第16話
翌週。
一陽の日常は、少しずつ変わっていた。
朝、学校へ来る。
授業を受ける。
昼休みに照平や咲と話す。
放課後になれば帰る。
以前と同じようでいて、一つだけ違う。
「ハル、今日暇?」
「暇」
「じゃあ体育館来いよ」
「なんで?」
「バスケ。人数足りない」
「俺、バスケ部じゃないけど」
「知ってる。お前が暇だから」
「理由になってないだろ」
「いいから来いって」
照平に引っ張られ、一陽は体育館へ向かうことになった。
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「……疲れた」
体育館の隅で、一陽は床に座り込んでいた。
「お前、体力なさすぎ」
「普通だよ」
「俺たちと比べるから普通じゃなくなるんだよ」
「それはお前らが異常なんだろ」
照平がボールを抱えて笑う。
断ろうと思えば断れた。面倒だと言って帰ることもできた。それでも来てしまった。そして今、後悔していない。
「でも、楽しかっただろ?」
「まあ」
短い返事だったが、疲労が少しだけ心地よく感じられた。
「ならよし」
一陽はわずかに笑う。
こういう時間も、悪くない。
誰かの問題を解決するわけでも、頼られるわけでもない。ただ友達とくだらないことをする。それだけの時間を、以前の一陽は避けていた。
「ハル、また来いよ」
「気が向いたら」
「絶対来ないやつの返事だ、それ」
「じゃあ、暇だったら」
「それも来ないやつ」
「注文多いな」
二人の笑い声が体育館に響いた。
また来てもいいかもしれない。
そう思えたことが、少しだけ嬉しかった。
体育館を出ると、夕方の校舎にはまだ部活動の声が残っていた。その声を背に、照平と並んで昇降口へ向かう。ついさっきまで一緒に走っていた時間が、そのまま帰り道へ続いているようだった。
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その日の帰り、校門を出たところで咲が待っていた。
「遅い」
「照平に捕まってた」
「知ってる。体育館から声聞こえてたから」
「そんなに?」
「ハルの声、結構通るよ」
「初めて知った」
咲は呆れたように笑う。
「そういえば、今日暇?」
「また?」
「最近みんな俺を誘いすぎじゃない?」
「いいことじゃん」
「……そうなのかな」
誘われるたびに面倒だと思っていたはずなのに、断ったあとの静けさを想像すると、以前ほど安心できない。
「前は、放課後なんて一人で帰ってたから」
「今も一人で帰りたい?」
一陽はすぐには答えなかった。
一人の時間は今も嫌いではない。けれど、体育館で照平と笑い、こうして咲と並んで歩いていると、そのあと一人になることが以前より少し寂しく感じられた。
「……たまには」
「じゃあ今日は?」
一陽は夕方の道を見た。生徒たちに混ざって歩くことが、前ほど煩わしくない。
「一緒に帰る」
「うん」
咲は嬉しそうに笑った。
誘われたから仕方なく、ではない。今日は、自分で選んだ。そのことが思っていた以上に嬉しかった。
二人は校門から駅へ続く道を歩き始めた。体育館での疲れが足に残っているのに、不思議と歩みは軽かった。
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翌日の昼休み。
美琴は教室で一人、弁当を食べていた。
そこへ一陽がやってくる。
「三芳さん」
「大波くん?」
「ここ、いい?」
美琴は少し驚いた。
「うん」
一陽が向かいに座る。
「……珍しいね」
「何が?」
「大波くんから来るの」
「たまにはいいだろ」
「もちろん」
二人で弁当を食べる。
昨日までは、誰かと放課後を過ごすことに戸惑っていた。けれど、照平や咲と歩いた帰り道を思い出すと、今日も自分から誰かのそばへ行ってみようと思えた。
以前なら、沈黙が続けば居心地の悪さを覚えただろう。けれど今は、無理に話題を探さなくてもいい時間を受け入れられる。
しばらくして、美琴が笑った。
「最初に話したときは、もっと怖い人だと思ってた」
「ひどいな」
「ごめん。でも、今は違う」
「どう違う?」
「怖くない。それと……意外と、普通」
「それ、褒めてる?」
「褒めてる」
美琴が笑う。
「大波くんって、普通にしてると普通なんだね」
「俺を何だと思ってるんだ」
「問題を見つけると勝手に首を突っ込んで、自分で全部解決しようとする人」
「……否定しづらい」
「じゃあ、これからは気をつけてね。一人で全部やらないこと」
「努力する」
「……努力なんだ」
「性格だからな」
「なら、私も見てる」
「何を?」
「大波くんが一人で背負おうとしてないか」
一陽は困ったように笑った。
「監視役が増えたな」
「嫌?」
一陽は少し考えた。
以前なら、踏み込まれることを嫌がっただろう。けれど今は、その言葉の奥にある気遣いが分かる。
「……いや。助かる」
美琴は何も言わずに笑った。
その笑顔を見て、一陽もわずかに笑う。
