第23話
昼休み。
一陽が自分の席で弁当を食べていると、後ろの席から声をかけられた。
「大波」
「ん?」
「蓮田ってさ……最近、ちょっとやばくない?」
一陽は箸を止めた。
「何が」
「昨日から、クラスで揉めてるだろ。莉奈たちと喧嘩したって」
「それは聞いた」
「それだけじゃなくて」
男子がスマートフォンを差し出した。
画面には、杏の上履きが映っていた。
泥だらけになった片方の上履きが、校舎裏の植え込みに置かれている。
「これ、どこから?」
「グループに回ってきた。最初に送ったやつは消えてる」
一陽は写真を見つめた。
昨日、杏が上履きをなくしたことは知らない。
まして、校舎裏にあったことなんて――。
写真には、撮影時刻の表示が残っていた。杏が上履きをなくしたと騒ぎになるより、少し前の時間だった。
「それで、蓮田が莉奈に『みんなから嫌われればいいのに』って言ったとか」
「……杏が?」
「らしい」
「誰が聞いた?」
「知らない。噂だって」
「他には?」
「莉奈の悪口を女子に言って回ってたって」
一陽は男子を見た。
「誰が聞いた?」
「だから、噂だよ」
一陽はスマートフォンを返した。
妙だった。
杏は確かに、思ったことをそのまま口にする。
でも、誰かを孤立させようとして裏で悪口を広めるような人間には見えなかった。
「そんなことするなら、本人の前で言うだろ」
「……まあ」
男子が苦笑した。
「蓮田なら、そっちだよな」
「だろ」
そのとき、教室の前を女子二人が通った。
「ねえ、聞いた?」
「聞いた。蓮田、莉奈に謝ったんでしょ」
「でも、莉奈は許さなかったって」
「『もう関わらないで』って」
「それで、あれ?」
女子が一陽のいる教室の中を見た。
小さく笑う。
「自業自得じゃん」
一陽は弁当箱を閉じた。
自業自得。
その言葉が、妙に引っかかった。
二人の会話は、あまりに滑らかだった。まるで、決められた順番をなぞっているように。
「……大波?」
「悪い。ちょっと行ってくる」
「どこ?」
「二年一組」
立ち上がる。
教室を出る。
廊下を歩いていると、別の男子の声が聞こえた。
「蓮田って、昨日からずっと被害者ぶってるらしいぞ」
「マジ?」
「莉奈たちにいじめられてるって、先生に言おうとしてるとか」
「うわ……」
「自分から喧嘩売っといて、それはないよな」
一陽の足が止まる。
振り返ると、男子たちは一陽に気づいて口を閉じた。
「……誰から聞いた?」
「え?」
「先生に言おうとしてるって話」
「いや……聞いたんだよ」
「誰から」
「……知らない」
一陽はそれ以上聞かなかった。
聞いても、同じ答えしか返ってこない。
誰かが言った。
みんなが聞いた。
みんながそう言っている。
でも、その『みんな』の最初には、誰がいる。
――二年一組。
二年一組の前まで来る。
教室の中では、いつも通り女子たちが話している。
杏の姿はない。
「……蓮田は?」
近くの女子に聞く。
「え?」
「杏」
「ああ……保健室じゃない?」
「なんで」
「昨日、靴なくしたからじゃない?」
「それと保健室に何の関係がある」
「知らないよ」
女子はそう言って、友達のところへ戻った。
一陽は教室を見渡す。
机。
椅子。
黒板。
何も変わっていないように見える。
けれど、杏の机だけ妙にきれいだった。
誰かが何度も拭いた跡がある。
机の端には、拭き取った泥が細い線になって残っていた。汚れを消したというより、何かを見えなくしようとした跡に見えた。
それを見て、一陽は昨日の美琴の言葉を思い出した。
『杏ちゃん、何かされてると思う』
そして今。
杏が悪いという噂。
