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俺は善人なんかじゃない  作者: エクレアだった物
第三章「笑顔の向こう側」

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第20話

――翌朝。


 杏が教室に入ると、いつもと何かが違った。


「おはよー」


 いつものように挨拶する。


 返事はない。


 何人かと目が合ったが、すぐに逸らされた。友達同士で小声を交わしていた生徒も、杏が近づくと急に黙った。


 自分の席へ向かった杏は、足を止めた。


「……あれ?」


 机と椅子が、教室の後ろへ移動させられていた。自分の席だけだった。


「誰か、動かしたの?」


 近くの女子に尋ねると、女子は一瞬だけ杏を見て答えた。


「……知らない」


「そっか」


 杏は気にした様子もなく、机を戻そうとした。


「杏」


 背後から声をかけたのは、羽生田莉奈だった。


 昨日までならもっと近くで話しかけてきたはずなのに、今は周囲の反応をうかがうように距離を置いている。


「それ、戻さなくていいよ」


「なんで?」


「先生がやったんじゃない? 昨日、杏が授業中うるさかったから」


「杏、そんなに喋ってないよ」


「そうだっけ」


 莉奈は笑った。


 その笑顔は、杏に向けたものというより、周囲に見せるためのものに見えた。


「まあ、いいじゃん。そこでも」


「……うん」


 杏が後ろの席に座ると、近くの男子が椅子を引き、わざと距離を取った。


 誰も何も言わなかった。


 やがて担任が教室に入ってきた。


「おはよう。……あれ? 蓮田、どうしてそんなところにいるんだ?」


「机があっちにあったから」


「誰が動かした?」


 教室が静まり返る。


 何人かが莉奈を見たが、莉奈はすぐに窓の外へ視線を向けた。


「……元に戻しておけよ」


「はい」


 杏が机を引きずって戻すと、側面に貼られた紙が目に入った。


『空気読め』


 杏は紙を剥がし、丸めてゴミ箱に入れた。


 それを見ていた生徒たちは、助けることも笑うこともできず、ただ黙っていた。


 ホームルームが終わる。


 杏が教科書を出そうとすると、数学の教科書が見当たらなかった。


「杏、どうしたの?」


「数学の教科書ない」


「忘れたんじゃない?」


「昨日、入れたよ」


「じゃあ家じゃない?」


「……そっかな」


 杏は少し考え、隣の席の生徒に声をかけようとした。


 しかし、その生徒は杏と目が合う前に教科書を抱えて立ち上がった。


「……ごめん。私、別の子と見るから」


 杏は気づかなかった。


 教室の後ろ、掃除用具入れの陰に、教科書が置かれていたことに。その上には、紙が挟まっていた。


『友達いないくせに』


 昼休み。


 杏は一人で弁当を食べていた。


 顔を上げるたび、近くの会話が途切れる。視線を感じて振り向けば、誰もが弁当やスマートフォンに目を落とした。


 杏は気にしていないふりをして、卵焼きを口に入れた。


「……おいしい」


 その向かいを、女子二人が通り過ぎる。


「ねえ、聞いた?」


「昨日のこと?」


「うん。杏、また余計なこと言ったらしいよ」


「莉奈が怒ってたんでしょ」


「そりゃ怒るよ」


 杏の手が止まった。


 別の女子が、ためらいがちに尋ねる。


「杏、莉奈に何かしたの?」


「何もしてないよ」


「本当に?」


「うん」


「……そっか」


 それ以上、誰も聞かなかった。


 午後の授業が始まっても、杏はいつも通りだった。先生に当てられれば答え、話しかけられれば返事をする。


 ただ、休み時間になると、杏の隣だけが空いた。


 杏が近づけば、そこにいた生徒は別の場所へ移る。莉奈も、以前のように声をかけることはなく、杏と目が合うと他人行儀な笑顔を浮かべた。


 放課後。


 杏が机の中を片付けていると、鞄から紙が落ちた。


『みんな迷惑してるよ』


 杏は紙を見つめ、首を傾げた。


「みんなって、誰だろ」


 近くにいた女子は、答えを知っているような顔で目を逸らした。


 教室の前方では、莉奈が友達と話していた。


「莉奈、もういいんじゃない?」


「何が?」


「杏のこと」


「別に。私は何もしてないよ。みんながそうしてるだけ」


「……そうだけど」


「杏が嫌われるようなことしてるんだから、仕方ないじゃん」


 周囲の何人かが俯いた。


 否定する者はいなかった。


 杏はその言葉を聞いていたが、何も言わず、紙を小さく折ってポケットに入れた。


「じゃあね」


 誰に言うでもなく、杏は教室を出ていった。


 誰も呼び止めなかった。


 廊下を歩き、階段を下りる途中で、杏はスマートフォンを取り出した。


 連絡先を開く。


『一陽』


 指が止まった。


 しばらく画面を見つめたあと、杏はスマートフォンを閉じた。


「大丈夫」


 誰に言うでもなく呟く。


「これくらいなら」


 その日の夕方。


 三年生の教室へ向かう廊下で、美琴は二人の女子が話している声を聞いた。


「二年一組の蓮田って子、知ってる?」


「うん。なんかクラスで揉めてるらしいよ」


「昨日から、みんなで無視してるとか」


 美琴の足が止まった。


「……蓮田?」


 その名字に、聞き覚えがあった。


 杏。


 小学生の頃から知っている、あの子。


 美琴は二人の会話を聞きながら、眉を寄せた。


「……杏ちゃん?」


 その瞬間。


 嫌な予感がした。

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