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俺は善人なんかじゃない  作者: エクレアだった物
第三章「笑顔の向こう側」

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第22話

翌朝。


 杏は、いつもより早く教室に入った。


 前で足が止まる。


 昨日の机。向けられた視線。誰も助けなかった沈黙。すべてが蘇った。


「おはよー」


 返事はない。


 杏が入った瞬間、会話が途切れた。


 自分の席を見る。


 机は元に戻っていた。けれど、脚には昨日なかった傷が増えている。


「……よかった」


 見なかったことにするよう呟き、椅子を引いた。


 座ろうとした瞬間。


 ――べちゃ。


「……え?」


 座面に何かが付いていた。


 触れると、べたつく。指先に透明な糸が伸びた。


「……のり?」


 近くの女子が、杏の反応を確かめるように見た。すぐに目を逸らす。


 杏はティッシュで椅子を拭いた。


「……これ、取れるかな」


 何度擦っても取れない。ティッシュが貼りつき、白い繊維だけが残った。


 押し殺した笑い声が聞こえた気がした。


 杏は椅子を廊下へ運び、水で洗った。


 戻ると、始業のチャイムが鳴った。


 担任が入ってくる。


「蓮田、どうしたんだ?」


「椅子が汚れてた」


「誰か分かるか?」


「分かんない」


「……そうか」


 担任が教室を見回す。何人かが机の下で目配せを交わした。


 誰も何も言わない。


 莉奈も机に向かったままだった。ただ、口元には消えかけた笑みが残っている。


 杏はそれを見た。


 けれど、何も言えなかった。


 授業が始まる。


 昨日なくなった数学の教科書は、机の中に戻っていた。


「……あった」


 ほっとした自分が怖かった。


 教科書を開く。


 ページの間から、小さな紙が落ちた。


『探し物は自分で探しましょう』


 端には赤いインクの染み。


 昨日と同じ文字だった。


 杏は紙を裏返す。何もない。


 周囲を見ても、誰もこちらを見ていない。


 それでも、教室全体が自分の反応を待っている気がした。


 杏は紙を筆箱にしまった。


 捨てることも、先生に見せることもできなかった。


 昼休み。


 杏は弁当を持って、窓際の席へ向かった。


 昨日まで誰かが使っていた場所だが、今日は空いている。


 杏が近づくと、女子たちは黙って椅子を引いた。


「ここで食べよ」


 自分に言い聞かせ、座る。


 弁当を開き、卵焼きを口に入れた。


「……おいしい」


 けれど、隣に座る人はいない。


 女子たちは別の場所で固まっていた。その中心に莉奈がいる。


 莉奈と目が合った。


 一瞬だけ笑い、隣の女子に何かを囁く。


 女子は杏を見て、口元を隠した。


 杏は弁当に視線を戻した。


「……なんだろ」


 卵焼きの味が分からなくなった。


 スマートフォンが震える。


 知らない番号からだった。


『自分が嫌われてる理由、少しは考えたら?』


 送信時刻は数秒前。


 杏は返信せず、スマートフォンを伏せた。


 また震える。


『みんな迷惑してる』


 文面の下に、写真が添付されていた。


 教室の中から撮られた、弁当を開いたばかりの杏の姿。


 杏は息を止めた。


 ずっと見られていた。


 ゆっくり電源を切る。


「……みんなって」


 背中に気配を感じた。


 振り返れなかった。


 放課後。


 杏が靴箱を開ける。


「……あれ?」


 上履きがない。


 隣も、下も、奥も探した。


 見つかったのは、泥のついた紙切れだけだった。


 杏は手を伸ばしかけ、やめた。


 触れたら、また何かが始まる気がした。


「……どこ?」


 しゃがみ込む。


 背後で笑い声がした。


「まだ探してる」


「かわいそう」


「でも自業自得じゃない?」


 振り返ると、三人の女子がいた。


「ねえ。杏の上履き、知らない?」


「知らない」


「本当に?」


「うん」


「そっか」


 杏はそれ以上聞かなかった。


 教室。廊下。体育館。階段。


 探しても見つからない。


 廊下の角を曲がるたび、生徒たちの会話が途切れた。視線だけが追ってくる。


 結局、職員室で予備のスリッパを借りた。


「明日までには返してね」


「はい」


 外へ出ると、もう夕方だった。


 少し歩いたところで、校舎裏の植え込みに何かが見えた。


「……?」


 近づく。


 自分の上履きだった。


 泥で汚れ、片方は濡れている。靴底には小石が挟まっていた。


 誰かがここまで持ってきて、汚した。


 そう考えると、すべてがつながった。


 教科書。椅子。メッセージ。上履き。


 誰かがずっと、自分を見ている。


 杏は上履きを拾い上げた。


「……これ、明日使えるかな」


 汚れを払う。落ちない。


「洗えばいいか」


 その背後。


 二階から莉奈が見ていた。


 隣の女子が小さく言う。


「ねえ、もうやめない?」


「何が?」


「これ」


「……別に」


 莉奈は窓の外を見る。


「杏が自分から何か言わない限り、何も終わらないよ」


「でも……」


「大丈夫」


 莉奈は笑った。


「これくらいで、杏は壊れないから」


 隣の女子は黙った。


 莉奈は窓を閉める。


 ガラスに映った顔から、笑みが消えていた。


 その夜。


 杏は洗面所で上履きを洗っていた。


 水を流し、ブラシで擦る。


「……落ちない」


 強く擦ると、ブラシが指に当たって痛んだ。


 それでも汚れは残った。


 昼間のメッセージ。教科書。椅子。上履き。


 全部、偶然ではない。


 鏡の中の自分が、知らない人に見えた。


「……杏、嫌われたんだ」


 胸の奥が痛んだ。


 泣かなかった。


 泣いたら、誰かの思い通りになる気がした。


 スマートフォンを見る。


 連絡先の『一陽』で指が止まる。


「……」


 電話をかけた。


 呼び出し音が三回鳴る。


 杏は切った。


「……やっぱり、いいや」


 スマートフォンを伏せる。


「大丈夫」


 返事はなかった。


 翌朝。


 美琴は二年一組の前を通り、教室を覗いた。


 杏が一人で机を拭いている。


 机の表面には、黒い油性ペンの跡が残っていた。


『空気読め』


『うざい』


『出てけ』


 何度も擦った跡がある。


 美琴の眠そうな表情が消えた。


「……杏ちゃん」


 杏が振り返る。


「あ、美琴」


「何してるの?」


「机、ちょっと汚れてたから」


「……これ、誰がやったの?」


「分かんない」


「先生には?」


「言ってない」


「どうして?」


 教室の奥で、誰かがこちらを見ている。


 杏は気づいていたが、見ないふりをした。


「言っても、誰がやったか分からないし」


「でも……」


「大丈夫だよ」


 杏は笑った。


 笑顔の形だけを作る。


「美琴が心配することじゃないから」


 美琴の胸が冷たくなった。


 これは、ただの喧嘩じゃない。


 誰かが杏を一人にし、助けを求める前に諦めさせている。


 美琴は初めて思った。


 ――一陽君に、早く伝えないと。


 けれど、その頃。


 一陽にも、杏についての別の噂が届き始めていた。


 そこには、杏が誰にも見せていないはずの上履きの写真まで添えられていた。

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