上履きの写真。
知らない誰かが作った『被害者ぶっている』という話。
一陽は、ゆっくり息を吐いた。
「……なるほど」
自分でも驚くほど、声が冷たかった。
そこへ。
「一陽君」
廊下の向こうから美琴が歩いてきた。
「……美琴」
「探してた」
「杏のこと?」
「うん」
美琴は一陽の顔を見て、少しだけ眉を下げる。
「……聞いた?」
「噂なら」
「どこまで?」
「杏が莉奈に悪口を言った。クラスを巻き込んで莉奈を孤立させようとした。自分がいじめられたって先生に訴えようとしてる」
「……そこまで?」
「まだある」
一陽はスマートフォンに届いた写真を見せた。
「上履き」
美琴の目が細くなる。
「……杏ちゃんが持ってた?」
「いや。誰かが撮った」
「私が見たときには、もう汚されてた」
「そうか」
一陽は写真を見た。
泥。
小石。
濡れた布地。
それから、写真の端に映っている植え込み。
「この写真、いつ撮られた?」
「分からない」
「でも、杏が自分で撮った写真じゃない」
「うん」
美琴は少し黙った。
「一陽君」
「ん」
「杏ちゃん、本当に何も言ってないよ」
「……分かってる」
「一陽君、今から何かするつもり?」
一陽は答えなかった。
美琴はその沈黙だけで分かった。
「……やめて」
「何を」
「その顔」
「どんな顔だよ」
「自分が傷ついてもいいと思ってる、苦しそうな顔」
一陽は目を逸らした。
「別に」
「別にじゃない」
「まだ何も決めてない」
「嘘」
美琴の声は小さい。
でも、いつもより強かった。
「一陽君、杏ちゃんを助けたいんでしょ」
「……」
「だったら、杏ちゃんのために勝手に悪者にならないで」
一陽はしばらく黙っていた。
そのとき、廊下の奥から杏が戻ってきた。
「あ」
杏が一陽を見つける。
少し驚いたあと、いつものように笑った。
「一陽」
「……杏」
「どうしたの?」
「お前こそ」
「杏?」
「保健室って聞いた」
「ああ、それ」
杏は首を傾げる。
「行ってないよ」
「じゃあ、どこにいた」
「先生に呼ばれてた」
「何の話」
「……机のこと」
杏は少しだけ笑った。
「先生が、誰がやったか知ってるかって」
「それで?」
「知らないって言った」
「それだけ?」
「うん」
一陽は杏の手を見る。
指先に小さな傷があった。
「……手」
「ん?」
「どうした」
「机、いっぱい擦ったから」
杏は自分の指を見た。
「ちょっと痛い」
「それ、ちょっとじゃないだろ」
「でも、もう取れたから」
杏は笑う。
その笑顔が、昨日より少しだけ不自然だった。
笑う直前、杏の視線が一瞬だけ莉奈のいる方へ向いた。まるで、誰かに見られていることを確かめてから表情を作ったようだった。
一陽はその顔を見て、何も言わなかった。
代わりに、ポケットの中のスマートフォンを握る。
そこには、まだ上履きの写真が残っている。
誰かが杏を傷つけた。
それだけなら、まだ分かる。
でも今は違う。
傷つけたうえで、杏が悪いことにしようとしている。
杏が何を言っても。
杏が何をされても。
「仕方ない」と思わせるために。
一陽は教室の中を見る。
莉奈がこちらを見ていた。
目が合う。
莉奈は、ほんの少しだけ笑った。
その笑顔は、噂を聞いたときの笑い方と同じだった。誰かが先に笑ってみせ、それを周囲に真似させるような、合図めいた笑い方。
一陽はその笑顔を見て、初めて確信した。
――この噂は、偶然広がったんじゃない。
誰かが、広げている。
しかも、写真を流す順番も、言葉の選び方も、杏の反応まで見越している。
そしてその誰かは。
杏が反論できないことを、最初から知っている。




