第27話
翌日。
大きな変化は、朝一番には現れなかった。
杏の机は荒らされていない。
上履きもある。
教科書も隠されていない。
「……今日は何もない」
杏は自分の机を見ながら呟いた。
莉奈はただ、自分の席から杏を見ていた。
そして、机の中からスマートフォンを取り出す。
一つのメッセージを確認する。
『これでいいの?』
莉奈は短く返信した。
『うん』
『今日は何もしないで』
送信。
その直後、別の通知が届く。
『大波は?』
莉奈は画面を見つめる。
そして、少しだけ口元を上げた。
『まだ』
たった二文字。
それだけだった。
*
昼休み。
二年二組では、一陽と照平が昼食を取っていた。
「今日、妙に静かじゃないか?」
照平が弁当を食べながら言う。
「何が?」
「杏の件」
「ああ」
一陽も気づいていた。
昨日まで続いていた嫌がらせが、突然止まっている。
だが、それだけだった。
「噂は止まってない」
一陽が言う。
「だな」
照平はスマートフォンを見る。
「むしろ、別の方向に変わってきてる」
「どんな?」
「杏のことじゃない」
照平が画面を見せた。
そこには、一陽に関する投稿が並んでいた。
『大波って蓮田に頼まれて動いてるだけらしい』
『女子の人間関係に首突っ込んでる』
『羽生田にも色々聞いてるらしい』
一陽は黙って画面を見る。
「……またか」
「ここまで来ると、さすがに変だろ」
「ああ」
「ハル」
「ん?」
「これ、誰かが意図的に広げてるんじゃないか?」
一陽は少し考える。
「その可能性は高い」
「じゃあ――」
「でも、誰かは分からない」
「だな」
照平はそれ以上追及しなかった。
「まあ、俺にできることなら言えよ」
「分かってる」
「ならいい」
照平は弁当の唐揚げを一つ口に入れた。
「……これうまい」
「急に何だよ」
「お前の弁当の卵焼きと交換しようぜ」
「嫌だ」
「ケチ」
「お前の唐揚げのほうが高そうだから嫌だ」
「そこ?」
いつものくだらない会話。
それが逆に、一陽を少しだけ落ち着かせた。
だが――。
その日の放課後。
一陽のもとへ、一人の教師がやって来た。
「大波くん」
「はい」
「少し時間いいか?」
「何でしょう」
「最近、二年一組の蓮田さんの件で、君がかなり動いていると聞いている」
一陽は一瞬だけ黙った。
「……誰からですか?」
「それは言えない」
「そうですか」
「君が悪いと言っているわけじゃない。ただ、一部の生徒たちが少し不安を感じているようなんだ」
「一部?」
「羽生田さんたちだ」
一陽の目が細くなる。
「俺が、羽生田さんたちに何かしたということですか?」
「そういう意味ではない」
「では、何が問題なんでしょうか」
教師は困ったように言った。
「君が蓮田さんのために、他の生徒へ何度も話を聞きに行っていることだ」
「事実確認です」
「それは分かっている」
「なら――」
「ただ、受け取る側によっては、圧力と感じることもある」
一陽は黙った。
教師は続ける。
「蓮田さん自身から相談を受けたわけではないんだろう?」
「……はい」
「だったら、少し距離を置いたほうがいい」
「……分かりました」
反論はしなかった。
教師が去った後、一陽は一人で廊下に立っていた。
「……俺が動くこと自体が、問題になってきたか」
その日のうちに、さらに一つの噂が広がった。
『大波、先生から注意されたらしい』
そして、その噂には別の言葉が付け足されていた。
『蓮田のために、女子にしつこく聞き回ってたから』
誰かが、それを面白がるように広げていた。
*
その日の夕方。
二年一組。
莉奈は教室に残っていた。
誰もいないことを確認すると、スマートフォンを机の上に置く。
そこには、今日広がった噂の一覧が表示されていた。
『大波、先生に注意された』
『蓮田のために女子を問い詰めてた』
『羽生田にも何回も聞いてたらしい』
莉奈は一つずつ確認する。
