第28話
職員室。
「失礼します」
一陽が入ると、昨日話した教師が顔を上げた。
「大波くん。来てくれたか」
「はい」
「そこに座って」
一陽は椅子に座った。
向かいには教師が二人。
そして、少し離れた場所に莉奈がいた。
「……羽生田?」
「私も呼ばれました」
莉奈は不安そうな顔を作っていた。
一陽はそれを見て、確信した。
ここまで来ることも、計算されている。
「先生」
一陽が口を開く。
「今回の件ですが」
「はい」
「俺が悪かったです」
教師が目を瞬いた。
「……どういう意味だ?」
「杏の件に、俺が勝手に首を突っ込みました」
「勝手に?」
「はい」
一陽は淡々と続けた。
「杏が困っていると思って、俺が周囲に話を聞きました。羽生田さんにも何度か確認しました」
莉奈が小さく俯く。
「それで、俺が勝手に正義感を振りかざして……話を大きくしました」
「大波くん」
「羽生田さんにも迷惑をかけました」
「私は……」
莉奈が口を開く。
「大丈夫です。私も言い方が悪かったところがあったので」
その言葉に、一陽は一瞬だけ莉奈を見る。
視線が重なる。
莉奈の目には、怯えた色が浮かんでいた。
けれど、その奥には、こちらの出方を測る冷たさがある。
一陽はすぐに視線を外した。
――全部、用意していた。
自分を責める莉奈。
杏を庇って暴走した一陽。
そして、困っている被害者。
これで筋書きが完成する。
「俺が、杏を利用して騒ぎを大きくした」
一陽は言った。
「だから、杏には責任ありません」
「……」
「今回の件は、俺が勝手に動いたことが原因です」
教師はしばらく黙っていた。
沈黙が、やけに長く感じられた。
「君は、本当にそう思っているのか?」
問いかける声に、一陽は一度だけ息を止めた。
「はい」
嘘だった。
自分が勝手に動いたことだけは、本当だった。
「分かった」
教師はため息をついた。
「大波くん。今後、本人から相談を受けていない状態で、他の生徒に聞き込みをするのは控えてくれ」
「はい」
「それと、蓮田さんにはこちらからも話をする」
「お願いします」
一陽は立ち上がった。
「失礼します」
莉奈の横を通り過ぎようとしたとき、彼女が小さく呟いた。
「……ありがとう」
一陽の足が、ほんのわずかに止まる。
だが、振り返らなかった。
背中に莉奈の視線が刺さっている。
その言葉が、何よりも不快だった。
*
職員室を出た瞬間。
「一陽!」
廊下の向こうから杏が走ってきた。
「何を言ったの?」
「別に」
「嘘」
「先生に、俺が勝手に動いたって説明しただけ」
「それで?」
「杏は悪くないって言った」
「……」
杏の顔が歪んだ。
「なんで……」
「これで終わる」
「終わらないよ」
「終わる」
「一陽が悪い人になるだけじゃん!」
杏の声が廊下に響いた。
周囲の生徒が振り返る。
遠くで交わされていた会話が、ひとつ、またひとつと途切れていく。
一陽は静かに言った。
「それでいい」
「よくない!」
「杏」
「よくないよ!」
杏の目に涙が浮かぶ。
一陽はその目を見た。
泣かせたいわけじゃない。
それでも、ここで引けば、すべてが杏に戻る。
「杏」
「私、一陽にそんなこと頼んでない」
「分かってる」
「じゃあ何で!」
「俺がそうしたかったから」
「……」
杏の唇が震えた。
「お前を助けたかった。それだけ」
「でも……」
杏は言葉を詰まらせた。
一陽は少しだけ笑う。
「だから気にするな」
「気にするよ……」
杏は俯いた。
「私、一陽に悪いことさせちゃった」
「違う」
「違わない」
「杏」
「私がいなかったら、一陽はこんなことしなかった」
その言葉に、一陽は返せなかった。
廊下のざわめきが、遠くに引いていく。
杏が自分を責め始めている。
自分が避けたかった展開だった。
