第25話
翌日の放課後。
「杏」
二年一組の教室から出てきた杏を、一陽が呼び止めた。
「一陽?」
「少し話せるか」
「うん、いいよ」
杏の隣には美琴もいた。
「美琴も一緒?」
「うん」
「三人で何するの?」
「昨日のことを話したい」
杏の笑顔が、一瞬だけ止まった。
「……昨日のこと?」
「机や椅子、教科書に上履き。全部、偶然だと思ってるのか?」
「……分かんない」
「誰かにやられたと思ってる?」
杏は黙った。
「杏」
「……少しだけ」
ようやく杏が答えた。
「でも、誰がやったのか分からないから」
「だから黙ってたのか?」
「うん」
「どうして?」
杏は少し考えた。
「だって、誰か分からないのに『やられました』って言ったら、面倒じゃん。先生も困るし、クラスの空気も悪くなるし」
「もう十分、悪くなってるだろ」
「……そうだけど」
杏は俯いた。
「私が我慢すれば、早く終わるかなって」
美琴が小さく息を呑んだ。
一陽はしばらく黙っていた。
「杏。お前は、何か悪いことをしたのか?」
「……」
「莉奈に嫌がらせをしたのか?」
「してない」
「莉奈を孤立させようとした?」
「してない」
「クラスのみんなに迷惑をかけた?」
杏は答えず、少しだけ笑った。
「……分かんない」
「それは違うだろ」
一陽の声が低くなる。
「自分が何をしたか分からないからって、勝手に自分を悪者にするな」
「……でも」
「でもじゃない」
杏が驚いたように目を開く。
一陽はそこで言葉を止めた。少し強く言いすぎた。
「……悪い。言い方、きつかった」
「ううん」
杏は首を振る。
「一陽が怒るの、珍しいね」
「怒ってない」
「怒ってるよ」
「……少しだけ」
杏は小さく笑った。
「ありがと」
「何が?」
「怒ってくれて」
その言葉に、一陽は何も返せなかった。
*
その頃、二年一組では、莉奈が数人の女子と話していた。
「今日、一陽君が杏に何か聞いてたよ」
「何を?」
「昨日のこと」
「……やっぱり動いたんだ」
「うん」
一人の女子が不安そうに言った。
「これ、まずくない?」
「何が?」
「先生に言われたりしたら……」
「大丈夫だよ」
莉奈は穏やかに答えた。
「誰も、杏に何かしてるところを見てないでしょ?」
「……」
「それに、みんな杏が莉奈に嫌なことを言われたって知ってる」
「でも、机とか上履きとか……」
「誰がやったかは分からない」
莉奈は笑った。
「だから、問題ないよ」
その言葉に、女子の一人が黙り込む。
莉奈はその子を見た。
「どうしたの?」
「……なんでもない」
「そう。ならいいけど」
莉奈はスマートフォンを取り出した。クラスのグループチャットに、新しいメッセージが届いている。
『大波くん、杏のこと調べてるみたい』
莉奈はしばらく画面を見つめた。
「……大波」
小さく呟く。
「余計なこと、しなければいいのに」
*
翌朝。
一陽が教室に入ると、照平がすぐに近づいてきた。
「ハル」
「何?」
「これ、見ろ」
照平がスマートフォンを見せる。そこには匿名の投稿があった。
『最近、二年二組の大波って男子が、蓮田のために女子のことを調べ回ってるらしい』
続けて、別の投稿が表示される。
『自分が正義みたいな顔してるけど、ただの迷惑行為じゃね?』
さらに、
『蓮田と付き合ってるんじゃない?』
その下には、過去の一陽に関する投稿がいくつも並んでいた。
『大波って、前にも女子にしつこく絡んで問題になってたよな』
『三芳の件でも、相手を追い詰めたって聞いた』
『正義感が強いんじゃなくて、ただ人の弱みを探してるだけじゃね?』
『昔から空気読めないし、関わると面倒なタイプ』
どれも、事実と噂が混ざり合い、誰かが一陽を悪者に仕立てるように書かれていた。
一陽は無言で画面を見つめ、スマートフォンを返した。
「くだらない」
「くだらないけど、もう広がってる」
「……三芳さんのことまで出してきたのか」
一陽は低い声で続けた。
「俺が三芳さんを追い詰めたってことになってる。でも、実際は違う。あいつが困っているのを見て、話を聞こうとしただけだ」
「分かってる」
照平はスマートフォンを握り直した。
「でも、みんなが覚えてるのは、最後に広まった噂のほうだ」
「そうか」
「ハル」
「ん?」
「これ、俺も聞いていいか?」
照平が真剣な顔になる。
「お前、どこまでやるつもりなんだ?」
「分からない」
「嘘つけ」
「……」
「お前、杏を助けるためなら、自分が悪者になってもいいって思ってるだろ」
一陽は答えなかった。
照平はため息をつく。
「だったら、俺も巻き込め」
「照平」
「親友だろ」
「……」
「お前が一人で勝手に沈んでいくの、もう見たくないんだよ」
一陽は少しだけ目を伏せた。
「……分かった」
「よし」
「ただし」
「ん?」
「無茶はするな」
「それ、お前が言う?」
「言う」
「説得力、ゼロだな」
一陽は少し笑った。
その瞬間、廊下から美琴が走ってきた。
「一陽君!」
「どうした?」
「杏ちゃんが――」
美琴の表情は青ざめていた。
「先生に呼ばれたの」
「……何?」
「『クラスの人間関係について話を聞きたい』って」
照平が眉をひそめる。
「それだけなら、普通じゃないか?」
「違うの」
美琴が首を振る。
「杏ちゃんが呼ばれる前に、先生のところへ誰かが相談に行ってたの」
「誰が?」
「分からない」
一陽の表情が変わった。
「……向こうが先に動いた」
「一陽君?」
照平が一陽を見る。
「どうする?」
一陽は少し考え、静かに言った。
「今度は俺たちが、事実を並べる」
「証拠を集めるってことか?」
「ああ。杏が受けた被害と、広がった噂。それから、その噂がどこから始まったのかを調べる」
一陽はようやく、本格的に動き始めた。
*
その動きを、廊下の角から莉奈が見ていた。
誰にも見られない場所で、莉奈はスマートフォンを握っている。画面には、一陽と照平、美琴の姿が映っていた。
その下には、新しいメッセージが届いている。
『次、どうする?』
莉奈はしばらく画面を見つめ、やがてゆっくり文字を打った。
『まだ待って』
送信。
そして、独り言のように呟く。
「……大波が、どこまで来るか見てみよう」
その笑顔には、昨日までとは違うものが混じっていた。




