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俺は善人なんかじゃない  作者: エクレアだった物
第三章「笑顔の向こう側」

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第24話

その日の放課後。


 一陽はすぐ二年一組へ向かわず、教室に戻って自分の席に座った。


 机の上には、いつも通り教科書が並んでいる。だが、頭の中では今日聞いた言葉が繰り返されていた。


 ――杏が莉奈を追い出そうとしている。

 ――杏が先に喧嘩を売った。

 ――上履きも自分で汚した。


 どれも妙だった。


「……伝わるのが早すぎる」


 昨日まで杏をほとんど知らなかった生徒たちが、今日は性格まで知ったように話している。


 杏が被害を受けた話と、杏が悪いという話が、ほぼ同時に広がっていた。


 普通、噂はもっとばらける。


 だが今回は違う。


 誰かが筋道を作っている。


 ――杏は空気が読めない。

 ――だから嫌われた。

 ――だから嫌がらせを受けた。

 ――でも、それは杏が悪い。


「……最初から結論が決まってる」


 一陽は鞄を持ち、二年三組へ向かった。


   *


「三芳さん」


「……一陽君?」


 教室に残っていた美琴が顔を上げる。筆箱が机の上で小さく鳴った。


「杏のことを聞きたい」


「……やっぱり動くんだ」


「まだ何もしてない」


「もう動いてるよ」


 一陽は否定しなかった。


「今日、杏に何があった?」


「昨日よりひどい。机に油性ペンで書かれて、椅子には何か塗られてた。数学の教科書も隠されて、昼休みは一人。知らない番号からメッセージが来て、弁当を食べてるところまで撮られた。上履きはなくなって、校舎裏で泥だらけになって見つかった」