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さらに数日後の放課後。
一陽が靴を履き替えていると、昇降口に美月と凪がいた。
「こんにちは」
「海老名先輩?」
「はい」
凪が手を振る。
「一陽先輩、ちょうどよかった。今日、ちょっと付き合って」
「どこに?」
「写真屋さん。この前話してた写真展の写真、現像したから見てほしい」
「俺が?」
「うん。詳しくなくていいよ。一陽先輩が見てどう思うか聞きたいだけ」
一陽は二人の顔を見た。
特別な知識も、誇れるような感性もない。それでも、必要としてもらえたことが胸に小さな灯りをともした。
「……それなら、いいよ」
「やった」
凪が嬉しそうに笑う。
美月も穏やかに微笑んだ。
「では、行きましょう」
三人で歩き始める。
昇降口を出ると、校門の向こうには駅へ続く道が伸びていた。数日前なら、そのまま一人で帰っていたはずの道を、今日は三人で歩いている。一陽はその違いを意識しながらも、もう立ち止まって考え込むことはなかった。
一陽は、誘いを待っているわけではない。ただ、誘いを断らずに受け入れている。それだけのことが、以前の自分からは想像できない変化だった。
「そういえば、大波くんは写真を撮ったりしますか?」
美月が尋ねる。
「撮らないですね。何を撮ればいいのか分からないから」
凪が笑う。
「じゃあ、今日撮ってみれば?」
「何を?」
「何でも」
「それが一番難しい」
「一陽先輩らしい」
「どういう意味?」
凪は答えずに笑った。
その笑い声につられて、一陽の口元も緩む。
以前なら、からかわれたと思って黙り込んでいたかもしれない。けれど今は、笑い合うことのほうが自然だった。
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写真店を出る頃には、空が少し赤くなっていた。
凪が撮った写真を一枚ずつ見せる。
駅前の景色。
夕方の公園。
校舎の窓。
帰り道の電車。
どれも特別なものではない。
けれど、一陽は真剣に見ていく。
「……これ、好き」
「どれ?」
一陽が指差したのは、夕方の駅前を撮った写真だった。
「これ」
「理由は?」
「人が多いのに、なんか静かだから」
言葉にすると、自分の中にあった感覚が初めて形になった気がした。
凪は少し驚き、美月も写真を見る。
「確かに」
「何?」
「大波くんらしい感想だなと思って」
凪が写真を取り返す。
「じゃあ、これ一番お気に入りにする」
「なんで?」
「一陽先輩が選んだから」
「別に俺が選んだだけだろ」
「それがいいの」
一陽は照れくさそうに視線を逸らした。
自分の言葉が誰かの選択に影響したことが、こんなにも嬉しいとは思わなかった。ただ一枚の写真を選んだだけなのに、自分がここにいていいのだと、ほんの少し思えた。
写真店を出ると、駅前には帰宅する人の流れができていた。さっき見た写真と同じ場所なのに、今はその中に自分もいる。一陽はそのことを、以前ほど遠いものには感じなかった。
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帰り道、凪と美月と別れたあと、一陽は一人で歩いていた。
さっきまでの会話を思い返す。楽しかったと認めるのは、まだ少し照れくさい。けれど、胸の奥に残った温かさは消えなかった。
スマートフォンが震える。
照平からだった。
『今どこ?』
『帰り』
『飯食った?』
『まだ』
すぐに返信が来る。
『じゃあ駅前集合』
『なんで』
『ラーメン』
『お前一人で食えよ』
『友達と食った方がうまいだろ』
一陽は画面を見つめ、少し笑った。
以前なら断っていたかもしれない。けれど今は、一人で食べるラーメンを想像すると物足りなく思えた。
『分かった』
スマートフォンをポケットにしまい、歩き出す。
少し前までなら、「一人でいい」と思っていた。
今も一人の時間は必要だ。けれど、誰かと一緒にいることも悪くない。むしろ、もう一度求めている自分に気づくと、胸の奥がゆっくり満たされていく。
駅前に着く。
「ハル!」
照平が手を振っている。その隣には咲もいた。
「なんで咲までいるんだよ」
「照平が呼んだ」
「俺は?」
「勝手に来ると思ってた」
「ひどいな」
本当は、呼ばれなくても来ていたかもしれない。
そう思った自分に、一陽は小さく苦笑した。
三人で歩き出す。
「何食う?」
「ラーメン」
「俺、今日はチャーハン」
「お前、名前みたいだな」
「意味分からない」
咲が笑う。
「じゃあ、今日はチャーハンで」
「お前ら、人の注文を勝手に決めるな」
くだらない会話と笑いが続く。
以前の一陽なら、そんな時間に意味を見つけられなかったかもしれない。けれど今は、隣で笑う声が途切れないことに、かすかな安心を覚えていた。
一人でいなくても、自分を失うわけではない。
誰かといることで、むしろ自分の中にあったものに気づける。
そう思えるようになったことが、嬉しかった。




