第13話
放課後。
文化祭実行委員が使っている教室には、数人の委員と担当教師が集まっていた。
空気は重い。
誰も口を開かず、机の上の資料だけを見つめている。窓の外では運動部の掛け声が響いていたが、この教室の中には届かないようだった。
机の中央には、美琴がまとめた資料が置かれている。
「それで……」
担当教師が資料に手を伸ばしかけ、途中で止めた。指先が紙の数センチ手前で固まり、視線だけを美琴へ向ける。
「三芳さん。何か確認したいことがあるんだね?」
「はい」
美琴は頷いた。
膝の上で握った指先に力が入る。声は少し震えていた。
それでも、逃げなかった。
「展示物八枚についてです」
委員の一人が、椅子の背にもたれたまま口を開く。
「でも、それって三芳さんが最後に管理してたんじゃ――」
言い終える前に、別の委員が小さく息を吸った。教師の眉がわずかに動き、教室の視線が一斉に美琴へ集まる。
「その前提から確認したいです」
美琴が言った。
言葉が落ちたあと、教室が静かになる。
誰かが息を呑む音がした。椅子の背が軋み、机の下で靴先が床を擦る。
一陽は黙って資料を見ていた。紙の端に置かれた彼の指が、わずかに動く。
やがて、美琴が一枚目の紙を出す。
「第二資料室の鍵の貸出記録です」
「鍵?」
教師が眉を寄せる。資料を覗き込んでいた委員たちも、顔を上げた。
「はい」
美琴は指で記録を示す。
「私が借りた記録のあと、返却記録があります」
「うん」
教師の返事は短かった。視線は記録から離れない。
「でも、その後にもう一度、別の人が借りています」
委員たちが顔を見合わせる。視線が一瞬だけ交わり、すぐに逸れた。誰かが喉を鳴らし、別の委員は机の端に置いた手を引っ込めた。
「……何時?」
「十五時二十八分です」
「それが?」
一人の委員が言った。声には、まだ自分は関係ないという響きがあった。だが、言い終えたあと、彼は教師の顔を窺うように視線を動かした。
「三芳さんが返したあとなら、別に誰かが使っててもおかしくないだろ」
「その通りです」
美琴は答えた。
「だから、私が最後に鍵を持っていたという前提は成立しません」
「……」
誰も答えない。
教師が記録に目を落とし、委員の一人は机の下で足を組み替えた。組み替えた足が椅子の脚に当たり、乾いた音が響く。
一陽が初めて口を開いた。
「次」
短い声だった。
その声に、何人かの委員が反射的に顔を上げる。すぐに目を逸らした者もいた。
美琴が頷く。
二枚目の資料。
「展示物の管理表です」
八枚の一覧。
それぞれに付箋が貼られている。
「この八枚は、同じ時間に、同じ場所から消えたわけではありません」
「でも、最終的にはなくなってる」
「はい」
美琴は頷いた。
「だから、一枚ずつ追いました」
一枚目。
「これは二年一組へ貸し出されています」
二枚目。
「これは一年三組」
三枚目。
「これも二年一組ですが、途中で別の教室へ移動しています」
四枚目。
「貸出記録だけがあります」
五枚目。
「これもです」
六枚目。
「第二資料室から持ち出された記録があります」
七枚目。
「使用場所が空欄です」
八枚目。
「予備です」
美琴は資料を机の上に並べた。
紙が一枚ずつ置かれるたび、教室の沈黙が深くなっていく。委員たちの視線が資料の上を行き来し、誰もが自分の記憶を探るように黙り込んでいた。
「つまり」
一陽が続けた。
「八枚全部を三芳さんが持ち出した、という記録はない」
一人の委員が反論する。
「でも、三芳が鍵を管理してたんだろ?」
声がわずかに上ずった。言い切ったあと、委員は自分の言葉を確かめるように教師を見た。
一陽はその委員を見る。
視線を向けられた委員は、反射的に背筋を伸ばした。椅子の背から離れた肩が、わずかに強張る。
「誰が決めた?」
「え?」
「三芳さんが八枚全部を管理するって、誰が決めた?」
「……それは」
言葉が途切れる。
委員の唇が動いたまま止まり、視線が机の上へ落ちた。
「担当表には、そんな記載ない」
一陽は担当表を持ち上げた。紙の擦れる音が、やけに大きく響いた。教師の目がその紙へ移り、委員たちも息を潜めて見つめる。
