↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
俺は善人なんかじゃない  作者: エクレアだった物
第二章 なくした鍵と、言えなかったこと

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
11/54

第11話


昼休み。


大波一陽は、いつもの席で弁当を開いていた。


ただし、今日はいつもと違った。


「……」


向かいの席には誰もいない。


以前なら、狭山照平が適当に椅子を引っ張ってきて、


「ハル、今日購買行かね?」


などと声をかけてくる時間だった。


だが、今日は来ない。


正確には、来ようとしていた。


教室の後ろから一陽を見て、何かを言いかけたあと、別の男子に呼ばれて、そのままそちらへ行った。


一陽は、それを見ていた。


照平と目が合いそうになった瞬間、反射的に視線を弁当に落とした。箸を持つ指先に、わずかに力が入る。呼び止めればいい。いつも通りに声をかければいい。そう思ったのに、喉の奥がひどく乾いて、声が出なかった。


照平の笑い声が、少し離れた場所から聞こえた。


自分のところへ来るはずだった人が、別の輪の中で笑っている。


その事実が、胸の内側を薄く削った。


けれど、何も言わなかった。


「……いただきます」


一人で弁当を食べ始める。


箸先が弁当箱の底に当たる音だけが、妙に大きく響いた。


教室のあちこちから笑い声が聞こえる。


誰かがスマホの動画を見せている。


誰かが文化祭の出し物について話している。


椅子を引く音。机を叩く音。弁当の蓋を閉める音。


いつもと変わらない昼休み。


なのに、教室の空気は一陽の周りだけ薄く冷えていた。誰も露骨に避けているわけではない。ただ、視線が触れそうになると逸らされ、会話の輪が一陽の席の手前で途切れる。そこに透明な壁でもあるようだった。