「……うまくいってる」
誰も聞いていない教室で、莉奈は呟いた。
そして、別の画面を開く。
そこには、以前誰かから送られてきた杏に関するメッセージのスクリーンショットがあった。
『杏って、莉奈のこと嫌いなのかな』
『たぶん』
『じゃあ、あんまり関わらないほうがいいよね』
莉奈はその画像を加工する。
一部だけを切り取り、別の文章と組み合わせる。
『杏が莉奈をクラスから追い出したいって言ってた』
それらしく見える画像が完成する。
莉奈は満足そうに眺めた。
「これなら……誰も疑わない」
送信先を選ぶ。
一人。
二人。
三人。
そして、最後にもう一人。
送信。
数分もしないうちに、
『え、本当に?』
『杏ってそこまでだったの?』
『大波が怒るのも分かるかも』
返信が届き始める。
莉奈はスマートフォンを伏せた。
「……杏が何を言ったかなんて、もう関係ない」
小さく笑う。
「みんながそう思えば、それが事実になるんだから」
その表情からは、歪んだ笑みが浮かんでいた。
*
翌朝。
「一陽君」
美琴が廊下で一陽を呼び止めた。
「どうした?」
「杏ちゃんのことで、変な話が出てる」
「また?」
「うん」
美琴は少し迷ってからスマートフォンを見せた。
『蓮田が羽生田を追い出そうとしてたらしい』
『大波はそれを手伝ってた』
『蓮田が自分から被害者になるよう仕向けてたって』
一陽は画面を見つめた。
「……杏本人に聞いた?」
「まだ」
「聞こう」
二人で二年一組へ向かう。
杏は自分の席に座っていた。
「杏」
「一陽」
「少し聞きたい」
「なに?」
「莉奈を追い出そうとしたって話」
「……え?」
杏は本気で分からないという顔をした。
「私、そんなこと言ってないよ」
「本当に?」
「うん」
杏は少し考える。
「前に、莉奈に疑問を聞いたことはある」
「どんな?」
「……どうして苦しそうに笑ってるの?って」
「でも、それだけ」
「莉奈を孤立させたいとかは?」
「ない」
杏ははっきり答えた。
一陽は何も言わなかった。
「じゃあ、誰がそんなこと……」
杏が呟く。
「分からない」
一陽は答える。
だが、心の中では一つの疑問が固まり始めていた。
偶然にしては、出来すぎている。
杏への嫌がらせ。
杏への悪評。
そして今度は、自分への悪評。
さらに、莉奈を被害者に見せる情報。
全部が同じ方向を向いている。
「……杏」
「ん?」
「最近、莉奈と何か話した?」
「うん」
「普通に?」
「普通に」
「何か変なことは?」
「……ないと思う」
一陽は杏を見る。
「そうか」
それ以上は聞かなかった。
*
その日の放課後。
一陽は一人で図書室にいた。
机の上には、これまで集めた情報を書いたノート。
ページを一枚ずつめくる。
嫌がらせ。
噂。
匿名メッセージ。
教師への相談。
自分への噂。
杏への偽情報。
「……全部、誰かが動かしてる」
問題は――誰なのか。
一陽は考えた。
そして、頭の中に一人の名前が浮かぶ。
「……羽生田」
しかし、すぐには決めつけなかった。
証拠がない。
莉奈が怪しい。
それだけでは足りない。
その時。
「大波」
後ろから声がした。
振り返る。
「……羽生田」
「一人?」
「ああ」
「何してるの?」
「少し整理してる」
莉奈は一陽の向かいに座った。
「杏のこと?」
「そう」
「まだ続けてるんだ」
「うん」
莉奈は微笑む。
「大波って、本当に杏のこと好きなんだね」
「そういう意味じゃない」
「じゃあ、どういう意味?」
「困ってるから」
「それだけ?」
「それだけ」
「ふうん」
莉奈は机の上のノートを見る。
「ねえ、大波」
「何?」
「もし杏が、自分から何も言わなかったら?」
「……」
「それでも助ける?」
「助ける」
「どうして?」
「困ってるから」
「じゃあ」
莉奈は笑った。
「大波が悪者になっても?」
一陽の目が止まった。