「三芳さんの担当は、第二資料室の鍵の管理。展示物全部の管理じゃない」
「でも、実際に鍵を持ってたんだから――」
「鍵を持っていたことと、展示物のすべてに責任を持つことは同じじゃない」
一陽の声が低くなる。
「そこを勝手に繋げたのは誰だ?」
沈黙。
誰も答えない。
視線が机の上へ落ちる。教師もすぐには口を挟まなかった。指先だけが資料の端を押さえ、紙が小さく歪んだ。
一陽は続けた。
「次」
美琴が資料をめくる。
「実際に鍵を借りた人にも確認しました」
委員の一人が少し顔を強張らせる。椅子の脚が床を擦った。周囲の視線がその人物へ集まり、彼は逃げるように目を伏せた。
「……」
美琴はその人物を見る。
「十五時二十八分に第二資料室の鍵を借りた人に聞きました」
「それ、俺だけど……」
声が小さくなる。教師が顔を上げ、一陽の視線もその委員に向いた。
「展示シートを何枚か持ち出したことは覚えてますか?」
「……覚えてる」
「どこへ?」
「一年三組」
「返却しましたか?」
男子は黙った。
唇がわずかに動いたが、声にはならない。隣の委員が彼を見たが、すぐに視線を逸らした。
「……覚えてない」
美琴は責めるような口調ではなく、淡々と言った。
「それが問題なんです」
「……」
「誰かを責めたいわけじゃありません」
美琴は資料を見る。
「でも、返却したか分からない。誰に渡したか分からない。どこに戻したかも分からない。それが何人分も積み重なっています」
一陽が言った。
「なのに、問題が起きた瞬間だけ三芳さん一人の責任になった」
教師が資料を見る。しばらく紙面を追ってから、ゆっくり顔を上げた。委員たちの顔を順に見たあと、ためらうように口を開く。
「……確かに」
その一言で、空気が変わった。
今まで誰も疑わなかった前提が、少しずつ崩れていく。委員の一人が目を伏せ、別の一人は唇を噛んだ。誰も一陽の言葉を遮ろうとはしなかった。
一人の委員が言った。
「でも……大波だって、最初に委員会を責めたじゃん」
「そうだな」
一陽は否定しなかった。
「言い方は悪かった」
委員たちが少し驚く。誰かが目を見開き、教師も一陽へ視線を向けた。
「でも、それと三芳さん一人に責任を押しつけることは別だ」
「……」
「俺が言い方を間違えたからって、事実まで変わるわけじゃない」
一陽は机の上の資料を見た。
「三芳さんを責めた人たちに聞きたい」
静かだった。
一陽の視線が、委員たちを一人ずつなぞっていく。向けられた者から順に、目を逸らしていった。視線を受け止めようとした委員も、数秒と持たずに手元へ目を落とす。
「どうして最初に本人へ確認しなかった?」
誰も答えない。
「どうして鍵の貸出記録を確認しなかった?」
沈黙。
教師の指が、資料の端をゆっくり押さえた。紙が擦れる音だけが、張り詰めた空気の中に残る。
「どうして展示物の移動記録を調べなかった?」
一陽の声が少しずつ強くなる。
「どうして最初から『三芳がなくした』って決めた?」
委員の一人が口を開く。
「だって……最後に鍵を持ってたから」
「だから?」
「……」
「最後に鍵を持ってた人間が、全部の責任を負うのか?」
一陽は一歩前へ出た。
床板が小さく鳴る。
その音に、委員の肩が跳ねた。教師も一瞬だけ一陽の足元へ視線を落とし、すぐに顔を上げる。
「だったら、共同で管理する意味なんてないだろ」
その言葉に、誰も反論できなかった。
一陽は続ける。
「問題が起きたら一番最後に触った人間を犯人にする」
「それで終わりにする」
「それなら、次も同じことが起きる」
「また誰か一人を悪者にして終わらせるだけだ」
教室の空気が張り詰める。
誰かが小さく息を吐いた。けれど、それすら咎められそうなほど、全員が身動きを止めていた。教師の視線が委員たちの間を行き来し、誰も顔を上げようとしない。
「それで本当に文化祭を運営してるって言えるのか?」
誰も答えない。
教師が静かに口を開いた。
「……大波」
「はい」
「君の言っていることは分かった」
一陽は黙って教師を見る。
教師は一陽の目を見返したが、すぐに資料へ視線を落とした。
