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俺は善人なんかじゃない  作者: エクレアだった物
第三章「笑顔の向こう側」

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第21話

美琴は、その場から動かなかった。


「……杏ちゃん?」


 名前をもう一度、口にする。


 さっきまで話していた二人の女子が、こちらを見る。


「あ、ごめん。聞こえた?」


「うん」


 美琴はゆっくり近づいた。


「蓮田杏って……二年一組の杏ちゃんだよね」


「たぶん、そう」


「何があったの?」


 二人は顔を見合わせた。


「なんか、クラスで浮いてるらしいよ」


「昨日から急にって聞いた」


「急に?」


「うん。羽生田さんと揉めたとか」


「羽生田……莉奈?」


「そうそう」


 美琴の目が少しだけ細くなる。


「杏ちゃんが、何かしたの?」


「そこまでは知らないけど……」


 一人が声を落とした。


「杏って、思ったことすぐ言うじゃん?」


「うん」


「それで誰かを怒らせたんじゃないかって」


「……それだけ?」


「それだけっていうか……」


 二人とも歯切れが悪い。


 美琴は黙って待った。


 やがて、一人が小さな声で言った。


「机、動かされたとか」


「……」


「物を隠されたって話もあるよ」


「誰が?」


「それは知らない」


「杏ちゃんは?」


「さあ……」


 美琴は俯いた。


 胸の奥に、嫌なものが沈んでいく。


 杏は昔からそうだった。


 嫌なことがあっても、最初に笑う。


 怒るより先に「まあいいや」と言う。


 泣きそうになっても、誰かに心配されるくらいなら我慢する。


 美琴は、それを知っている。


「……ありがとう」


「え?」


「教えてくれて」


 美琴は二人に頭を下げ、その場を離れた。


 廊下を歩きながら、スマートフォンを取り出す。


 杏の名前を探す。


 指が止まった。


 電話をかけようとして、やめる。


「……杏ちゃん、たぶん大丈夫って言う」


 美琴は小さく呟いた。


「絶対、言う」


 だからこそ、直接聞くのが怖かった。


 その日の放課後。


 美琴は二年二組の前まで来ていた。


 教室の中を見る。


 一陽は自分の席で、鞄を整理していた。


「……一陽君」


「ん?」


 一陽が顔を上げる。


「三芳さん?」


「ちょっと、いい?」


「はい」


 一陽はすぐに立ち上がった。


 二人は廊下へ出る。


「どうしました?」


「……杏ちゃんのこと」


 一陽の表情が変わった。


「何かあったんですか?」


「噂を聞いたの」


「噂?」


「二年一組で、杏ちゃんが浮いてるって」


「……」


「机を動かされたり、物を隠されたりしてるって」


 一陽は黙って美琴を見る。


「本人から聞いたんですか?」


「まだ」


「じゃあ、噂だけ?」


「うん」


 美琴は頷いた。


「でも……たぶん、ただの噂じゃない」


「理由は?」


「杏ちゃんだから」


「……」


「杏ちゃん、本当に困ってるときほど『大丈夫』って言うから」


 一陽は目を伏せた。


 昨日の帰り道を思い出す。


 莉奈と会ったとき。


 杏の表情が一瞬だけ変わったこと。


『……ちょっと分かんない』


 そう言っていたこと。


「……昨日」


「はい」


「莉奈と会いました」


 美琴が顔を上げる。


「羽生田莉奈さん?」


「そうです」


 一陽は昨日の出来事を簡単に話した。


 莉奈の態度。


 杏の反応。


 そして、別れ際に言われた言葉。


「『その子、空気読めないよ』って」


「……」


 美琴は黙った。


「それだけなら、ただの悪口ですけど」


 一陽が続ける。


「今日の噂と合わせると、少し気になります」


「私もそう思う」


 美琴は少しだけ息を吐いた。


「だから、一陽君に伝えておきたかった」


「ありがとうございます」


「……一陽君」


「はい」


「今すぐ何かしようとは、思わないでね」


 一陽が黙る。


「まだ本当のことを確認してないから」


「……分かってます」


「本当に?」


「……たぶん」


「そこは『はい』でいいんです」


「はい」


 美琴は少しだけ笑った。


「よろしい」


 そのとき。


 廊下の向こうから、聞き慣れた声がした。


「一陽ー!」


 二人が振り返る。


 杏がこちらへ歩いてくる。


 いつもの杏だった。


「いた」


「どうした?」


「一緒に帰ろ」


 杏は笑っている。


 美琴はその顔を見つめた。


「……杏ちゃん」


「ん?」


「今日、学校どうだった?」


「普通」


「普通?」


「うん」


 杏は少し考えてから、笑った。


「ちょっとだけ変だったけど」


「何が?」


「机が動いてたり、教科書がなくなったり」


 美琴の表情が固まる。


 一陽も黙った。


 杏は二人の顔を見て、首を傾げる。


「……どうしたの?」


「杏ちゃん」


 美琴が静かに聞く。


「誰かに何かされたの?」


「ううん」


「本当に?」


「うん」


 杏は笑う。


「たぶん、みんな杏のこと嫌いになっただけ」


「……」


「だから大丈夫」


 一陽の目から、表情が消えた。


「杏」


「なに?」


「それ、大丈夫じゃないだろ」


「そう?」


「そうだよ」


「でも、杏は平気」


「お前が平気かどうかの話じゃない」


 少し強い声だった。


 杏が目を丸くする。


 一陽自身も、自分が思った以上に声を荒げたことに気づいた。


「……悪い」


「ううん」


 杏は笑った。


「一陽、怒ってる?」


「怒ってない」


「怒ってる顔」


「……怒ってるかもな」


「そっか」


 杏は少しだけ嬉しそうに笑った。


「ありがと」


「何が」


「心配してくれて」


 一陽は答えなかった。


 その横で、美琴は杏を見つめていた。


 笑っている。


 いつも通り。


 でも。


 美琴には分かった。


 杏は今、笑っているのではない。


 笑っていれば、みんなが心配しないと思っている。


 それだけだった。


「……杏ちゃん」


「ん?」


「明日、一緒にお昼食べようか」


「いいよ」


「そのとき、ちゃんと話そう」


「……うん」


 杏は少しだけ視線を落とした。


 そして、小さな声で言った。


「でも……美琴には、嫌な思いしてほしくない」


「どうして?」


「杏のせいで、美琴まで嫌われたら嫌だから」


 美琴は何も言えなかった。


 一陽だけが、杏を見ていた。


 そして、胸の奥で一つだけ決める。


 ――これは、杏が一人で抱える問題じゃない。


 けれど同時に。


 一陽の中には、いつもの考えが浮かび始めていた。


 自分が悪者になれば、杏はこれ以上傷つかなくて済む。


 その考えを、まだ誰にも口にはしなかった。

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