第10話
翌週。
俺の周りから、少しずつ人が減った。
最初は気のせいだと思っていた。
朝、教室に入る。
「おはよう」
返事はある。
ただ、それだけだった。
昨日までなら、そのまま雑談が続いた。今は、俺が近づくと会話が途切れ、席に座ると少し離れたところで再開する。
露骨ではない。
だからこそ、余計に分かる。
「ハル」
後ろから照平が声をかけてきた。
「何」
「今日、一緒に昼食うぞ」
「いつも食ってるだろ」
「今日は特にだ」
照平は笑った。いつもの笑顔だったが、目は笑っていない。
「……お前、気づいてるだろ」
「何が」
「周り」
「別に」
「またそれかよ」
照平がため息をつく。
「本当に、嫌われても平気なのか?」
俺は少し考えた。
「平気ではない。でも、我慢できる」
「それと平気なのは違うだろ」
「……まあな」
俺は鞄を机の横に置いた。
「俺一人なら、どうにでもなる」
「その考え方が嫌なんだよ。お前、昔からそうだ。自分一人ならどうにでもなるって言って、勝手に最後まで背負う」
「効率がいい」
「人間関係に効率持ち込むなよ」
そのとき、教室の入口から女子が二人、声をかけてきた。
「狭山くん、ちょっといい?」
「何」
「大波くんとは、あんまり一緒にいない方がいいと思う」
照平の表情が消えた。
「何それ」
「悪口じゃなくて。大波くん、実行委員と揉めてるし、先生にも反抗したって」
「してない」
俺が言うと、二人は気まずそうにこちらを見た。
「でも、そう聞いたから」
「誰から?」
「……みんな」
「みんなって誰だよ」
答えは返ってこなかった。
照平が立ち上がる。
「お前らさ」
「照平」
俺は止めた。
「いい」
二人は気まずそうに教室を出ていった。
「……今のも、いいのかよ」
「仕方ないだろ」
「仕方なくねえよ」
「噂なんて、そのうち消える」
「その『そのうち』まで、お前が一人で耐えるのか?」
俺は答えなかった。
◆
昼休み。
購買へ向かう廊下で、声が聞こえた。
「あれ、大波じゃない?」
「なんか怖くない?」
「正論ばっか言って、人のこと考えないタイプでしょ」
「三芳さんも大変だよね」
足が止まりそうになった。
けれど、そのまま歩いた。
聞かなかったことにする。それが一番楽だった。
「ハル」
隣にいた照平が立ち止まる。
「今の、聞こえた?」
「聞こえた」
「お前、怒らないの?」
「怒っても意味ない」
「そうやって全部諦めるなよ」
「諦めてない」
「じゃあ何なんだよ」
俺は少しだけ考えた。
「俺が何を言っても、今は信じてもらえない」
「だからって黙って受け入れるのか?」
「違う。三芳さんが責められなくなったなら、それでいい」
照平の顔が歪んだ。
「……やっぱり、それか。お前、自分が悪者になることを選んでるだろ」
「そんなわけない」
「あるだろ」
「ない」
「俺は、お前が悪者になるのを見てるだけってのは無理だからな」
「別に頼んでない」
「頼まれてないからやるんだよ」
そう言って、照平は先に歩いていった。
俺はその背中を見送った。
――面倒な奴だ。
でも、少しだけありがたかった。
◆
午後。
担任に呼ばれ、職員室へ行くと、文化祭実行委員の担当教師がいた。
「大波くん。先日の第二資料室の件です。実行委員の間で、あなたの言動が問題になっています」
「どの辺がですか」
「実行委員会の運営を否定するような発言をしたことです」
「否定はしてません」
「そういう意図でなくても、そう受け取った人がいる。今後、文化祭関連の場所には必要以上に立ち入らないでください」
「分かりました」
「それから、三芳さんへの接触も控えてください」
俺は顔を上げた。
「どうしてですか」
「あなたが関わることで、また話が大きくなる可能性があります」
「三芳さんは何か言いましたか?」
「本人からではありません」
「なら、本人に確認してください」
先生の声が少し強くなる。
「あなたは正しいことを言おうとするあまり、周囲との調整を忘れるところがあります。正しいかどうかだけでは、学校は動きません」