 一陽は口を挟まず聞いた。


「……本人は?」


「大丈夫って」


「先生には?」


「言ってない。誰がやったか分からないから、って」


 美琴の声が小さくなる。


 一陽は目を閉じた。


 杏は助けを求めていないのではない。求めても無駄だと、最初から諦めている。


 その諦め方を、一陽は知っていた。


「……なるほど」


「怒ってる?」


「かなり」


 美琴がわずかに笑う。だが、すぐ真顔に戻った。


「一陽君。杏が『莉奈を追い出そうとした』って話、誰から聞いたの?」


「廊下にいた子。その子は別の子から聞いたって」


「その先は?」


「分からない」


「だよね」


 一陽は立ち上がった。


「二年一組へ行く」


「私も行く」


「巻き込みたくない」


「杏ちゃんが一人で我慢してるのに、一陽君まで一人で何とかしたら……同じことになる」


 一陽は黙った。


 正しいと思った。


「……分かった」


 二人は二年一組へ向かった。


   *


 二年一組には、数人の生徒が残っていた。


 一陽が入ると、何人かがこちらを見る。目が合うと、すぐ逸らした。


「蓮田は?」


「もう帰ったんじゃない?」


「そうか」


 一陽は杏の机へ近づいた。


 黒い油性ペンの跡は、まだ消えきっていない。


『空気読め』

『うざい』

『出てけ』


 その下には、消そうとした跡が残っていた。


「……これ、昨日の?」


 一人の女子が答えた。


「うん」


「朝来たら、もうあった?」


「そう」


「誰が見つけた?」


「杏」


「その時、教室に誰がいた?」


「……何で?」


「確認したいだけ」


「分かんない」


「上履きがなくなった時、最後に見たのは?」


「知らない」


 別の男子が口を挟んだ。声は強いが、視線は机に落ちている。


「そんなの聞いてどうすんの?」


「起きたことを確認してる」


「犯人探し?」


「違う」


 一陽は即答した。


「犯人を探す前に、事実を確かめてる」


 教室が静まる。


「噂だと、杏が莉奈に嫌がらせしたことになってる。でも、誰がいつどこで見たのかは、誰も言えない」


 誰も答えない。


「なのに、杏が悪いって結論だけは、みんな知ってる」


 一陽は教室を見回した。


「それ、おかしくないか?」


 視線が机や窓へ逃げる。


 その時、教室の後ろから声がした。


「……一陽」


 振り返ると、莉奈が立っていた。


 笑っている。だが、片手は制服の袖口を強くつまんでいた。


「羽生田」


「杏のことでしょ」


「ああ」


「何か聞きたい?」


「聞きたい」


「じゃあ、言うね」


 莉奈は笑顔のまま続けた。


「杏、最近ちょっと言い方きつかったんだよ。私に、『本当は嫌なのに無理して笑ってるでしょ』って」


「それだけ?」


「他にもあるけど……忘れちゃった」


 笑顔が一瞬揺れた。


「でも、みんな嫌だったと思うよ」


「みんなって誰?」


「クラスのみんな」


「全員に聞いた?」


「そんなわけないじゃん」


 莉奈は苦笑した。


「でも、そういう空気だったから」


「空気」


 一陽はその言葉を繰り返した。


「便利だな。誰が何をしたか分からなくても、全部説明できる」


 莉奈の笑顔が固まった。指先が袖口から離れ、今度はスカートの脇をつまむ。


「一陽君って、そういう言い方するよね」


「事実だから」


「杏の味方なの?」


「まだ決めてない」


「じゃあ、私が悪いって言いたい?」


「それも決めてない」


 一陽は一歩近づいた。


「ただ、杏に何が起きたのか確認してる」


「……それで?」


「誰かが杏を傷つけたなら、その事実は消えない」


 一陽は机を見る。


「杏の言い方が悪くても、嫌がらせをしていい理由にはならない」


 教室の空気が変わった。


 莉奈だけが一陽を見ていた。笑顔を戻そうとしているのに、口元が動かない。


「……杏のために、そこまでやるの?」


 一陽は少し考えた。


「困ってるなら、放っておけないだけだ」


「嘘」


「……何が?」


「一陽君もなんだ」


「何が?」


「……なんでもない」


 莉奈は目を伏せた。


 一陽は気づいた。


 莉奈は、ただ杏を嫌っているわけではない。


 何かを恐れている。


 だが、今問い詰めても、また笑ってごまかすだろう。「空気」のせいにして。


 まずは事実を集める。


 誰が、いつ、何をしたのか。


 そして、杏が何を言ったのか。


 一陽は教室を出た。


 廊下で美琴が待っていた。壁にもたれていた腕を解き、一陽の顔を覗き込む。


「……どうだった?」


「噂は、事実より先に走ってる」


「……うん」


「次は杏本人に聞く」


「杏ちゃん、たぶん言わないよ」


「だろうな」


「じゃあ、どうするの?」


 一陽は足を止めた。


 杏に正直に話せと言っても、きっと首を横に振る。先生に相談しろと言っても、迷惑をかけるからと笑う。待っているだけでは、何も変わらない。


 このままなら、杏は何もしていないのに悪者にされ、誰にも助けを求められないまま、また一人で耐えることになる。


 それだけは、もう見過ごせなかった。


 噂を止めるには、噂より大きな異物を投げ込む。教室の空気を壊し、全員が無視できない形で事実を表に出す。そのためには、誰かが矢面に立たなければならない。


 杏にその役目を背負わせるわけにはいかない。


 美琴を巻き込むわけにもいかない。


 なら、自分が引き受ける。


 嫌われてもいい。誤解されてもいい。杏を庇ったことで、自分まで悪者にされても構わない。


 杏が一人で沈んでいくのを黙って見ているくらいなら、教室中の敵意を自分に向けさせるほうがましだった。


「言わせる」


「……どうやって?」


「隠せない状況にする」


 美琴が首を傾げる。


「それって……」


「まだ言わない」


 一陽は歩き出した。


「先に、確認することがある」


 顔には、いつもの無表情が戻っていた。


 ただ、美琴には分かった。


 一陽はもう、杏を助けると決めている。


 自分が悪者になることも、嫌われることも、そのために必要なら受け入れるつもりなのだ。


 ――いつものように。


 自分が嫌われることで、誰かを守る。


 だが、今度は逃げるためではない。


 杏を一人で沈ませないために。


 杏が助けを求められないなら、自分が手を伸ばす。矢面に立ち、どれだけ責められても、事実を明るみに出す。


 その覚悟は、もう決まっていた。

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