「ただ、君も最初の段階でかなり強い言い方をした。それで委員との関係が悪化したのも事実だ」
「はい」
一陽の返事は早かった。
「そこについては――」
「俺にも責任があります」
美琴が振り向いた。
「大波くん?」
一陽は続けた。
「俺が最初に感情的になって、委員会を責めた」
「それで話が大きくなった」
「三芳さんを庇うつもりだったけど、結果的に余計に混乱させた」
教師が頷く。
「なら――」
「だから」
一陽は言葉を重ねた。
「今回の件をここまで大きくした責任は、俺にもあります」
美琴の顔が曇った。
「……待って」
「もういい」
一陽は美琴を見る。
「三芳さんは、もう責められなくていい」
「でも……」
「俺が言い方を間違えたのは事実だから」
一陽は笑った。
いつもの、少しだけ人を食ったような笑い方。
けれど。
美琴には分かった。
その笑顔が、どこか無理をしていることが。
一陽の指先が、机の下でかすかに震えていた。
本当は、謝りたくなどないのだ。
自分だけが悪いわけではないと、誰より分かっている。
それでも、ここで反論すれば、また誰かが美琴を責める。
なら、自分が泥をかぶればいい。
そう考えた瞬間、胸の奥で怒りが弾けた。
ふざけるな、と叫びたかった。
自分たちの確認不足を棚に上げて、都合よく美琴一人に押しつけたくせに。今さら自分が少し謝れば丸く収まるような顔をするな、と。
悔しかった。
腹立たしかった。
美琴が傷つけられたことも、それを止められなかったことも、そして今、自分がその怒りを飲み込んでいることも。
けれど、ここで怒りをぶつければ、話はまた美琴から逸れていく。
誰かが「大波が騒ぎを大きくした」と言い出し、最後には、最初と同じように美琴が責められる。
それだけは避けたかった。
だから一陽は、怒りを押し殺した。
自分の中に残った悔しさも、納得できない痛みも、全部まとめて自分の責任にした。
自分が悪者になれば、この場は終わる。
美琴がこれ以上傷つかずに済む。
そう思い込まなければ、立っていられなかった。
一陽は笑った。
笑って、震える指先を握り込む。
本当は、誰かに分かってほしかった。
自分だって傷ついているのだと、怒っているのだと、これ以上平気なふりをするのは苦しいのだと。
けれど、そんな言葉を口にすれば、今まで耐えてきたものが崩れてしまう。
だから一陽は、先に自分を差し出した。
謝罪という形にして、責任という形にして、誰にも奪われないうちに自分から差し出した。
一陽はまた。
自分が悪者になることで。
全部を終わらせようとしている。
その瞬間、美琴は気づいた。
一陽の声は落ち着いているのに、呼吸だけが浅い。
笑顔の奥で、何かを必死に押し殺している。
自分を責める言葉を、まるで誰かに奪われる前に自分から差し出している。
「だから」
一陽は教室にいる全員を見る。
「今回の件について、俺が問題を大きくしたことは謝ります」
「そのうえで、三芳さん一人に責任を押しつけるのは違う」
「そこだけは、撤回しません」
静寂。
誰も動かなかった。
委員の一人が何か言いかけたが、隣の委員に視線を向けられ、口を閉じた。教師はしばらく一陽を見つめたあと、ゆっくり息を吐いた。
「……分かった」
「先生」
「今回の管理については、実行委員全体で見直す」
「はい」
「三芳さん個人の責任として処理することもしない」
美琴が顔を上げた。
「……」
問題は。
終わった。
少なくとも、表向きには。
一陽は小さく息を吐く。
「これでいい」
その声は、安堵ではなかった。
自分を納得させるための、かすかな呟きだった。
美琴がその横顔を見る。
そして。
はっきりと思った。
――よくない。
一陽は、守ってくれた。
けれどその代わりに、自分の痛みを差し出した。
誰にも見えないところで、悔しさも、怒りも、傷ついた気持ちも、全部ひとりで抱え込もうとしている。
そんなのは、優しさなんかじゃない。
ただの自己犠牲だ。
三芳美琴は。
もう、一人で我慢しないと決めた。
だから。
今度は。
大波一陽を一人にしない。
その決意だけを胸に。
美琴は、静かに一陽の隣へ立った.