「……杏」
「もういい」
「え?」
「私、もう一陽に頼らない」
杏は顔を上げた。
その目には涙が残っていたが、声だけは決めていた。
そして、そのまま走り去った。
「杏!」
一陽が呼び止めようとする。
だが、照平が静かに言った。
「今は追わないほうがいい」
照平は杏が去った方向を見つめたまま、拳を握った。
「……追いかけたいけど、今の杏には、誰の言葉も届かないかもしれない」
一陽は廊下の先を見つめたまま、拳を握った。
「……分かってる」
*
その日の午後。
噂は一気に広がった。
『大波が全部認めたらしい』
『蓮田のために勝手に動いてたんだって』
『羽生田が迷惑してたらしい』
『やっぱり大波が問題だったんじゃん』
そして、今まで杏へ向いていた視線が、一陽へ移っていく。
廊下を歩けば、会話が止まる。
教室に戻れば、何人かがこちらを見る。
誰かが小さく言った。
「……怖」
一陽には聞こえていた。
けれど、何も言わない。
これでいい。
杏への視線が減るなら。
自分が嫌われればいい。
そう思っていた。
*
しかし、その日の放課後。
二年一組では、杏の机に一枚の紙が置かれていた。
『大波を使って被害者ぶるの、もうやめたら?』
杏は紙を見つめる。
手が震える。
「……」
嫌がらせは終わっていなかった。
形が変わっただけだった。
杏自身への直接的な攻撃は減った。
だが、今度は――
「一陽を利用した女」
という新しい見方が生まれていた。
「……違う」
杏は紙を握り潰した。
「私、そんなことしてない」
けれど、誰も聞いてくれない。
*
同じ頃。
莉奈は廊下を歩いていた。
その手にはスマートフォン。
画面には新しいメッセージが表示されている。
『大波が認めたって』
『これで終わり?』
莉奈は返信する。
『ううん』
『まだ』
そして、少し考えてから続けた。
『杏が一人になるまで』
送信。
莉奈はスマートフォンをポケットにしまう。
そして、教室へ戻る途中。
杏とすれ違った。
「あ」
莉奈が立ち止まる。
「杏」
「……莉奈」
「大丈夫?」
「……うん」
「大波のこと、心配だよね」
「……」
「でも、杏のせいじゃないよ」
優しい声だった。
杏が顔を上げる。
「莉奈……」
「大波が勝手にやったんだから」
莉奈は笑った。
「杏は悪くないよ」
その言葉だけなら、優しさだった。
けれど。
「だから、もう大波に頼らないほうがいいと思う」
杏の表情が固まった。
「……どうして?」
「だって」
莉奈は首を傾げる。
「また大波が傷つくから」
「……」
「杏が大波を大切に思ってるなら、もう関わらないほうがいいよ」
杏は答えられなかった。
莉奈はその沈黙を確かめるように、杏の目を見つめた。
それから、何事もなかったように通り過ぎる。
数歩進んだところで、口元をわずかに上げた。
――これでいい。
杏自身に、一陽との距離を取らせる。
誰かに命令する必要すらない。
杏が自分から離れてくれれば、それが一番綺麗だった。
*
夕方。
二年二組。
一陽が机に座っていると、照平と咲がやってきた。
「ハル」
「ん?」
「今日、すげえ噂になってるぞ」
「知ってる」
「……そうか」
照平はそれ以上言わなかった。
咲が一陽の向かいの机に手を置く。
「ハル、杏のこと、本当にこのままでいいと思ってる?」
「よくない」
即答だった。
「なら、どうして何もしないの?」
「今動けば、また杏に矛先が向く」
「でも、動かないままでも杏は追い詰められてる」
咲の言葉に、一陽は窓の外へ視線を向けた。
「杏は?」
「帰った」
「そうか」
「一人で」
「……」
「ハル」
「何?」
「これで、本当に終わると思うか?」
一陽はしばらく黙った。
「……分からない」
「だよな」
照平はため息をつく。
