第5話 お裁縫
「あ、お兄ちゃん。シャツの第二ボタン、取れかかってるよ」
ある日の午後。 一緒にお茶を飲んでいた私は、お兄ちゃんの胸元の異変に気がついた。 これは……チャンス! 今度こそ、私の女子力と家庭的な一面をアピールする絶好の機会だ!
「ふふん、私のお裁縫セットの出番だね。そのままじっとしててよ、今縫ってあげるから」 「いや、後で自分で――」 「いいからいいから! 動かない!」
私はカバンから小さな裁縫ポーチを取り出すと、ソファに座るお兄ちゃんの足と足の間にスッと入り込み、胸元にピタリと顔を近づけた。
(ち、近っ……!)
目の前にはお兄ちゃんの広い胸板。先日の『無香料の中性洗剤』で洗われたシャツからは、洗剤の匂いではなく、お兄ちゃん自身の体温の匂いがかすかに香ってくる。 上目遣いで見上げると、無表情なお兄ちゃんとバッチリ目が合った。
(この距離感……絶対にドキドキしてるはず! 私も心臓爆発しそうだけど、ここは落ち着いて、家庭的な手つきを……!)
私が針に糸を通し、いざシャツの生地に針を刺そうとした、その瞬間。
パシッ。
お兄ちゃんの大きな手が、私の両手を包み込むように握り止めた。
「えっ……!?」
(手を、握られた!? もしかして、私の顔が近すぎて、お兄ちゃんも我慢できなくなっちゃったとか……!)
「ちょっと脱ぐから待て」 「……は?」
バサッ。
お兄ちゃんは私の手をどかすと、躊躇することなくその場でシャツのボタンを外し、スッポとあっさり脱ぎ捨ててしまった。
「きゃーーっ!?」
唐突に露わになる、引き締まった上半身。
(な、なんで急に脱ぐの!? 目の前で上半身裸!? 目のやり場が……って、ちょっと筋肉ついてるし!)
私が顔を真っ赤にして両手で目を覆いながらも指の隙間からガン見していると、お兄ちゃんは私から針と糸を奪い取り、冷静に解説を始めた。
「着用したまま縫製を行うと、体勢による布地の歪みが生じて縫い目の張力が均一にならない。強度が著しく低下する非合理的な行為だ」 「えっ、あ、うん……」 「それに、お前、今そのまま布に縫い付けようとしただろ。ボタンホールの厚みを計算して『糸足』を作らないと、布が引っ張られてすぐにまた取れるし、生地が傷むぞ」
そう言うと、お兄ちゃんは迷いのない手つきで針を動かし始めた。 布とボタンの間に絶妙な隙間を空け、そこにぐるぐると糸を巻き付けて頑丈な『糸足』を作り、最後に裏側で見事な玉結びを決める。
その間、わずか十数秒。
「よし、完了だ」
お兄ちゃんは何事もなかったかのようにシャツを着直した。 相変わらずの、見事なまでの無表情。 私の『至近距離でドキドキ大作戦』も『家庭的アピール』も、彼の『ミリ単位の張力計算とプロ並みの裁縫技術』の前に一瞬で粉砕されてしまった。
「うぅ……私の女子力……お裁縫スキルまで負けてる……」
恥ずかしさと情けなさで、私はソファの端っこで膝を抱えて丸くなった。 すると、お兄ちゃんが私の胸元……Tシャツの襟ぐりに視線を向けた。
「お前、襟元の糸がほつれてるぞ。今直すから」 「え?」
(えっと、どうしよう。この場合、さっきのお兄ちゃんみたいに脱がなきゃだよね!? 変に恥ずかしがったりしなければ、お兄ちゃんは平然としてるはず。冷静に、冷静に!)
私は覚悟を決め、両手をシャツの裾に伸ばして、上にぐっと持ち上げた。
その瞬間。 ピンッ。
お兄ちゃんは、私のTシャツから飛び出していた短いほつれ糸を、指先で器用にちぎり取った。
「取れたぞ。……って、なんで脱いでるんだ?」 「だって、裁縫は脱いでからしないとってお兄ちゃんが!」 「針を使わないし、その必要はないぞ」
上半身下着姿になった私に動揺することもなく、淡々と状況説明をするお兄ちゃん。
「~~っ! そういうことは先に言ってー!!」 「? よくわからないが、わざわざボタンを直そうとしてくれた気遣いは悪くない。サンキュ」
私の心臓を散々振り回しておいて、お兄ちゃんはコーラをプシュッと開けて飲み始めた。
もうっ、お兄ちゃんのバカァ!! 私は真っ赤になった顔のまま、慌ててTシャツの裾を力いっぱい引き下ろすのだった。




