前らは、杏を助けないことを選んだ」
莉奈の顔が歪む。
「だから今度は、自分が何を選んだのか、最後まで向き合え」
一陽は教室を出た。
背後で、誰かが泣き出した。
誰かが莉奈を責めた。
誰かが一陽への悪口を叫んだ。
それでも、一陽は振り返らなかった。
教室の中に残ったのは、莉奈一人の罪ではない。
全員が、自分の中に抱えていた見たくないものを、無理やり引きずり出された。
*
廊下で、美琴が待っていた。
「一陽君……」
「終わった」
「杏は?」
「先生と一緒にいる」
美琴は一陽の顔を見る。
「……一陽君、今の言い方」
「嫌われるだろうな」
「かなり」
「それでいい」
一陽は二年一組の教室を見る。中ではまだ生徒たちがざわめいていた。
視線の中心は、もう杏ではない。
莉奈と、そして一陽だった。
「杏への注目が減る」
美琴は何も言えなかった。
*
放課後。
二年一組では、空気が完全に変わっていた。
「大波って、マジで嫌な奴だな」
「正しいこと言ってるつもりなんだろ」
「傍観してただけの奴まで責めるとか……」
「怖すぎ」
「莉奈も悪いけど、あそこまで言う必要ある?」
噂は広がっていく。
だが、以前とは違った。
『杏がいじめられている』
ではなく、
『大波がクラスをめちゃくちゃにした』
という話になっていた。
一陽の狙い通りだった。
杏の名前は噂の中心から外れ、その代わり、大波一陽という名前が悪い意味で学校中に広がっていった。
*
帰り道。
杏は一人で歩いていた。
隣を歩く一陽の姿は、今日は見えなかった。
いつもなら、少し離れた場所から一陽がついてきていることに気づく。けれど今日は、背後から聞こえるのは風に揺れる木々の音だけだった。
杏は足を止めた。
振り返っても、一陽はいない。
胸の奥に、嫌な予感が広がる。
「……一陽」
小さく呟いてから、杏は来た道を戻った。
少し歩くと、校門の近くに一陽が立っているのが見えた。誰かに声をかけられているわけでもない。ただ、校舎を見上げたまま、動かずにいる。
杏は迷った。
声をかけていいのか分からない。
けれど、そのまま通り過ぎることもできなかった。
「……一陽」
一陽が振り返る。
「杏?」
「何してるの?」
「別に。帰ろうとしてた」
「でも、帰ってなかった」
「少し考えてただけだ」
杏は一陽の隣まで歩いた。
「今日のこと、聞いた」
「そうか」
「一陽、また悪者になったね」
「まあな」
「私のため?」
「それもある」
杏は少し俯いた。
「……そっか。私のために…」
杏の落ち込んだ呟きを遮る様に一陽が言った。
「そもそもなぁ⋯」
「俺は、いじめとかその手の類がめっぽうキライな正義の戦士なんだよ」
一陽が冗談めかした調子で言った。
「光の巨人と呼んでくれ」
「うん」
「聖戦士でもいいぞ」
「うん」
「……笑うところだぞ」
「笑えないよ」
杏は少しだけ笑った。
「でも、一陽らしい」
「褒めてないだろ」
「褒めてない」
「即答かよ」
二人の間に、ほんの少しだけ以前の空気が戻る。
けれど、完全には戻らない。
学校では、一陽を見る目が変わった。
莉奈を責めたことで、彼を「正義感の強い人間」と見る者もいた。だが、それ以上に、
――人を追い詰める奴。
――正論で相手を叩き潰す奴。
――自分が正しいと思ったら止まらない奴。
そんな悪評が広がっていった。
杏への視線は減り、問題は表面的には解決した。
その代償として、一陽の周囲にはまた一つ、大きな溝ができた。
二年一組の教室では、莉奈が一人、自分の席に座っていた。
周囲から向けられる視線は、以前とは違う。
疑い。
警戒。
嫌悪。
莉奈はただ、一陽が去っていった方向を見つめる。
「……大波」
小さく呟く。
「本当に、嫌なヤツ」
一陽は莉奈の思惑を完全に壊した。
同時に、自分自身の評判まで壊した。
杏を守ることには成功した。
しかし――。
誰かを救うたびに、自分が悪者になっていく。
その構図だけは、今回も変わらなかった。
そして一陽自身も、もうそれを否定しなかった。
問題は解決した。
杏への嫌がらせも止まった。
莉奈が裏で動かしていたことも、クラスには知れ渡った。
それでも、誰もが納得したわけではない。
莉奈を嫌う者。
一陽を嫌う者。
自分が責められたことを根に持つ者。
そして、自分は何も悪くないと思い続ける者。
それぞれの中に、別々のしこりが残った。
その中で、ただ一つ確かなことがある。
――杏へ向けられていた大量の視線は、もうない。
代わりに、その視線のほとんどを。
大波一陽が引き受けていた。
翌朝、杏の机の中には、折り畳まれた紙が入っていた。
開くと、短い謝罪が三行だけ書かれていた。誰の字かは分からない。杏はしばらくそれを見つめ、鞄の内ポケットにしまった。
杏が一陽の教室へ入ると、何人かが一陽の席を見ていた。本人はまだ来ていない。廊下の向こうから、ひそひそとした声が聞こえる。
「昨日の大波、やばかったよな」
「関わらないほうがいいって」
杏は足を止めた。
それから、一陽の机の横に立ち、椅子を引いた。机の端に残っていた消しゴムのかすを手で払う。誰かがこちらを見ている気配がしたが、杏は顔を上げなかった。
やがて、廊下から一陽が現れた。
「……何してる」
「席、取ってた」
「俺の席だぞ」
「知ってる」
杏は立ち上がり、鞄を抱えた。
「一緒に帰ろう」
「朝から?」
「うん」
一陽は教室の中を見た。視線がいくつもこちらを向いている。
「また何か言われるぞ」
「一陽が?」
「俺も、お前も」
杏は少しだけ考え、それから一陽の袖をつまんだ。
「じゃあ、二人で言われよう」
一陽は何も答えなかった。
ただ、振りほどかなかった。
窓の外で、風に押された桜の花びらが一枚、廊下へ入り込んだ。杏の足元に落ち、一陽の靴先で止まった。