その言葉は、妙に残った。
職員室を出ると、文化祭実行委員の女子と目が合った。彼女は何も言わずに目を逸らし、俺も何も言わなかった。
これ以上関わらなければ、騒ぎは収まる。
そう思った。
教室に戻ると、机の中に一枚の紙が入っていた。
『三芳さんに謝れ』
俺は紙を折りたたみ、ポケットに入れた。
◆
放課後。
咲が俺の机の前に立った。
「ハル。今日、先生に呼ばれたでしょ」
「よく知ってるな」
「見てたから。文化祭から外されるかもしれないって、本当?」
「知らない」
咲は俺の目を見た。
「今なら、まだ戻れるよ」
「何に?」
「普通に」
その言葉に、少しだけ笑った。
「もう無理だろ」
「そんなことない」
「俺が謝れば、たぶん収まる」
「じゃあ謝るの?」
「俺が悪かった部分なら」
「違う」
咲が首を振った。
「ハルが悪いことにされてる部分まで、全部引き受けるの?」
俺は黙った。
「それは違うよ」
学校では、一度貼られた印象は簡単には剥がれない。誰かが「面倒な奴」と言えば、その前提で見られる。誰かが「三芳を庇って実行委員を敵に回した奴」と言えば、何を言ってもそういう人間として理解される。
「咲」
「何?」
「俺、そんなに悪い奴に見える?」
咲は一瞬だけ黙った。
「……見えない」
「じゃあ大丈夫だ」
「そういう問題じゃないよ」
咲は小さく息を吐いた。
「ハル自身が、自分のことをどうでもいいと思ってるのが一番怖い」
「どうでもいいわけじゃない」
「じゃあ大事にして」
その言葉に、返事ができなかった。
◆
翌日。
さらに一人、俺から離れた。
今までたまに一緒に帰っていたクラスメイトの男子だった。
「悪い、大波。しばらく一緒に帰れない」
「分かった」
「実行委員の奴らと揉めてるって聞いたし。俺まで巻き込まれたくないんだ」
「それでいいと思う」
「……ごめん」
「謝るなよ」
彼が去っていく。
胸の奥が、少しだけ痛かった。
それでもいい。
三芳さんが一人で責任を背負うよりは、俺一人が孤立する方がいい。
その日の昼休み、俺は一人で弁当を食べた。
いつもなら照平が隣にいて、咲が別のクラスから来る。今日は照平はバスケ部の用事、咲は委員会だった。
別に、それだけだ。
本当に、それだけのはずだった。
なのに、教室が妙に広く感じた。
「大波って、今日も一人じゃん」
「まあ、そうなるよね」
「自業自得じゃない?」
笑い声が聞こえる。
俺は顔を上げず、弁当を食べ続けた。
――これでいい。
そう思った。
けれど、箸を持つ指先が震えていた。喉の奥が詰まり、胸の奥では「違う」と言いたい声が何度も跳ね返っていた。
それでも、顔を上げなかった。
俺が嫌われるだけなら。
俺が一人になるだけなら。
それで誰かが傷つかずに済むなら。
それでいい。
そう繰り返すたび、胸の奥の痛みを押し込めた。けれど、その言葉はもう、納得ではなく、崩れそうな自分を繋ぎ止めるための細い糸になっていた。
その日の放課後。
第二資料室の前に行くと、三芳さんがいた。
「大波くん」
「何してるの」
「待ってた」
「俺を?」
「うん。今日、教室で見た。一人で食べてた」
「たまたま」
「嘘」
即答だった。
「私のせいだよね」
「違う」
「違わない」
「三芳さんのせいじゃない」
「じゃあ誰のせい?」
答えられなかった。
美琴は俺を見た。
「私、もう一人で我慢しないって言ったよね」
「言った」
「だから、今度は私が言う。大波くんも、一人で我慢しないで」
俺は笑おうとした。
「……難しいな」
「知ってる」
「どうすればいい?」
美琴は少し考えてから言った。
「分からない」
「おい」
「でも、分からないから一緒に考えればいいんじゃない?」
俺は返事をしなかった。
ただ、その言葉だけは妙に胸に残った。
学校という狭い場所で、一人になるのは簡単だった。
誰か一人を悪者にするのも、噂を信じるのも、自分だけが我慢すればいいと思うのも。
難しいのは。
一人で解決しないことだった.