「……どういう意味?」
「そのままだよ」
莉奈は笑顔を崩さない。
「杏を助けるために動けば動くほど、一陽君が嫌われる」
「それが何?」
「もったいないなって」
「何が?」
「大波は、自分が傷つけば杏が助かると思ってるんでしょう?」
沈黙。
莉奈は続ける。
「そういう人って、扱いやすいよね」
一陽の表情が変わった。
「……今、何て?」
「冗談」
莉奈は立ち上がった。
「じゃあ、またね」
そう言って教室を出ていく。
一陽はその背中を見送った。
胸の奥に、嫌な感覚が残った。
*
翌日。
状況は一気に動いた。
杏のクラスで、ある紙が回っていた。
『蓮田杏は、自分が嫌われているのを大波に解決させようとしている』
『羽生田さんを悪者にするために、嘘をついている』
『大波は蓮田に利用されている』
さらに、その紙には一陽の名前まで書かれていた。
それを見た杏は顔を青くした。
「……私、こんなこと頼んでない」
だが、誰も聞いてくれない。
「でも大波がずっと動いてるじゃん」
「杏が頼んだからじゃないの?」
「違う!」
杏が声を上げる。
「私は……」
言葉が止まる。
周囲の視線が集まる。
「……一陽に、助けてなんて頼んでない」
その言葉だけが、教室に残った。
*
昼休み。
美琴が一陽のところへ来た。
「一陽君」
「どうした?」
「杏ちゃんが……」
美琴は言いにくそうにする。
「杏ちゃん、自分のせいで一陽君が悪く言われてるって思ってる」
「……そうか」
「だから、もう関わらないほうがいいって」
「杏が?」
「うん」
一陽は目を伏せた。
それは、最初から莉奈が狙っていたものだった。
杏を孤立させる。
そして一陽をそこへ引き込む。
最後に、二人を離す。
「……なるほど」
「何が?」
「やっと分かった」
一陽は静かに言った。
「莉奈は杏を直接潰そうとしてるんじゃない」
「え?」
「杏の周りにいる人間を、順番に壊してる」
美琴が息を呑む。
「そんな……」
「杏を守ろうとする人間がいなくなれば、最後に残るのは杏だけだ」
一陽は窓の外を見る。
「そして、杏自身に『自分が悪い』と思わせれば終わる」
「……一陽君」
「だから、俺を狙ってる」
その瞬間。
廊下の向こうから、咲が歩いてきた。
「ハル、美琴ちゃん。ここにいたんだ」
咲は二人の表情を見て、足を止める。
「……何かあったの?」
美琴が答えに迷う。
一陽は咲を見た。
「咲、少し聞いてほしい」
「うん」
「杏の周りで起きていることは、偶然じゃない。誰かが噂を流して、杏を孤立させようとしてる」
咲の表情が曇る。
「それって……莉奈ちゃんのこと?」
一陽は黙った。
咲は小さく息を吸う。
「私、昨日、莉奈ちゃんが誰かにメッセージを送ってるのを偶然見たの。内容までは分からなかったけど、杏ちゃんの名前が出てた」
「本当?」
美琴が尋ねる。
「うん。でも、見間違いかもしれない」
「それだけでも十分だ」
一陽は静かに言った。
「咲、無理に関わらなくていい」
「嫌だよ」
咲は首を横に振った。
「杏ちゃんが困ってるなら、見て見ぬふりはできない」
「でも、咲まで狙われるかもしれない」
「それでも」
咲は一陽をまっすぐ見た。
「ハルが一人で全部背負うのは、もっと嫌」
一陽は言葉を失った。
その時。
廊下の向こうから莉奈が歩いてきた。
一陽と目が合う。
莉奈は笑った。
嘲笑う様な笑顔。
だが、一陽にはもう分かっていた。
あの笑顔は、何も知らない人間の笑顔ではない。
全部知った上で笑っている。
*
放課後。
屋上へ続く階段。
一陽は一人で立っていた。
そこへ照平がやって来る。
「ハル」
「ん?」
「何か決めた顔してる」
「そう見える?」
「ああ」
一陽は少し笑った。
「照平」
「どうしたよ?」
「今、みんなが杏を悪者にする理由は、俺が杏を庇ってるからだ」
「だから?」
「なら、俺が原因になればいい」
照平は黙って一陽を見る。