「でも、一つだけ分かった」
「何?」
「お前が悪者になったことで、杏が助かったわけじゃない」
一陽は何も言わなかった。
「むしろ、杏が自分を責めてる」
「……」
「ハル」
咲が静かに呼びかける。
「自分を犠牲にするだけじゃ、杏は救えないよ」
「分かってる」
「なら――」
「でも、もう戻れない」
照平は黙った。
一陽自身も分かっていた。
ここで撤回すれば、杏に再び矛先が向く。
だから撤回できない。
自分で作った檻だった。
*
その夜。
莉奈は自室でスマートフォンを眺めていた。
今日の結果を確認する。
杏――孤立。
一陽――悪者。
周囲――莉奈を被害者として認識。
ほぼ完璧だった。
莉奈は満足そうに画面を閉じる。
「……これで、もう誰も杏を助けない」
その瞬間。
スマートフォンに一通のメッセージが届いた。
『本当にこれでいいの?』
莉奈はしばらく画面を見つめた。
そして返信する。
『いいよ』
『これで、杏は一人になれる』
少し間を置いて、さらに送る。
『そうしたほうが、誰も傷つかないから』
送信。
だが、最後の一文を送った直後。
莉奈の表情から笑顔が消えた。
「……誰も?」
小さく呟く。
自分自身に問いかけるように。
だが、すぐにスマートフォンを伏せた。
「……違う」
それ以上は考えなかった。
*
翌朝。
一陽が学校へ向かう途中、スマートフォンが震えた。
美琴からだった。
『一陽君、学校に来たらすぐ二年一組へ来て』
嫌な予感がした。
教室へ着くと、美琴が待っていた。
「どうした?」
「杏ちゃんが……」
「杏が?」
「昨日のこと、全部自分のせいだと思ってる」
「……」
「それだけじゃない」
美琴は言葉を詰まらせる。
「杏ちゃん、莉奈さんに言われたみたい」
「何を?」
「『一陽君をこれ以上傷つけたくないなら、もう頼らないほうがいい』って」
一陽は目を閉じた。
自分が引き受けても、莉奈の計画は終わらなかった。
むしろ、杏を孤立させるための道具にされたのだ。
「……そういうことか」
「一陽君?」
一陽はゆっくり目を開けた。
「俺は、莉奈の思い通りに動いた」
美琴が息を呑む。
「でも」
一陽は廊下の先を見る。
そこには、莉奈が立っていた。
いつもの笑顔。
莉奈は一陽の視線に気づくと、足を止めた。
廊下の両端に、朝の生徒たちの気配がある。
その中で、二人の間だけが不自然なほど静かになった。
「まだ終わってない」
莉奈は一陽を見たまま、静かに笑った。
まるで、
――次はどうする?
そう問いかけているようだった。
一陽は拳を握った。
自分を犠牲にすれば終わると思った。
だが違った。
自分が悪者になったことで、莉奈はさらに杏を追い込むことができた。
そして何より――
杏はまた、周囲から孤立しようとしている。
「……俺、間違えたな」
一陽は小さく呟いた。
莉奈は何も答えない。
ただ、笑顔を崩さずに一陽を見つめている。
その沈黙が、言葉よりもはっきりと次の対決を告げていた。
杏を守るために自分が傷つけばいい。
そう信じていた。
だが、自分が引き受けた罪は、杏から矛先を逸らしたのではない。
莉奈に、杏を追い込むための新しい道具を渡しただけだった。
自己犠牲は盾ではなく、莉奈の手に握られた刃だった。
初めて、一陽は自分のやり方そのものが間違いだったと認めた。
それでも、ここから逃げるつもりはなかった。
今度こそ、自分一人で終わらせるのではなく、杏自身をこの場所から引き上げる。
そのために一陽は、もう一度だけ莉奈を見る。
莉奈は笑っている。
その笑顔の奥に何があるのか。
過去に何があったのか。
一陽にはまだ分からない。
ただ一つだけ分かる。
――やはり今回の騒動を裏から動かしていたのは、羽生田莉奈だ。
そして、このままでは終わせない。




