第11話
昼休み。
大波一陽は、いつもの席で弁当を開いていた。
ただし、今日はいつもと違った。
「……」
向かいの席には誰もいない。
以前なら、狭山照平が適当に椅子を引っ張ってきて、
「ハル、今日購買行かね?」
などと声をかけてくる時間だった。
だが、今日は来ない。
正確には、来ようとしていた。
教室の後ろから一陽を見て、何かを言いかけたあと、別の男子に呼ばれて、そのままそちらへ行った。
一陽は、それを見ていた。
照平と目が合いそうになった瞬間、反射的に視線を弁当に落とした。箸を持つ指先に、わずかに力が入る。呼び止めればいい。いつも通りに声をかければいい。そう思ったのに、喉の奥がひどく乾いて、声が出なかった。
照平の笑い声が、少し離れた場所から聞こえた。
自分のところへ来るはずだった人が、別の輪の中で笑っている。
その事実が、胸の内側を薄く削った。
けれど、何も言わなかった。
「……いただきます」
一人で弁当を食べ始める。
箸先が弁当箱の底に当たる音だけが、妙に大きく響いた。
教室のあちこちから笑い声が聞こえる。
誰かがスマホの動画を見せている。
誰かが文化祭の出し物について話している。
椅子を引く音。机を叩く音。弁当の蓋を閉める音。
いつもと変わらない昼休み。
なのに、教室の空気は一陽の周りだけ薄く冷えていた。誰も露骨に避けているわけではない。ただ、視線が触れそうになると逸らされ、会話の輪が一陽の席の手前で途切れる。そこに透明な壁でもあるようだった。
ただ、自分だけがその輪の外側にいる。
そんな感覚だった。
「大波ってさ」
少し離れたところから声が聞こえた。
「最近、なんか怖くない?」
「分かる。正論ばっか言うし」
「三芳さんの件も、結局あいつが騒ぎ大きくしたんでしょ?」
「先生にも結構言ったらしいよ」
一陽は箸を止めた。
指先から血の気が引いていく。耳だけが妙に鋭くなり、周囲の笑い声や机の擦れる音が遠のいた。その会話だけが、教室の隅々まで響いているように聞こえた。
聞こえている。
当然、聞こえている。
けれど、顔を上げなかった。
弁当の白いご飯が、急に乾いた砂のように見えた。口の中に残ったおかずを飲み込もうとしても、喉がうまく動かない。
「……まあ、そうなるよな」
小さく呟く。
声にした途端、自分で自分を納得させようとしているのが分かった。
自分でも分かっていた。
あの場で黙っていれば、ここまでにはならなかった。
言い方をもっと柔らかくすればよかった。
もっと周りに合わせればよかった。
そうすれば、三芳美琴が責められることもなかったかもしれない。
いや。
逆だ。
あの場で誰も止めなかったら、美琴一人に責任が集中していた。
だから、言った。
間違っていると思ったから。
それだけだった。
「……それだけなんだけどな」
一陽は弁当のおかずを一つ口に入れた。
味がしなかった。
噛んでいる感覚も曖昧だった。舌の上にあるはずの味が、どこか遠くへ逃げている。飲み込んだあとも、胸の奥に固いものが残っていた。
その日の放課後。
一陽が昇降口へ向かっていると、後ろから声がした。
「大波」
振り返る。
同じクラスの男子だった。
「今日、一緒に帰る?」
「……ああ」
一陽が答えると、男子は少し困ったような顔をした。
その表情を見た瞬間、一陽はもう答えを察していた。期待してはいけない。そう思ったのに、胸の奥がわずかに緩んだぶんだけ、次の言葉が深く刺さった。
「ごめん。やっぱいいわ」
「?」
「いや、その……」
男子は視線を逸らした。
「そうか」
「悪いな」
「別に」
それだけだった。
男子はそのまま友達のところへ走っていった。
一陽は靴を履き替える。
上履きを脱ぐ足元が、いつもより重かった。靴箱の扉を閉める音が、がらんとした昇降口に響く。その音にさえ、誰かに見られているような気がした。
その背後で、女子二人が小声で話していた。
「やっぱ大波って、一人になってるよね」
「まあ……本人がああいう感じだし」
「狭山くんも大変そう」
一陽は聞こえないふりをした。
聞こえないふりをするために、靴紐を必要以上に強く結んだ。指先が痛くなるほど引っ張っても、胸の奥で膨らむざらついた感覚は消えなかった。
校門を出る。
一人で歩く。
夕方の久喜羽駅方面へ続く道は、いつもと同じだった。
車が走り、学生が歩き、店の明かりがつき始める。
何も変わっていない。
なのに。
自分の周りだけ、何かが少しずつ消えている。
隣を歩くはずの足音がない。背後から呼び止める声もない。歩道の幅は変わっていないのに、ひどく広く感じた。
「……別に」
一陽は独り言のように言った。
「一人でも困らない」
そう言ってしまえば、簡単だった。
友達が減っても。
話しかけられなくなっても。
誤解されても。
自分が我慢すれば済む。
その考え方は、昔から変わっていなかった。
ただ。
その夜。
スマートフォンを机の上に置いたまま、一陽は何度も画面を見た。
通知はない。
狭山からも。
咲からも。
誰からも。
画面が暗くなるたび、指を伸ばして点ける。何も届いていないことを確認して、また伏せる。静かな部屋の中で、その動作だけが何度も繰り返された。
「……」
一陽はスマホを伏せた。
そして、また裏返す。
通知はない。
胸の奥が、ゆっくり沈んでいく。寂しいと認めてしまえば楽になるのかもしれない。けれど、その言葉を口にした瞬間、本当に誰もいないことを認めることになる気がした。