ただ、自分だけがその輪の外側にいる。


そんな感覚だった。


「大波ってさ」


少し離れたところから声が聞こえた。


「最近、なんか怖くない?」


「分かる。正論ばっか言うし」


「三芳さんの件も、結局あいつが騒ぎ大きくしたんでしょ?」


「先生にも結構言ったらしいよ」


一陽は箸を止めた。


指先から血の気が引いていく。耳だけが妙に鋭くなり、周囲の笑い声や机の擦れる音が遠のいた。その会話だけが、教室の隅々まで響いているように聞こえた。


聞こえている。


当然、聞こえている。


けれど、顔を上げなかった。


弁当の白いご飯が、急に乾いた砂のように見えた。口の中に残ったおかずを飲み込もうとしても、喉がうまく動かない。


「……まあ、そうなるよな」


小さく呟く。


声にした途端、自分で自分を納得させようとしているのが分かった。


自分でも分かっていた。


あの場で黙っていれば、ここまでにはならなかった。


言い方をもっと柔らかくすればよかった。


もっと周りに合わせればよかった。


そうすれば、三芳美琴が責められることもなかったかもしれない。


いや。


逆だ。


あの場で誰も止めなかったら、美琴一人に責任が集中していた。


だから、言った。


間違っていると思ったから。


それだけだった。


「……それだけなんだけどな」


一陽は弁当のおかずを一つ口に入れた。


味がしなかった。


噛んでいる感覚も曖昧だった。舌の上にあるはずの味が、どこか遠くへ逃げている。飲み込んだあとも、胸の奥に固いものが残っていた。


その日の放課後。


一陽が昇降口へ向かっていると、後ろから声がした。


「大波」


振り返る。


同じクラスの男子だった。


「今日、一緒に帰る?」


「……ああ」


一陽が答えると、男子は少し困ったような顔をした。


その表情を見た瞬間、一陽はもう答えを察していた。期待してはいけない。そう思ったのに、胸の奥がわずかに緩んだぶんだけ、次の言葉が深く刺さった。


「ごめん。やっぱいいわ」


「?」


「いや、その……」


男子は視線を逸らした。


「そうか」


「悪いな」


「別に」


それだけだった。


男子はそのまま友達のところへ走っていった。


一陽は靴を履き替える。


上履きを脱ぐ足元が、いつもより重かった。靴箱の扉を閉める音が、がらんとした昇降口に響く。その音にさえ、誰かに見られているような気がした。


その背後で、女子二人が小声で話していた。


「やっぱ大波って、一人になってるよね」


「まあ……本人がああいう感じだし」


「狭山くんも大変そう」


一陽は聞こえないふりをした。


聞こえないふりをするために、靴紐を必要以上に強く結んだ。指先が痛くなるほど引っ張っても、胸の奥で膨らむざらついた感覚は消えなかった。


校門を出る。


一人で歩く。


夕方の久喜羽駅方面へ続く道は、いつもと同じだった。


車が走り、学生が歩き、店の明かりがつき始める。


何も変わっていない。


なのに。


自分の周りだけ、何かが少しずつ消えている。


隣を歩くはずの足音がない。背後から呼び止める声もない。歩道の幅は変わっていないのに、ひどく広く感じた。


「……別に」


一陽は独り言のように言った。


「一人でも困らない」


そう言ってしまえば、簡単だった。


友達が減っても。


話しかけられなくなっても。


誤解されても。


自分が我慢すれば済む。


その考え方は、昔から変わっていなかった。


ただ。


その夜。


スマートフォンを机の上に置いたまま、一陽は何度も画面を見た。


通知はない。


狭山からも。


咲からも。


誰からも。


画面が暗くなるたび、指を伸ばして点ける。何も届いていないことを確認して、また伏せる。静かな部屋の中で、その動作だけが何度も繰り返された。


「……」


一陽はスマホを伏せた。


そして、また裏返す。


通知はない。


胸の奥が、ゆっくり沈んでいく。寂しいと認めてしまえば楽になるのかもしれない。けれど、その言葉を口にした瞬間、本当に誰もいないことを認めることになる気がした。


「……何やってんだ、俺」


自嘲する。


別に寂しいわけじゃない。


そう思おうとした。


けれど、胸の奥に残る小さな痛みまでは消えてくれなかった。


翌朝。


教室へ入る。


いつもなら「おはよう」と返ってくる声が、今日は少なかった。


一陽が扉を開けた瞬間、いくつかの会話が途切れた。誰かがこちらを見て、すぐに目を逸らす。笑い声が一つ、途中で不自然に小さくなった。


一陽は自分の席へ向かう。


足を進めるたび、教室の空気が肌にまとわりつくようだった。誰も何も言わないのに、そこにいるだけで自分が話題になっている気がする。背中に視線が刺さり、肩が無意識にこわばった。