「杏じゃない」
一陽は続けた。
「俺が、羽生田に嫌がらせをした。俺が勝手に女子の人間関係に首を突っ込んだ。俺が噂を広げた。俺が杏を利用した」
「ハル」
「そういう話にする」
「……」
「そうすれば、杏から視線が外れる」
照平はしばらく何も言わなかった。
そして、ただ一言。
「お前、本当にそれでいいのか?」
一陽は答えなかった。
代わりに、夕暮れの空を見る。
「いいんだ」
「……」
「俺なら、慣れてるから」
その言葉に、照平の表情が曇る。
「慣れてるからって、心が傷付かないわけじゃないだろ」
「分かってる」
「だったら――」
「照平」
一陽が振り返る。
「今回は、これしかない」
その目には迷いがなかった。
自分が嫌われることも。
自分が誤解されることも。
全部、受け入れるつもりだった。
*
同じ頃。
二年一組の教室。
莉奈は誰もいない教室で、一人スマートフォンを見ていた。
画面には、一陽についての新しい噂。
『大波が羽生田に謝るらしい』
『蓮田の件で責任取るんじゃない?』
『やっぱり大波が原因だったんじゃね?』
莉奈は満足そうに画面を閉じた。
「……もう少し」
小さく呟く。
「あと少しで、全部終わる」
そして、窓の外を見る。
校舎の向こうに、一陽の姿が見えた。
「大波」
莉奈は微笑む。
「あんだが自分から悪者になってくれるなら――」
そこで言葉を止める。
「私が何かする必要もないね」
その笑顔は、酷く歪んだものだった。
優しさも。
親しみも。
柔らかさもない。
ただ、自分の思い通りに人が動くことを楽しんでいるような笑顔。
*
翌朝。
一陽は教室で一枚の紙を書いていた。
何度も書き直した。
そして最後に、ペンを置く。
そこには、今回起きたことについての責任を自分が引き受ける内容が書かれていた。
事実とは違う。
けれど、それでいい。
杏を守るためなら。
自分が悪者になればいい。
そうすれば、杏への疑いは薄れる。
莉奈への疑いも消える。
そして、今回の騒ぎは終わる。
一陽は紙を折った。
「……これでいい」
その瞬間。
教室の入口に杏が立っていた。
「……一陽」
一陽が振り返る。
「どうした?」
「それ、何?」
「何でもない」
「嘘」
杏は一陽へ近づく。
「一陽、また何かしようとしてる」
「……」
「私のため?」
一陽は答えなかった。
杏の顔が、少しずつ曇っていく。
「やだ」
「杏」
「私のために、一陽が悪い人になるのは嫌」
「大丈夫だ」
「大丈夫じゃない」
杏は一陽の制服の袖を掴んだ。
「私、もう我慢するから」
「それは駄目だ」
「じゃあ、一陽も我慢しないで」
「……」
「一陽だけが我慢するのも、同じじゃん」
一陽は言葉を失った。
だが――。
その時、廊下の向こうから複数の足音が聞こえた。
「大波いる?」
「いた」
「先生が呼んでる」
数人の生徒が教室の入口に立つ。
一陽は杏を見る。
そして、手の中の紙を握りしめた。
ここで逃げれば、杏に矛先が戻る。
自分が出ればいい。
全部、自分が引き受ければいい。
それが一番早い。
一陽はゆっくりと紙をポケットへ入れた。
「杏」
「……なに?」
「悪い」
「え?」
「ちょっとだけ、俺に任せてくれ」
「一陽……?」
一陽は杏の横を通り過ぎる。
その背中を、杏は不安そうに見つめた。
廊下の先には、教師。
その周囲には、噂を聞きつけた生徒たち。
そして、そのさらに奥。
少し離れた場所で、莉奈がこちらを見ていた。
一陽と目が合う。
莉奈は笑った。
一陽も、それを見返した。
ただし――笑ってはいなかった。
「……終わらせる」
小さく呟く。
自分が悪者になればいい。
杏がこれ以上傷つかないなら。
自分が全部被ればいい。
そう決めた一陽は、教師のいる廊下へ歩き出した。
――そして、この瞬間から。
大波一陽は、自分自身を犠牲にするための最後の一手を打とうとしていた。