「……何やってんだ、俺」
自嘲する。
別に寂しいわけじゃない。
そう思おうとした。
けれど、胸の奥に残る小さな痛みまでは消えてくれなかった。
翌朝。
教室へ入る。
いつもなら「おはよう」と返ってくる声が、今日は少なかった。
一陽が扉を開けた瞬間、いくつかの会話が途切れた。誰かがこちらを見て、すぐに目を逸らす。笑い声が一つ、途中で不自然に小さくなった。
一陽は自分の席へ向かう。
足を進めるたび、教室の空気が肌にまとわりつくようだった。誰も何も言わないのに、そこにいるだけで自分が話題になっている気がする。背中に視線が刺さり、肩が無意識にこわばった。
その途中。
机の中に何かが入っていることに気づいた。
紙だった。
一枚のメモ。
一陽は取り出す。
そこには短く書かれていた。
『もう余計なことしないで』
一陽はしばらく、その文字を見つめた。
紙を持つ手が、わずかに震えた。怒りなのか、悔しさなのか、それとも怖さなのか、自分でも分からない。ただ、文字の一つ一つが皮膚の下へ入り込んでくるようだった。
「……余計なこと、か」
紙を折る。
捨てようとして、やめる。
机の中へ戻した。
捨てれば、なかったことにできる気がした。けれど、なかったことにしてしまえば、誰にも届かなかった自分の言葉まで消えてしまうようで、手放せなかった。
そのとき。
「ハル」
後ろから声がした。
振り返ると、狭山照平が立っていた。
「……おはよう」
「おう」
いつもの調子。
だが、照平の顔は笑っていなかった。
「昨日さ」
一陽は黙る。
照平の声が少し強くなった。
その声に、近くの何人かがこちらを見た。一陽は反射的に声を落とす。これ以上、照平まで注目を集めたくなかった。
「お前、一人で帰っただろ」
「たまたま」
「嘘つけ」
一陽は苦笑した。
口元だけを動かした笑いだった。頬の筋肉が引きつり、笑えていないことを自分でも感じた。
「狭山」
「なんだよ」
「お前まで巻き込まれる必要ない」
「は?」
「俺が勝手にやったことだ。だから、お前は普通にしてればいい」
「……それ、本気で言ってんの?」
「本気」
照平はしばらく一陽を見つめた。
その視線が痛かった。責められているわけではないのに、見透かされることが怖かった。
「ハル」
「ん?」
「お前さ」
少しだけ声を落とす。
「自分が嫌われること、軽く考えすぎじゃね?」
一陽は答えなかった。
胸の奥が、ひやりと冷えた。
「別に軽く考えてるわけじゃない」
「じゃあ?」
「……我慢できる」
照平の眉が動く。
「それ、平気って意味じゃないだろ」
「……」
「だったら――」
「狭山」
一陽は遮った。
「俺一人なら、どうにでもなる」
その言葉を聞いた瞬間。
照平の表情が変わった。
怒っている。
いや。
怒っているというより、悲しそうだった。
「……またそれかよ」
「何が?」
「お前が全部一人で背負うやつ」
一陽は目を逸らした。
教室の窓から差し込む朝の光が、机の表面を白く照らしていた。その明るさの中で、自分だけがひどく薄暗い場所にいるように感じた。
「別に」
「別にじゃねえよ」
「大丈夫だから」
「大丈夫じゃないだろ」
「……」
一陽の眉がわずかに動く。
胸の奥が、今度ははっきりと縮んだ。息を吸ったはずなのに、肺の奥まで空気が入ってこない。
「俺が決めることだろ」
「でも……」
「狭山」
一陽が口を挟んだ。
「いいよ」
「ハル?」
「言いたいことは分かったから」
照平が振り返る。
「分かってねえだろ」
「分かってる」
「……」
一陽は何も答えなかった。
答えれば、声が震える気がした。だから、机の端に視線を落とした。指先を握り込むと、爪が掌に食い込んだ。
その日の放課後。
第二資料室。
三芳美琴は、一人で机の上に資料を並べていた。
文化祭で使うはずだった展示物。
管理表。
貸出記録。
教室ごとの使用記録。
そして――。
「……おかしい」
美琴は一枚の記録を見つめた。
紛失したとされている展示用の紙。
八枚。
そのうちの一枚に、妙な記録が残っている。
「これ……」
誰かが持ち出した記録ではない。
だが、保管場所から移動した形跡だけがある。
しかも。
美琴自身が持ち出したことになっている時間と、記録上の時間が合わない。
「……私じゃない」
初めて。
美琴はそう口にした。
今までなら、
「私が悪かったんだ」
で終わらせていた。
でも。
今回は違った。
一陽の言葉が頭に浮かぶ。
――最初から犯人を決めて、その人に全部押しつけたら、調べる意味なんてない。
「……大波くん」
美琴は立ち上がった。
資料をまとめる。
「私も、調べないと」
そして初めて。
誰かに責任を押しつけられるのを待つのではなく。
自分から、その輪の中へ踏み込もうとした。
一方。
校舎の外では、一陽が一人で歩いていた。
背後から誰かが来る気配はない。
いつもなら隣にいる照平も。
少し先で待っている咲も。
今日は誰もいない。
一陽は空を見上げた。
「……静かだな」
風が吹いていた。制服の袖が揺れ、遠くで部活動の掛け声が聞こえる。それなのに、自分の周囲だけ音が抜け落ちているようだった。足音さえ、自分一人分しかない。
寂しい。
そう認めるには、まだ少し意地が邪魔をしていた。
だから一陽は、いつものように自分へ言い聞かせる。
「これでいい」
けれど。
その言葉を口にした瞬間。
胸の奥が、ほんの少しだけ痛んだ。