その途中。


机の中に何かが入っていることに気づいた。


紙だった。


一枚のメモ。


一陽は取り出す。


そこには短く書かれていた。


『もう余計なことしないで』


一陽はしばらく、その文字を見つめた。


紙を持つ手が、わずかに震えた。怒りなのか、悔しさなのか、それとも怖さなのか、自分でも分からない。ただ、文字の一つ一つが皮膚の下へ入り込んでくるようだった。


「……余計なこと、か」


紙を折る。


捨てようとして、やめる。


机の中へ戻した。


捨てれば、なかったことにできる気がした。けれど、なかったことにしてしまえば、誰にも届かなかった自分の言葉まで消えてしまうようで、手放せなかった。


そのとき。


「ハル」


後ろから声がした。


振り返ると、狭山照平が立っていた。


「……おはよう」


「おう」


いつもの調子。


だが、照平の顔は笑っていなかった。


「昨日さ」


一陽は黙る。


照平の声が少し強くなった。


その声に、近くの何人かがこちらを見た。一陽は反射的に声を落とす。これ以上、照平まで注目を集めたくなかった。


「お前、一人で帰っただろ」


「たまたま」


「嘘つけ」


一陽は苦笑した。


口元だけを動かした笑いだった。頬の筋肉が引きつり、笑えていないことを自分でも感じた。


「狭山」


「なんだよ」


「お前まで巻き込まれる必要ない」


「は?」


「俺が勝手にやったことだ。だから、お前は普通にしてればいい」


「……それ、本気で言ってんの?」


「本気」


照平はしばらく一陽を見つめた。


その視線が痛かった。責められているわけではないのに、見透かされることが怖かった。


「ハル」


「ん?」


「お前さ」


少しだけ声を落とす。


「自分が嫌われること、軽く考えすぎじゃね?」


一陽は答えなかった。


胸の奥が、ひやりと冷えた。


「別に軽く考えてるわけじゃない」


「じゃあ?」


「……我慢できる」


照平の眉が動く。


「それ、平気って意味じゃないだろ」


「……」


「だったら――」


「狭山」


一陽は遮った。


「俺一人なら、どうにでもなる」


その言葉を聞いた瞬間。


照平の表情が変わった。


怒っている。


いや。


怒っているというより、悲しそうだった。


「……またそれかよ」


「何が?」


「お前が全部一人で背負うやつ」


一陽は目を逸らした。


教室の窓から差し込む朝の光が、机の表面を白く照らしていた。その明るさの中で、自分だけがひどく薄暗い場所にいるように感じた。


「別に」


「別にじゃねえよ」


「大丈夫だから」


「大丈夫じゃないだろ」


「……」


一陽の眉がわずかに動く。


胸の奥が、今度ははっきりと縮んだ。息を吸ったはずなのに、肺の奥まで空気が入ってこない。


「俺が決めることだろ」


「でも……」


「狭山」


一陽が口を挟んだ。


「いいよ」


「ハル?」


「言いたいことは分かったから」


照平が振り返る。


「分かってねえだろ」


「分かってる」


「……」


一陽は何も答えなかった。


答えれば、声が震える気がした。だから、机の端に視線を落とした。指先を握り込むと、爪が掌に食い込んだ。


その日の放課後。


第二資料室。


三芳美琴は、一人で机の上に資料を並べていた。


文化祭で使うはずだった展示物。


管理表。


貸出記録。


教室ごとの使用記録。


そして――。


「……おかしい」


美琴は一枚の記録を見つめた。


紛失したとされている展示用の紙。


八枚。


そのうちの一枚に、妙な記録が残っている。


「これ……」


誰かが持ち出した記録ではない。


だが、保管場所から移動した形跡だけがある。


しかも。


美琴自身が持ち出したことになっている時間と、記録上の時間が合わない。


「……私じゃない」


初めて。


美琴はそう口にした。


今までなら、


「私が悪かったんだ」


で終わらせていた。


でも。


今回は違った。


一陽の言葉が頭に浮かぶ。


――最初から犯人を決めて、その人に全部押しつけたら、調べる意味なんてない。


「……大波くん」


美琴は立ち上がった。


資料をまとめる。


「私も、調べないと」


そして初めて。


誰かに責任を押しつけられるのを待つのではなく。


自分から、その輪の中へ踏み込もうとした。


一方。


校舎の外では、一陽が一人で歩いていた。


背後から誰かが来る気配はない。


いつもなら隣にいる照平も。


少し先で待っている咲も。


今日は誰もいない。


一陽は空を見上げた。


「……静かだな」


風が吹いていた。制服の袖が揺れ、遠くで部活動の掛け声が聞こえる。それなのに、自分の周囲だけ音が抜け落ちているようだった。足音さえ、自分一人分しかない。


寂しい。


そう認めるには、まだ少し意地が邪魔をしていた。


だから一陽は、いつものように自分へ言い聞かせる。


「これでいい」


けれど。


その言葉を口にした瞬間。


胸の奥が、ほんの少しだけ痛んだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。